第三章 第三話「そのぷるぷるした甘味を、せめてひと匙だけ」

 私と千景さんが部室で手を触れあっていると、遅れてやってきた剱さんがわなわなと震えて立ち尽くしていた。

 剱さんの足元にはスクールバックとマンガ雑誌が落ちていて、まるでショックのあまりに落としてしまったようにも思える。

 そのマンガ雑誌は私にとって親しみのあるものだった。


「剱さん……。それって『少年ジャック』だよね?」


 私は床に落ちている雑誌と剱さんの顔を交互に見つめる。


「もしかして、剱さんも……」

「読まねえよ。……こ、これは……部室の前に落ちてたのを拾っただけだ!」


 剱さんは雑誌を拾うと、すでにテーブルの上に置いてあった千景さんの『少年ジャック』の上に叩きつけるように置いた。

 そして、手をつないで向かい合っている私と千景さんに歩み寄ってくる。


「それよりも……。仲、よさそうっすね、伊吹さん。……昨日まではテントから出てくる気、なかったはずのに。……どうしたんすか?」


 高身長の剱さんが千景さんを見下ろすので、どう見ても大人と子供の関係にしか見えない。

 低く重苦しい声も相まって、私も身がすくむ思いになってしまった。


 千景さんは私をじっと見つめた後、剱さんを見上げる。


「……いつまでも……隠れてると、迷惑と思った……から」


 そのように無難な感じの説明をした後、「ごめんなさい」と頭を下げるのだった。


「そ……そっすか」


 素直に謝られたから拍子抜けになったのかもしれない。

 剱さんは威圧感を和らげると、私たちから離れた場所で椅子に腰を下ろし、黙ってしまった。

 しかし、表情は相変わらずムスッとしている。


「あぅぅ……。剱さん、なんか怒ってる?」

「別に。……本を読むから、話しかけんな」


 そう言いながら、自分の鞄から大きな一冊の本を取り出した。

 本は大判で、表紙にはたくましい体つきの男性が構えている写真が載っている。

 そう言えば剱さんは空手を習っているはずなので、空手関係の本かもしれない。


 剱さんは本を大きく開き、私たちの視線を遮る壁のように構えて、読みふけり始めた。

 剱さんから恐ろしげな空気を感じて私は委縮いしゅくしてしまったが、ほたか先輩と千景さんはそんな様子を気にしようともせず、剱さんに近寄っていく。


「ねぇねぇ、美嶺みれいちゃん……。本、上下がさかさまだよ?」

「うん……読んで、ない」


 その指摘に、剱さんは取り乱すように慌てふためいた。


「こ、これは……。……空手の型をいろんな角度から見て研究してるだけっすよ!」


 そう言って、頑なに本を逆さまに持ったまま、変えようとしない。

 それどころか、色々な角度に傾けて見始めるしまつだ。


 なんか嘘っぽい。

 私は何を隠しているのだろうと、剱さんをじっと観察する。

 さっきの『少年ジャック』だって、部室の前に落ちてたっていうのは嘘なんじゃないかな。

 剱さんは男勝りの女の子だし、別に少年マンガを読んでいたって違和感はない。

 それなのに「読まない」とわざわざ言った理由は何なのだろう?

 今読んでいる空手の本だって、本をさかさまに見て参考になるなんて思えない。

 読んでいるフリだけで、心はここにあらずという感じもする。


 私は怪しんで剱さんを見つめているが、ほたか先輩は疑問に思っていないようだ。

 剱さんの読んでいる本をのぞき込むように見ながら、感心したように見入っている。


「さすがは美嶺ちゃん。強くなるために、色々と試してるんだね!」

「そ、そおっすね。……こう、視点を変えると、見えてくるものもあるんすよ!」

「視点を変える……かぁ」


 ほたか先輩はそうつぶやきながら、部室の中を見渡し始める。

 その視線がテーブルの上に落ち着いた時、先輩は「あっ」と声を上げた。


「そうそう! 美嶺ちゃんが来たから、プリン食べよっ!」

「プリン?」


 剱さんもその言葉につられて、テーブルに視線を移す。


「あ、さては『山百合』のプリンでは? アタシ、かなり好きっすよ」

「……知ってる。美嶺さん、常連だから……」


 そう答える千景さんには、もう昨日までのような緊張は感じられない。

 剱さんにも秘密を知られてしまったから……ということはあるのだろうけど、千景さんの中で少しだけ「ヒカリさんと千景さんの境目」が薄まってきていることを感じられて、私はうれしくなった。


 そして、剱さんが千景さんのお店の常連ということも新情報だ。

 私が千景さんと知り合う前から触れ合っていたと思うと、少しだけ剱さんがうらやましくなった。


「伊吹さんのお店も、連休となると混みそうっすよね。……確か、ゴールデンウィークならではのフェアもあったはず」

「うん。……父も母も、とても忙しそう」


 すっかり打ち解けたように話す二人。

 その会話を聞いていたほたか先輩は「あっ」と声を上げた。


「そう言えばみんな! 今週末のキャンプだけど、ゴールデンウィークの最初の日だって忘れちゃってた! ……みんな、都合は大丈夫……?」


 ほたか先輩が心配そうな顔をするが、首を横に振る人は誰もいない。


「……問題、ない。シフトの調整は、できてる」

「アタシも大丈夫っすよ。むしろ来週の月金が平日なんで、そもそも長い予定は入れてないっす」

「私も大丈夫ですっ! ……むしろ、ゴールデンウィークって言っても家にこもってばかりなので、キャンプが一番楽しみなんですよぉっ!」


 私は楽しみにしている気持ちを伝えたいので、両腕を振り上げて全身で答えた。


「そっかぁ。よかった! じゃあ、明日はキャンプの準備をするよーっ!」


 ほたか先輩も腕を振り上げて笑う。



 しかし、千景さんはそんな先輩の肩に手を置き、首を横に振り始めた。


「ほたか。……明日は、ダメ」

「え……。どうして、千景ちゃん?」


 千景さんは壁にかけられているカレンダーを指さす。


「明日は祝日。……昭和の日」


 カレンダーでは、確かに四月二十九日の金曜日は赤い色になっていた。

 ほたか先輩は赤く染まった二十九の字を見つめ、みるみると青ざめていく。


「わ……忘れてた……。どうしよう……。明日は準備ができないよぉ」

「ほ、ほたか先輩。落ち着きましょうよ。なんだかわかりませんが、とりあえずプリンを食べて」


 しかし先輩は必死に首を横に振る。


「だめだよぅ! ……その魅惑のプリンを食べると、お姉さんはとろけ過ぎて、何にもできなくなっちゃうの!」

「えええ……。なんですか、その恐ろしげな効果は……」

「母のプリンは……リラックス効果、抜群。だから……お昼休みにしか、出せない」

「あぅぅ。千景さん。そのプリンを部活に持ってきたってことは、今日は休む気満々でしたね?」


 千景さんを問い詰めると、申し訳なさそうにコクリとうなづいた。

 ほたか先輩はがっくりと肩を落としながら、千景さんを振り返る。


「……千景ちゃん、ごめんね。プリンは準備が終わってからにするね」

「問題、ない」


 そう言ってプリンを発泡スチロールの箱に戻そうとする千景さん。

 私はプリンの香りを思い出すだけでよだれがあふれてしまい、必死に千景さんの手を止める。


「あぅぅぅ……。準備は明日にしましょうよ……。今はそのプリンを……。プリンをっ!」


 しかし、ほたか先輩はそんな私を背中から抱きしめ、強引にプリンから引き離してしまった。


「ごめんね……。ましろちゃん、ごめんっ!」

「あぅぅうぅ~~!」

「うちの学校はカレンダーに厳密なのっ……! 休むのも部活の一環だからって、学校は完全に閉じられちゃうの。……例外は大会があるときぐらい。だから、絶対に今日中に準備しなきゃ、キャンプはできないのよぉ!」


 ほたか先輩は涙声になって崩れ落ちてしまう。


 ……私も悲しい。

 このプリンは食べることが出来ないかもしれない。

 なんとなく、そんな運命を感じてしまう。


 私もほたか先輩と一緒になって、床に崩れ落ちていくのだった……。

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