新型認知症アデノウイルス

まとあし

第1話 いったい誰が、何の目的で……

 ウイルス。


 人の体には60兆個の細胞がある。

 人の腸内には、その10倍を超える600兆から1000兆個の細菌が存在する。そして、ほとんどの細菌にはファージ(細菌ウイルス)が感染していると考えられ、その数は細菌総数を10倍は上回ると推測される。

 ウイルスは私たちの体に深く深く入り込んでいる。人に益を与えるもの、害を及ぼすもの、無害なものまで様々だ。


 人とウイルスは切っても切れない関係であり、その関係性をゲノム解析により調べる試みが2010年ごろから盛り上がってきている。


 一方で、1978年に巨大ウイルスのクロレラウイルスが発見された。そして2014年にクロレラウイルスのひとつATCV-1 (Acanthocystis turfacea chlorella virus 1)が喉で検出された。そしてそれが認知機能に影響を及ぼしているらしいという、思いがけない報告が発表された。

 ATCV-1に感染していた人たちは、感染していない人たちに比べると、視覚情報処理の能力が約10%低下している可能性があると。


 さらにマウスでATCV-1の影響を調べる実験が行われた。マウスの腸管内にATCV-1を注入して、6週後に行動試験を行ったところ、ウイルス接種を受けたマウスでは未接種の対象よりも学習と記憶の機能に低下が見られた。また、学習、記憶などに必要な神経経路が存在する脳の海馬にはこれらの経路に関わる遺伝子発現に異常が見られた。

 これらの研究結果から、人間の身体には無害でも、認知能力を低下させるウイルスが存在することが明らかになった。ただし、ATCV-1ウイルスが人間に感染する経路はまだはっきりしておらず、緑藻の生える淡水や湖などを避ける必要はないとのことだ。


 時は進み、202X年。

 防衛省市ヶ谷地区にある防衛研究所。

「桂さん、こんにちは。」

「これは、毛利君先生。お世話になっております。いつもの部屋をご用意しておりますので、どうぞあちらで。」

 今日は依頼元の桂さんの所に報告に来ている。

 おれは、大江 広大、16歳。毛利先生と桂さんの研究対象の実証実験の被験者だ。


「いつもぞ足労をおかけして申し訳ありません」

「いえいえ、とんでもないです。お世話になってる私どもが訪問するのは当たりまえです。桂さん、いつも忙しそうだし」

「そう言ってもらえると助かります。毛利先生への依頼案件が最近どんどんきな臭くなって来ておりまして。上からも報告をせっつかれて居る次第で。で、いかがだったでしょうか?」

 毛利先生は疫学の研究者で、ATCV-1系ウイルスの国内の感染率調査及び亜種や新種の調査研究のまとめ役を行っている。他の疫学研究所や大学の先生たちと協力して、国内の感染予防対策と罹患患者の受け入れ態勢を構築中だ。


「桂さん、電話でもお話したとおり、感染率が3%を超えました。自覚症状が薄いことから、問題にはなっていないようですが、自然治癒が望めないので将来に向けて非常にまずい状態になっています。感染経路は全体像はつかめていません、ただ多くが健康食品の配布サンプルや屋台の該当販売でしたので、罹患は自然発生では無く、人為的なものでしょう」

「例の健康食品の会社は公安に連絡して調査中です。どこの誰かがわかると良いのですが、コントロールされたダミー会社の線が濃厚ですので、尻尾を捕まえるのも難しいと考えています」

「それから桂さんの心配されていた、人から人への感染は幸いにも起こって居ません。爆発的に広がることは今のところ無いでしょう」

「人から人へうつらないのが何よりです。亜種や新種はありましたか?」

「それも今のところなさそうです。我々もなぜ脳機能に低下が起こるのか、そのメカニズムを解析しようと必死になっていますが、まだわからないことが多くて。たぶん、この騒ぎを起こしている連中もそのメカニズムがわかっていないので改良できないのでしょ。相手よりも先に解析して大きな被害が出る前にどうにかしたい」

「そこは毛利先生はじめ、研究者の方々にお願いをするしかありません。どうぞ、よろしくお願いします」

 既に重要な話は電話で報告済で有ったのか、確認程度の流れで進む。


「ところで桂さん、ここの来て、きな臭いとは?」

「機密情報ですが、すぐにでも公開される情報なので、お話します。ATCV-1系ウイルスの広がりは日本だけでしたよね? そのため、人為的なのか日本固有の風土病なのかわからなかったわけですが。北アメリカやヨーロッパ、東アジア、中東でも罹患者が見つかったと報告が入りました」

「それは……我々が人為的な行為による攻撃の可能性が高いと報してから数か月。隠す必要が無くなったため広域で無差別攻撃を始めたと考えられますね」

「えぇ、我々防衛省もこれはテロ行為との判断をしています。これからは各国とも連携を行いながら、ウイルステロと戦う方向で行くことになりそうです」

「そうでしたか。桂さん、我々も協力を惜しむものではありません。科学的な根拠やデータはこちらで用意しますので、遠慮なく言ってください」

「毛利先生、ありがとうございます」


 おれは2人の話を聞くだけで暇だった。なぜここに連れてこられたのか? それは、おれは感染被害者で感染症状の脳機能の低下を防ぐ治療薬の被験者だからだ。おれの症状は他の人よりも重く、そのまま病状が進むとのような行動しか取れなくなっていたかもしれない。それを見かねた毛利先生が両親と国と話をつけて、手元に引き取り育ててくれている。そう、間近で症状を見るために。


「やぁ、広大君、調子が良さそうだね」

「はい」

「日記は毎日書いてる?」

「はい。でも、半日くらい前のことしか覚えていられなくて」

「そっか。今日は美味しいもを食べて帰ってね」

「はい」


「毛利先生、彼と同じくらいの症状の患者の発生率は高くないとは言え、問題ですね」

「感染すればウイルスの宿主として生き続けるだけ。そんな細菌兵器の開発をどこかの誰かが企んでいるかも知れませんね」


 それから更に2年後。テロはすっかり無くなり、桂は防衛省を去ることになった。

「桂さん、お疲れさまでした。結局、ATCV-1系ウイルスのテロはあれから一度も有りませんでしたね。各国が本腰を入れた調査を行ったのが功を奏したのでしょうか。どちらにしても今日で退官ですね。お疲れさまでした」

「毛利先生、後をよろしくお願いします。国としては、様子見の期間も終わり、後は毛利先生の他数名の研究者の方に引き続き研究をお願いする、としてしまいました。もっとしっかり対応していかなくてはならないのに、私の進言が力及ばず申し訳ない」

「それは仕方のないことです。むしろ今後も研究費の予算確保を行って頂けて、有難く思っています。後のことは任せてください」


 そして、時は更に進み、203X年。

 ATCV-1ウイルスによる認知機能障害ではなく、もっとも一般的な風邪のウイルスとして有名なアデノウイルスに認知機能障害を起こさせるようにした無差別テロが始まった。2週間前に新型認知症アデノウイルスが見つかったのだが、自覚症状が出にくく、潜伏期間のことも考えると、ひと月前にはばら撒かれたことになる。


「拡散が止まりません。2週間前に見つかった新型認知症アデノウイルスが猛威を世界中で振るっています。国民の皆さん、決して家から出ず、誰かが訪ねてきても配給配達人で有ることが確認できるまで決してドアを開けないでください。もし、家族に発熱が見られたら、速やかに新型認知症対策センターまで連絡をください。決して独断で外出することが無いようにしてください。繰り返します。決して独断で外出することが無いようにしてください」


 テレビやラジオ、インターネットを通して、同じ警告が繰り返される。新型認知症アデノウイルスは2週間で全世界20万人強の感染者を生み出した。拡散は止まらない。


 いったい誰がこの種を撒いたのか……。

 人類に未来は有るのだろうか。


「毛利先生、お久しぶりです。桂です。今、話をよろしいでしょうか?」

「これはこれは、桂さん。お久しぶりです。大変なことになってしまいましたね。えぇ、今なら時間を取れます。大丈夫です」

「時間も無いと思いますので、ズバッと聞きます。今回のこのテロに対応できるのでしょか?」

「アデノウイルスは感染力は高いが、ATCV-1ウイルスと異なり、体内に留まり続けることが難しいウイルスです。ここ10年の研究でウイルスが直接的に認知機能障害を起こすわけではないことがわかりました。無害とは行きませんが、認知機能障害の後遺症は大きくはないでしょ。ただ、このままでは少しの障害が残る可能性は高いです。とりあえず、感染しなければなんの問題もありません。徹底した感染予防を行ってください」

「小さくない被害が出るようですが、これも対策費を捻出できなかった私の責任や国の責任です。これからの毛利先生の活躍に期待します」

「はい。長い戦いになるでしょうが、皆さんの生活を守るため、努力を惜しまない所存ですので、ご安心ください。では、また」


 それから2週間後、新型認知症アデノウイルスの猛威は治まり、2か月後には完全に終息した。しかし、脅威が去ったわけではない。将来、さらに感染力が強く、症状も顕著なウイルスが開発されないとも限らない。


 その頃、おれは毛利先生と共に研究室に居た。おれの脳機能障害は10年の研究を経て治療により改善されて来ていた。この研究結果が人類を細菌無差別テロの破滅から救えるのか、それとも焼け石に水となるのか、未来はわからない。ただ、この研究がいざと言う時に役立つよう、努力を続けるだけだ。


 毛利先生とおれの研究は続く。


 終わり。

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