第十二章 ビタートラップ

 十一月も中旬になったある日、衝撃的な出来事があった。逃走中の沢柳から悟郎のスマホに電話が掛かってきたのである。


「もしもし、矢吹悟郎さんのスマホですか?沢柳です」

音声が余りよくなくて聞き取り難いが、沢柳と言ったように聞こえたので悟郎は驚く。

「矢吹です。沢柳さんって、ホントですか?」

「えぇ、飯田のファミレスでお会いした沢柳です」

「今どこにいるんですか?私に何か御用ですか?」

興奮して矢継ぎ早な質問をしてしまう。

「居場所は言えません。あなたに話したいことがあるんです、私は無実です。罠に嵌められたのです」

疲れた声音ではあるが、必死さが伝わってくる。

「分かりました。そういうことなら話を聞きます。仰って下さい」

「いや、電話では詳しいことは話せません。会って話したいのです」

「会うってどこで?」

「中軽井沢の長瀬家の別荘まで、一人で来ていただけますか。そこで全てをお話しします」

「承知しました。一人で行きます。いつ行けばいいですか?」

「急ですが、今晩の七時にきていただきたいのです。それから、警察にはまだ連絡しないで下さい。あなたに全部話し終えたら、必ず自首するのでお願いします」

どのように返答すべきか少し考えこむ。腕時計を見ると、まだ昼前なので時間的には問題ない。

「もしもし、聞こえますか?」

間が空いたので、沢柳は焦れたのだろう。

「分かりました。警察には連絡しません」

悟郎は沢柳の申し出をすべて飲もうと決心した。

「今晩、七時、長瀬家の中軽井沢別荘でしたね」

「はいそうです、くどいようですが、私と会うことは、警察には絶対連絡せずに、一人で来て下さい。約束が破られた事が分かったら、私はすぐさま逃走します」

「約束は必ず守ります。沢柳さんも、警察に自首するという約束を守って下さい」

「私も約束します。それでは、今晩」

電話はそこで切られた。受信記録を見ると、発進元は公衆電話と表示されていた。


 悟郎は迷った挙句、聡理にだけは伝えておこうと思い、聡理のスマホに連絡を入れた。電話に出た聡理は、事の成り行きに驚くが、悟郎が一人で殺人容疑者と会うのは危険だとして、警察に連絡するべきと主張した。沢柳との約束なので警察には連絡できないと答える悟郎に対して、聡里は強く訴えかける。

「せめて何処で会うかだけでも教えて。お願い。何時、何処で沢柳と会うの?」

「今夜七時に会うけど、場所は言えないよ。沢柳は、自首すると約束したんだ。俺も約束を守らなければならない」

「でも心配だわ。どうしよう。私、じっとしていられない」

「沢柳から話を聞いたら、すぐに連絡するよ。それまで、心配だろうけど待機していてくれないか」

「わかった、だけど決して無茶しないと約束してね。お願いよ」

「うん、約束する。無茶はしない。じゃ電話切るよ」

 悟郎は一方的に電話を切ると、軽井沢行きの準備に取り掛かった。


 軽井沢へは、マイカーで行くことも考えたが、交通の渋滞や、万が一の事故などがあるといけないので、新幹線とレンタカーを使って行くことに決めた。新幹線を使えば、三時間もあれば充分であったが、余裕を見て午後三時に家を出ることにした。

 次に、別荘に着いたらどのような展開になるのか予想してみた。沢柳は別荘で会うと言っただけで、別荘の室内で話し合うとは言っていない。落ち合った後、別の場所に移動する可能性もある。あれこれ考えていると、別荘が現在どうなっているのか無性に気になり、ふと気が付いたのが、以前訪ねたことのある別荘管理事務所であった。そこで早速電話して別荘の様子を聞くことにした。

電話に出たのは運よく、訪ねた時に会った男性職員だったので、悟郎の問い合わせに対し快く答えてくれた。その電話で知り得たことは概略、以下のようなものであった。


≪長瀬家の別荘はその後、誰も住んでいない。売りに出されているが、殺人があった事故物件との風評が広がって買い手はついていない。建物の維持管理は、管理会社が長瀬家に頼まれて、月に数回、建物内に入り窓を開けて換気したり、室内を掃除したりしている。数日前に、管理会社の清掃人が、建物内に入ったが、誰かが入り込んだような痕跡はなく、何の異常も無かった≫


 丁重に礼を述べて電話を切り、改めて考えを整理してみたが、今晩、沢柳と出会った後、何処で、どのように話合いがなされるのかは、依然として予測不能であった。


 その夜、悟郎は軽井沢駅前のレンタカー会社で借りた車を運転して、中軽井沢の長瀬家の別荘に向かっていた。途中のドライブインでコーヒーを飲んで、時間調整したので、別荘には、七時少し前に到着する見込みであった。別荘までの道は、以前、行ったことがあるのでカーナビをセットするまでもない。

 別荘地の幹線道路を外れて、細い舗装道路に入り、しばらくすると見覚えのある砂利道の入口に差し掛かった。浅間石の石積みの門柱があり、ヘッドライトに“これより私道、立ち入り禁止”と書かれた小さな看板が、照らし出されている。悟郎は、慎重にハンドルを操作して、砂利道に車を乗り入れた。両側は鬱蒼とした針葉樹の林であり、闇を一層深いものにしている。左カーブを回り込むと、その先は緩やかな上り坂になっている。なおも進むと坂の上に、月光に照らされた黒く大きな別荘のシルエットが現れた。

 悟郎は車寄せに車を止め、エンジンを切り、ヘッドライトを消した。途端に辺りは深い闇に包まれる。ドアを開け降り立つが、そこは深い闇が蟠っている。車寄せの覆いに遮られて月の光りが差し込まないからだ。闇に目が慣れるのを待ちながら、聞き耳を立てる。聞こえるのは、針葉樹の梢を揺らす寒々とした風の音だけであった。

 その時、辺りが急に明るくなった。玄関灯が点灯したのだ。ガチャリと音がして、扉が開き、中から人が歩み出てきた。

「一人ですか?」

声を潜めて問いかけてきたのは、沢柳であった。

「私、一人です。他に誰もいません」

沢柳は、車に近づき車内を覗き込む。

「警察にも連絡してないでしょうね?」

「勿論です。約束は守ります」

「いいでしょう。では、別荘に入って下さい」

 沢柳が開けてくれた扉から、別荘の建物内に入る。玄関フロアは薄暗く、廊下の先にわずかな光が漏れている。沢柳は、靴を履いたまま付いてくるように言い、先に立って光が漏れてくる方に歩いて行く。

「どうぞ、こちらへ」

 室内は、シャンデリアが灯されており明るかった。そこは重厚な感じがする大きな部屋で、来客の応接などに使われる部屋のようであった。十人以上は座れそうな革張りの大きな応接セットが中央にあり、左側の壁には山小屋風の暖炉、もう片方の壁際には、バーカウンターがあって、その横には隣室に通じるドアがあった。そして正面の窓には分厚いカーテンが引かれていた。


「ずっとここに隠れていたのですか?」

ソファーに座った悟郎が聞く。

「いえ、ここではなく、付近の無人の別荘に潜んでいました」

沢柳も向かい側に腰かけて答える。無精ひげを生やし、頬が削げている。

「そうですか。この辺りの別荘のことはよく知っているんですね」

「えぇ、この別荘に住み込んでいたので、この辺りのことは良く知っています」

「この別荘には、どのようにして入り込んだのですか?」

悟郎は抱いていた疑問を投げかける。

「それは簡単なことです。裏口のスペアキーを、返さないで持っていましたから」

「なるほど」

「それよりあまり時間が無いのです。実は、一時間後に真犯人がこの別荘に来ます」

「ホントですか?真犯人がここに来るのですか?」

予想外の成り行きに、悟郎は戸惑う。

「必ず来ると私は信じています。それでお願いがあるのですが、真犯人がやってきたら、隣の部屋に隠れて、私と犯人のやり取りを聞いて欲しいのです。やり取りが済んだら、合図するので出てきて下さい」」

「なんでそんなことを。私が納得できるように詳しく話して下さい」

沢柳の意図が良く分からない。

「わかりました。彩乃さんが来るまで、まだ余裕があります。私の知る全てをお話します」

「えっ!今なんて! 彩乃さんがここに?」

悟郎は驚きのあまり、声が引き連れる。

「ええ、彩乃さんが仁藤殺しの犯人です。少し長くなりますが順序建てて話します」

沢柳はそう前置きして話し出した。


「長瀬家の運転手になり、彩乃さんと最初に会ったその時から、私は彩乃さんに憧憬の念を抱くようになりました。最初の頃は、会長もまだ確りしていて、会長を東京本社へ送り迎えすることが、私の主な仕事でしたが、会長の認知症が進むと、別荘に引き籠ってしまったので、私の仕事は、彩乃さんのエステ、美容院、フィイットネスクラブ、買い物などへの送迎が主なものになりました。私は彩乃さんと二人きりで車で過ごす時間が長くなるにつれ、彩乃さんへの想いは更に膨らみました。そんな私の想いを、家政婦の大里は、女の勘というんでしょうか、気付いたんですね。私に忠告したんです。彩乃さんは、表面上は美しいが、内面は淫らで醜い女だと」

沢柳はそこで言葉を区切り、顔を歪めたが、気を取り直して話を続けた。

「私が彩乃さんはそんな人ではないというと、大里は証拠を見せると言って、ある夜、会長の寝室の隣にある書斎に私を誘ったのです。書斎の壁に掛けてある絵画の裏側に穴が開いており、覗いてみろというので、その穴に目を当てると、その先にあったのは、会長と彩乃さんのあられもない姿でした。彩乃さんの淫らな姿を目にして衝撃を受けましたが、彩乃さんは、夫に強要されて仕方なくしているのだと思いました。大里にそう言うと、彩乃さんは、自らの意思で淫らな関係を続けているんだと言ってあざ笑いました。それでも、私の彩乃さんに対する想いは、色褪せることはありませんでした。私の想いは、かえって妖しく燃え上がるのでした」

沢柳は、苦し気な表情を浮かべ、下を向いた。悟郎は問い返す言葉もないまま、黙って沢柳が話を再開するのを待った。

「会長の認知症はその間も進行していました。毎日の散歩が習慣でしたが、帰り道がわからなくなることがあるようになり、夜間の徘徊も始まりました。丁度そんな時期に、会長が国道百四十六号であなたに保護されたのです。そして、あなたもご存知のように、その数か月後、会長は同じ国道でトラックにはねられて死にました」

沢柳は腕時計を見て、まだ時間に余裕があるか確認し話を続ける。

「会長の専属運転手として雇われていたので、会長が亡くなるとすぐに解雇されました。それで飯田に帰郷して、タクシーの運転手をしていると、あなた方が来て、裁判の証人になるよう要請されました。しかし、どうしても証人になる気になれなくて、お断りしたのです。すると、しばらくして今度は彩乃さんが飯田にやってきました。市内のホテルで会ったのですが、部屋に入ると彩乃さんはいきなり服を脱いで私をベッッドに誘ったのです。情けない話ですが、私は夢中で彩乃さんを抱きました。その数日後、竜也さんの弁護人から連絡があり、証人要請されたので引き受けました。彩乃さんの意図を察したからです」

沢柳は当時を思い出したのか、首を小さく振り、口を閉じてしまう。

「話しを続けて下さい。あまり時間がないんでしょう」

悟郎が促す。

「そうですね。もう少しですから辛抱して聞いて下さい」

悟郎は黙ったまま頷き返す。

「ご存知のように、法廷では被告人有利の証言をしました。私の証言が少しは役に立ったのでしょう、裁判は被告側が勝訴しました。これでもうすべて終った、彩乃さんのことは忘れて、生まれ故郷の飯田で静かに暮らそうと決意していたのです。ところが、竜也さんが溺死し、更に大里の遺体が別荘のカーポートの下から発見されたことをニュースで知り、動揺し、不安になりました。彩乃さんが事件に関わっているかもしれないと思ったからです。そんな時でした。彩乃さんから、東京のホテルで会いたいと連絡があったのです。上告審の法廷に今度も、証人として立って欲しいので、相談したいというのです。もう会うべきではないと、自分自身に言い聞かせたのですが、会いたい気持ちを抑えきれず、六本木のホテルに向かいました。彩乃さんから知らされ番号の部屋に着いたのですが、ドアが少し開いていて、不審に思ったのですが、ドアチャイムを押しました。返答がないので、ドアを開けて部屋に入ると、そこには彩乃さんの姿はなく、床に血だらけの仁藤が倒れていたのです。大量の血が流れていたし、ピクリとも動かないので、既に死んでいるに違いないと思いました。慌てうろたえた私は、とにかく逃げるのに必死でした。今思えば、その時、警察に通報してありのままを述べれば良かったのですが、その時は、警察に捕まれば、殺人犯にされてしまうとの恐怖ばかりが頭にあったのです。逃走を続けながら、いろいろ思い悩みましたが、どう考えても、彩乃さんに嵌められたのは、紛れもない事実です。その思いが、私を打ちのめしました。しかし、このまま逃げ続けてもいつか警察に捕まるでしょう。かといって自首して彩乃さんが犯人だと訴えても、彩乃さんが否定したらどうなるでしょう。現場に残った指紋や防犯ビデオの映像などから、私は殺人犯とされてしまうに違いありません。どうしたらこの危機を乗り越えられるか。必死で考えました。そして考え付いたのが、彩乃さんと直接会い、事件の真相を訊ねて、その模様をあなたに物陰で聞いて貰い、警察への証言をお願いしようと思ったのです。お願いです。私に協力して下さい。あなただけが頼りなんです」

話し終えた沢柳は、両膝に手を添えて頭を下げた。

「俄かには信じがたい話と思いながら聞いていましたが、すべて聞き終わり納得しました。協力しましょう」

「有難うございます。それでは、彩乃さんが来たら、隣りの部屋に隠れて下さい。こちらの部屋の会話は、聞き取り難いかもしれませんが、ボイスレコーダーで、私が録音しているので大丈夫です」

「分かりました。何かあったら合図して下さい。すぐに飛び出しますから」


 打ち合わせは終わった。後は彩乃が来るのを待つばかりである。悟郎はタバコを取り出し、ライターで火をつける。〈冷静に、落ち着いて行動するんだ〉深く煙りを吸い込みながら、悟郎は自分に言い聞かせるのだった。

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