第一章 第八話「迫りくるお姉さん」

「はぁっはぁっはぁっ……」


 運動不足なのに廊下と階段を全力で走ったので、息が上がってもう動けない。

 剱さんからなるべく遠くまで逃げたかったのに、二〇〇メートル程度を走っただけで疲れ果てるなんて、我ながら情けなかった。

 なんか、今日はよく走ってる気がする。


 周囲を見渡すと、ここは部室棟の前の広場だった。

 私の教室付近の窓がよく見える。

 いつまでも広場にいると剱さんに見つかってしまうので、部室棟の横にある木立こだちの中にとっさに姿を隠すことにした。

 木が群がっていると言っても広くはなく、奥のほうに進むとすぐに崖になっていた。崖はコンクリートで固められ、三メートルほど下には校庭に抜ける小道が通っている。

 ここは行き止まりだけど、身を隠すにはちょうどよさそうだ。


「はぁっ……はぁっ……。少し休んだら、逃げなくちゃ……」


 なんでいつも、肝心なところで失敗するんだろう。

 神様が私にだけ、特別いじわるをしているとしか思えない。

 こんなモブキャラのような一般市民をいじって、何が面白いのかなぁ……。


 自分の運命を呪って深いため息をついたとき、どこからか私の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。


「え……、もう見つかっちゃったの?」


 私は体をこわばらせ、周囲を見渡す。

 確かに私を呼ぶ声がする。

 でもなんか、剱さんよりも優しく明るい声だ。

 どこからともなく「ましろちゃ~ん、ましろちゃ~ん」って聞こえる。

 声のする方向がよくわからず、木の陰からそっと広場を覗いてみた時だった。


 背後の崖の下からヌッと顔が出てきた。


「ほ……ほ……ほたか先輩?」


 そこに現れたのは、まぎれもなく憧れのほたか先輩だった。

 まさか人が現れるなんて思わない場所からの出現に、私は硬直してしまう。

 ベランダの外から降りてきたこともあったし、ほたか先輩って訓練を積んだ特殊部隊員かなんかだろうか。

 そんな驚きなどいざ知らずというように、ほたか先輩は崖からするりと登ってきた。


「見つかってよかったぁ! 探してたんだよ!」


 ほたか先輩は満面の笑みを浮かべ、私の手をやさしく握ってくれている。

 私は動揺しながらも、かろうじて口を開いて、一つの質問を口にした。


「まさか、そこの崖を登ってきたんですか? 確か、三メートル以上の高さがあったはず……」

「階段を使うと遠回りになっちゃうでしょ? ましろちゃんを見つけたのがうれしくって、まっすぐ登ってきちゃった!」

「普通は登ってきませんよぉ!」

「え、そう? これだけ足掛かりがあれば余裕だよ?」


 ほたか先輩は、それが当たり前のことのように笑顔で答えた。

 崖を見下ろして観察すると、壁はコンクリートと石で塗り固められている。確かに石のでっぱりは多いし、そこに手足をかければ登れそうだ。

 でも、普通は登らないと思う。

 三メートルの垂直の壁を、それもスカート姿で軽々と登るのが普通だとは思いたくない。

 ニコニコしているほたか先輩を見ていると、ツッコむのも無駄に思えてくるけれど……。


「あの……どうしたんですか?」


 気を取り直してたずねると、ほたか先輩は、待ってましたとばかりに私に抱き着いてきた。

 久々の柔らかな感触が体を包み込み、至福の気持ちに誘われる。


「登山部に入ってほしいの!」


 それはもう、単刀直入の一言だった。

 先輩に抱きしめられれば、何も考えずに「入ります」と答えてしまいそう!

 だけど、詳しく聞かないまま判断するのはあまりに危険。

 入学の書類で「部活必須」という文字を確認しなかったぐらいに危険なことなのだ。

 慎重には慎重を重ねたほうがいい気がしてきた。


 そういえば……。ほたか先輩はこんなにも魅力的なのに、部員が入ってないのはおかしい気がする……。

 そう考えると、何か大きな落とし穴があるような気になってきた。

 私が言いよどんでいるからなのだろう。

 ほたか先輩は私の顔色をうかがうように見つめてくる。


「ましろちゃんに問題なければでいいんだけど……。できれば登山部に……入って欲しいな」

「わっ、私……体力ないですし!」

「大丈夫だよ! 重い荷物はお姉さんが背負うから……」


 握られた手を放そうとしたが、ほたか先輩の手は吸い付いたように離れない。


「詳しいお話をしたいんだけど、部室まで来てもらっても……いいかな?」

「えっと……えっと……私、ちょっと用事を思い出しまして……」


 私が離れようとすると、ほたか先輩は強引に迫ってくる。

 ひょっとして、甘い蜜で誘われて、部室でパクっと食べられちゃうのかもしれない。

 だから部員が誰もいないし、巨大な芋虫がいるのかもしれない。

 私は変な妄想で頭がいっぱいになり、この木立の中から脱出しようと後ずさった。

 しかし、ほたか先輩も私の気持ちを察したのか、さっきよりも手を強く握りしめてくる。


「おいしいお菓子もあるよ!」

「それじゃ、子供を誘拐するみたいじゃないですかぁ~」

「大丈夫、大丈夫。怖くないから。お姉さんがやさしくするから」

「大丈夫って言われるぐらいに怪しいものはないですよぉ~」


 私があからさまに嫌がっても、ほたか先輩は引き際を見失ったのかグイグイと迫ってくる。

 私は無理やりに先輩を引き離し、木立を抜けて部室棟の広場に躍り出た。

 あとは一気に逃げるだけだ!

 そう思って足の指先に力を込めたとき、頭上から低い女性の声が響き渡った。


「そこにいたかーっ!」


 聞き覚えのある声の方向を、私はとっさに目で追う。

 その視線の先、ちょうど私の教室の近くの窓辺に、彼女の姿があった。


「つつつ、剱さん……!」


 私と剱さんの視線がぶつかり合う。

 見つかってしまった。


「おい、そこで待ってろ!」


 剱さんは鋭い目つきで私をにらんだかと思うと、ふっとその姿が見えなくなった。


 見つかった。

 ここに来るんだ。

 隠れなきゃ!

 剱さんが階段を下ってここに来るまで、走ればきっと三〇秒もかからない。

 危機に直面し、私の生存本能があらゆる可能性を模索する。

 私の視線は隠れる場所を探し求め、木立の中から出てきたほたか先輩を見つけた。


 そして閃いた。

 そう。ここは部室棟。

 登山部の説明を聞くふりをして、部室に隠れればいいんだ。


「ほたか先輩! やっぱり部活の説明を聞かせてください! ぜひ部室でゆっくりと!」

「え、いいの? 本当に? お姉さん、うれしいな!」

「いいから、早く行きましょう!」


 私はほたか先輩の背中を押して、登山部の部室に急ぐ。

 ほたか先輩の意外な一面を、この時はまだ知る由もなかった……。

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