第一章 第五話「小さくて大きな女の子」

「……あぅぅ。またぶつかっちゃった……」


 こんなに連続で人とぶつかるなんて、今日は厄日なのかもしれない。

 廊下を曲がろうとした瞬間、目の前に誰かが現れたのだ。

 先生から逃げることばかりを考えてたせいで、曲がり角の先に人がいる可能性を見失っていた。

 

 フラフラした頭で周囲を見渡すと、床には何冊もの本が散らばっている。

 きっとぶつかった時に、相手の人が落としてしまったんだろう。

 申し訳なく思って拾おうしたとき、開いたページに視線が釘付けになってしまった。


『おっぱい山特集』

『北海道 西クマネシリ岳とピリベツ岳の神秘』

『世界のおっぱい山』


 ……大きく書かれた見出しと共に、お椀型の双子のような山の写真。

 お山の頂上には「それ」としか思えないような突起があり、まさに見出しの通りだった。


 どんな人がこんな本の持ち主なのだろうと思った瞬間、「ん……はぁ……」となまめめかしい声が私の腕の中から漏れ出してきた。

 そして、なんだか夢心地のようなふわふわの手触りが私の右手を包み込んでいる。

 ふと視線を落としたとき、その正体が分かった。


うわわぁぁ……。こんなところにも、おっぱい山が!

 右手からあふれるほどの大きなふくらみ。

 そしてその持ち主の女の子は、目元を隠すような長い前髪の隙間から左目だけをのぞかせて、私をじっと見つめ上げていた。


「……離して」

「ごごご、ごめんなさい!」


 私はとっさに右手を離し、彼女と一緒に立ち上がる。

 一緒に並んで立っていると、彼女はとても背が低いことが分かった。

 身長は一四〇センチぐらいだろうか。私よりも頭一つ分小さい。

 私と同じ一年生なのかもしれない。


「ケ、ケガはない?」

「……。問題、ない」


 彼女はぼそぼそっと小さな声でつぶやくと、床に散らばった本を集め始めた。

 私も慌てて手伝うことにする。

 落ちている本は何冊もの大きなリュックサックのカタログだった。


「あ、あの。……リュックが好きなの?」


 本当は『おっぱい山』について聞きたかったけど、胸に触ってしまったので聞けなかった。

 ここで聞いたら『女子なのにおっぱい星人』だって勘違いされてしまう。



 しかし、彼女の回答は得られなかった。

 彼女が話すよりも先に、先生が立ちふさがったからだ。


「あ……あまちゃん先生……」

「空木さんっ。これ、ど~うぞっ」


 先生に無理やり手渡されたのは、部活動紹介のプリント一式と入部届の紙だった。


「絶対に登山部に入れとは言わないわぁ。好きな部活を選んで、今日の下校までに入部届を提出するんですよぉ~」


 先生はニコニコと笑っているが、言い知れぬ迫力がみなぎっている。


「自分で決めなければ、先生が勝手に登山部に決めちゃいますよぉ~」

「あぅぅ。横暴ですよ~! 反対、はんた~い!」


 私が腕を振り上げながら叫ぶと、先生は脇に抱えていた書類を私に見せつけるように突き出してきた。


「あらあら。入学の時の書類に書いてありましたよぉ。部活動は必須で、進級の条件でもあると。……そして四月二十日、つまり今日この日までに決めなければ、学校側が生徒の素養に従って決めてよいと。……ほら、ここにご両親のサインもいただいておりますしぃ~」


 先生が指さす書類の片隅。

 そこには確かに、お母さんのサインとハンコがあった。

 よくよく思い出すと、私自身が入学の書類をまともに読まずに親に渡して、それっきりだった気がしてくる。


「あぅぅ……。私、体力もないし、登山の素養なんてないですよぉ……」

「体力は誰でもがんばればつくわぁ~。じゃあ、先生、待ってますよぉ~」


 そう言って去っていく先生の背中を見つめ、私は力なくうずくまった。

 そんな私を不憫ふびんに思ってくれたのか、小さな女の子はやさしく私の肩に触れてくれる。


天城あまぎ先生は……きっと、本気。後悔しないように、せめて……自分で決めたほうがいい」


 彼女の声は小さくとぎれとぎれだけど、やさしさに満ちていた。

 彼女は無表情ながらも穏やかな瞳で私を見つめている。

 前髪の隙間から少しだけ見えている左目はとても大きく、そして吊り目がち。

 透き通ったまなざしは私の心を射抜くようだった。

 私はその瞳にすっかり魅了されてしまい、言われるがままにうなづいた。


「はい……。そうします」


 美少女にさとされるなら、本望だ。

 ゆっくりと立ち去っていく美少女を、私はいつまでも見つめていた。

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