第十三章 血まみれナース

 十時が少し過ぎたころ、自動車が近づく微かな音聞こえてきた。沢柳は、窓に近寄り、カーテンを少し開けて外の様子を伺った。

「どうやら、来たようです」

悟郎は黙って頷き、立ち上がると、バーカウンターの横のドアから隣室に入った。ドアを閉めると中は真っ暗である。スマホの電源を切らなければと気が付き、スマホを取り出し電源を切る前にメールを確認する。聡理から沢山のメールが届いている。一番直近のメールには≪バカバカバカ!! 今どこなの。すぐ連絡して、すごく心配してる》という文言があり、聡理が心配してくれているのが、ひしひしと胸に伝わった。そこで、《今、中軽井沢の別荘にいる。電源を切るけど無事だから心配しないで》と返信し電源を切った。


 彩乃が部屋に入ってくるのを、沢柳は、固唾をのんで見守っていた。彩乃は、青灰色のロングコートを着ている。室内をゆっくり見まわしてから、歩み寄るとコートを脱いで、ふわりとソファーに投げかけた。コートの下は、タイトなノースリーブのワンピースで、身体の線がくっきりと分かるものだった。


「何かお話があるんでしょう? お座りになったら」

彩乃は、ソファーに座り、長い脚を優雅に組んで話しかける。沢柳は綾乃に言われて、やっと向かいの席に座る。

「あなたは、仁藤を殺し、その現場に私を呼び出して、私を殺人犯に仕立てました」

沢柳は、気圧されてしまいそうになる自分を叱咤し、声を絞り出す。

「私が仁藤を殺した証拠はあるのかしら? 」

「ホテルの防犯カメラにあなたの姿が映っているはずです」

「そのビデオには、あなたの姿の他に不審な人物は映っていなかったと警察が発表しているけど」

「あの日は、ハロウィンのパレードがあった日で、ホテル内は仮装した人がたくさんいました。あなたは、仮装して顔を隠していたので警察も気づかなかったのでしょう。でも、防犯ビデオを専門家が鑑定すれば、仮装した人の一人が、彩乃さんだと特定できるでしょう」

「そうね、あの日はハロウィン。大人も子供も、仮装して六本木の街を楽しそうに歩いていたわ。私もパレードに紛れ込んで歩いたけど、本物の血の付いた私のドレスを見ても誰も怪しまなかった。血まみれのナースが歩いているってね。“トリック・オア・トリート、トリック・オア・トリート”みんな陽気に騒いでた・・・」

彩乃はどこか遠くを見る目付きで黙り込む。沈黙にたまりかねて沢柳が口を開いた。

「あなたに嵌められたと知って私はどんなに苦しんだか、あなたは本当に冷酷で残酷な人です」

「ええ、その通り、認めるわ」

「その上、あなたは、ふしだらな女です。家政婦の大里が私に教えられて見てしまったのです。あなたは、義理の父親と淫らな行為をしていた」

「竜也が覗いていた穴から見たのね。竜也は、私が他人に犯されるのを見て興奮する性的異常者だったの。義父の相手をするように私に強要したのは、有利な遺言をさせるためばかりでなく、自分の性的欲望を満たす目的もあったの」

「しかしいくら強要されたにせよ、普通の人はあんなことをしない」

「そう、私も普通じゃない。でも、さすがに痴呆症の義父(ちち)を相手にするのは、嫌で仕方なかったわ。もう止めにしたいと竜也に何度も懇願したら、それなら殺すしかないと言い、義父の殺害について協力させられたの」

「もしかしたらとは思っていたけど、会長を殺したのは、矢張り、あなたたちだったのですね」

「私は、寝室で眠っていた義父を起こして車に乗せただけ。殺したのは、竜也と仁藤よ」

「義理の父親殺しに手を貸した貴女は共犯です。竜也さんと仁藤の二人を殺したのも貴女ではありませんか?」

「私は、それほど酷い女じゃないわ。竜也を殺したのは仁藤が勝手にやったこと。遺産を相続した私を脅迫して、骨までしゃぶるつもりだったのよ」

「それで、仁藤を殺したんですね」

「仁藤はね、私がホステス時代からつきまとい、私の身体とお金を奪い続けた本当の悪党よ。殺されて当然だわ」

「しかし、なんで私を犯人にしようとしたんですか。ずっと貴女のことを想い続けていたのに」

「さっきから、私を責めてばかりね。そんなことより、私をわざわざこんなところに呼び出したのは、何か要求があるんでしょう。お金が欲しいとか、いつかのように私を抱きたいとか」

彩乃は立ち上がり、沢柳の右側のソファに座り直すと、肩を寄せて沢柳の手を両手で握った。沢柳は、彩乃の手を振り払う。

「私の望みは、あなたが自首することです。潔く刑に服して下さい」

「それは出来ないわ。やっと男たちの束縛から解放され自由の身になったばかりだもの、刑務所で何十年も拘束されるぐらいなら、死んだ方がましだわ」

「どうしても自首しないというなら、仕方ありません。警察に出頭して、何もかも話します」

彩乃は沢柳の手を再び取り、自分の左の胸に誘う。

「私があなたを一生涯、匿い続けるわ。海外でも東京でも、あなたの好きなところで私と暮らすの。一生遊んで暮らせるお金だってあげる。だからお願い、私と一緒に暮らして」

「やめて下さい!そんなこと、とても信じられません」

彩乃を突き放し、叫ぶように言う。

「あなたが、運転手として雇われた時から、私に想いを寄せていたのは分かっていたわ。あなたの一途な思いに今度こそ応えるつもりよ。約束するわ」

彩乃は、泣き叫ぶ子供を宥めるように、やさしく囁く。

「あなたは憧れの人でした。雲の上の人でした。飯田のホテルでベッドを共にして、天にも昇る心地でした。それだけに、騙されて殺人犯に仕立てられたのが悔しくて、気が狂いそうでした。もう決して騙されません。自首して下さい。お願いします」

「あなたなら私の願いを聞き届けてくれると信じていたのに・・・残念だわ」

彩乃は、憐れむように言うと、沢柳から身体を離して、自分のバックの中から包丁を取り出した。

「自首するくらいなら死んだ方がいいって言ったはずよ。私をこれで刺して」

彩乃は包丁の柄を沢柳の方に向けて、テーブルの上に置いた。

「あなたを刺すなんて、私にはできません」

予想外の展開に沢柳は慌てて、包丁を彩乃の方に押し戻す。

「あなたが私を殺さないなら、私があなたを殺すしかないわ。それでもいいの」

「そんな無茶なこと。包丁をしまって下さい」

「なんて意気地なしなの」

彩乃は、包丁を取り上げると立ち上がった。


 悟郎は隣室の扉の隙間から、様子を伺っていたが、声は途切れ途切れにしか聞こえない。彩乃の姿は、こちらを向いているのでわずかに見えるが、沢柳は後ろ姿の一部しか見えなかった。隙を見て、中の様子がよく見える位置に移ろうと機会を窺っていると、彩乃が沢柳の隣りに移動したので、悟郎は思い切って、隣室からそっと抜け出し、バーカウンターの陰に隠れた。二人の緊迫したやりとりがよく聞こえる。彩乃が包丁を取り出したことが分かり、すぐにも飛び出そうと身構えていた。しかし、沢柳の合図はない。じりじりして聞き耳を立てていたが、これ以上猶予できないと判断し、カウンターの下から飛び出した。


「私を罠に嵌めたのね!」

彩乃は、突然現れた悟郎を見て叫んだ。両手で包丁を握りしめ、沢柳と悟郎を睨みつける。

「えぇあなたを騙しました。本当にすまないと思います。でも、私は貴方と二人きりで会うのが怖かったんです。誰か、傍にいなければ、あなたの誘いに乗ってしまいそうで」

沢柳は心底、済まなそうに言って唇を噛んだ。

「さぁ、もうお終いにしましょう。包丁をテーブルに置いて下さい」

悟郎はそう言うと一歩前に歩み出た。彩乃は怒りの表情で立ち尽くしている。数分、もしかすると数秒だったかもしれない。誰も話さず、身じろぎもしなかった。


「そうね、何もかもお終いね」

 口を開いたのは彩乃であった。どこか吹っ切れた様子で、アルカイックな笑みを浮かべると、包丁を自分の首に当て、一気に掻き切った。頸動脈から血潮が噴き出る。その場に倒れる彩乃を沢柳が抱き起し、ハンケチで傷口を抑える。悟郎は慌ててスマホを取り出し、電源を入れ、百十九番通報をした。

「しっかりして下さい。もうすぐ救急車がきます」

ぐったりした彩乃が、何か言いたげに口を開くのを見て、沢柳は彩乃の口元に耳を寄せる。

「あなたと暮らしたいという気持、嘘じゃない、本当よ。今までいろんな男と付き合ってきたけど、みんな、最低な悪党ばかり。あなたのように純粋な人は初めてだったの」

彩乃の眼が静かに閉じる。

「噓だ、そんな筈ない。貴女は悪い女だ。本当に悪い女だ」

悟郎は、号泣する沢柳を呆然として見下ろしていた。

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