第八章 カンフー女拳士

 悟郎の本来の仕事であるヘッドハンターの案件が立て込んだ関係で、横浜に向かったのは3月の上旬であった。赤いチャイナドレス姿の聡理を乗せて、教えられた横浜の中華街近くの小料理屋に向かったのだが、聡理のコスプレ・フリークには、もう慣れっこになっている。それに今回は、横浜中華街近くに行くということで、チャイナドレス姿でやってくるに違いないと読んでいたので、聡理の姿に驚きはなかった。しかし格闘ゲームの登場人物であるカンフー女拳士のコスプレだそうで、通常のチャイナドレス以上に深いスリットが両側にある。助手席に座った聡理の太ももが気になる悟郎であった。


 開店する一時間前の四時ごろにその小料理屋に到着したが、店は閉じられて誰もいない様子である。仕方がないので、コインパークに車を入れて開店するまでの間、中華街をぶらついて時間潰しをすることにした。中華街は平日というのに、観光客が大勢いて街は祭りのような賑わいである。薄手のロングコートを着た聡理は、先ほどからスマホをなにやら操作している。どうやら中華街グルメ情報の入手をしているようだった。

「おいしそうなものが、たくさんあって迷います」

町中の至る所に、中華まんじゅうなどを店頭で売る店があり、聡理は何を食べるか迷っているのだ。

「私、この馬拉糕(マーラーカオ)っていうの食べてみたいです」

悟郎としても小腹が空いているので、幾ばくかの食べ物を口にするのは吝かではないのだが、〈馬拉糕??〉と心中疑問符を浮かべる。

「中華風蒸しカステラのようです。おいしそう! この先の店で、蒸したてを食べられるみたいです」

聡理は、どんどん先に歩いて行く。

「あー、ここです。行列が出来ているけど私たちも並びましょう、時間はたっぷりあるし」

 それほど、時間に余裕はないのだが、このぐらいの行列ならと思い「まっ、いいか」と悟郎が呟くと「それじゃ早く並びましょう」と悟郎の腕を引っ張って列の後ろに並んだ。腕を組んで列に並んだのだが、ごく自然な流れであったために、悟郎もそのままにしていた。傍から見れば仲睦まじいカップルに見えたことであろう。

 蒸したて、熱々の馬拉糕はとても美味しかったが、順番が来るまで、予想以上に時間がかかってしまい目当ての小料理屋に戻ったのは六時近くになっていた。


 おでんの匂いが漂うその小料理屋は、カウンターだけのこじんまりした店で、七,八人も入れば一杯になってしまいそうであった。カウンターの中に、今時珍しい白い割烹着姿の七十歳前後の女性がいて、どうやら女将らしい。一番奥のカウンター席に常連らしき客が一人座っている。入ってきた悟郎たちを、女将は「いらっしゃい」と、愛想があるとは思えぬ口調で迎えた。コートを脱いで壁のハンガーにかけて、入り口近くのカウンター席に座る。聡理のチャイナドレス姿を見ても見慣れているのか、気にする様子はなく、女将は無言でおしぼりを差し出す。一見(いちげん)さんは歓迎しないというような雰囲気があり、悟郎はこんな店は苦手である。とりあえずビールを注文すると、聡理に本題を切り出すよう、肘でわき腹を突かれた。


「実は私たち、菱野温泉で仲居頭をなさってる中畑さんに話を伺ってやってまいりました」

「あっそう、中畑にね、彼女元気にしてたかい?」

「えぇ、元気そうでした。女将さんによろしく伝えてくれとのことでした」

「そうかい、そりゃよかった。ところで何か用があってきたんだろ?」

「ええ、私、弁護士をしている三沢と申しますが、大里サチさんについて教えていただこうと思いまして」

聡理は、中華風のビーズのポーチから名刺を取り出して女将に手渡す。

「へぇあんたそんななりして弁護士なの?」

「えぇ、今日は訳あってこんな格好していますけど、本物の弁護士です」

「うん、まぁそんなことはどうでもいいけど、何故大里のことを知りたいんだい?」

「私、民事訴訟事件の弁護人をしていまして、裁判の証人になって貰おうと思って大里さんのことずっと探しているんです。でも行方がさっぱり分からなくて」

「うちの旅館が廃業になって、大里は軽井沢で家政婦をしていたんだけど、知ってるわよね」

「えぇ、知っています。家政婦を辞めた後の消息が掴めなくて困っているんです。何かご存知ではないでしょうか?」

「軽井沢の別荘の家政婦を辞めたときに、一度だけ電話があったわ。これからどうするつもりって聞いたら、身寄りがないので、有料老人ホームにでも入ってのんびり暮らす積もりだって言うのよ、結構なご身分よね。私なんかこの年でまだ働いているんだからね」

それまで黙って二人のやりとりを聞いていた悟郎が口を挟む。

「民間の老人ホームに入るとなると、入居金やらなにやら、そこそこ金がかかりますよね」

「そうでしょ、そこんとこ気になったからズバリ聞いたのよ。お金の方は大丈夫なのって」

「えぇ」

「長い間蓄えた貯金と、家政婦を辞めた時に、思いがけず多額の退職慰労金を貰ったのでそれは心配ないって答えだったわ」

「思いがけず多額の退職慰労金ですか、どの位貰ったんでしょうね?」

「いくらあたしだって、そこまでは聞けないわよ。でも、あの話しぶりだとかなりの額を貰ったんじゃないかしらね。別荘の主というのは、大企業のお偉いさんだったんでしょう。亡くなるまで、親身になって世話をしたので多額の慰労金をくれたんだろうって大里は言ってたわ」

「そうですか、ところで、どこの老人ホームに入居するか言わなかったのでしょうか?」

「それは言わなかったわね。郷里は秋田だけど、親兄弟はもちろん親しい親戚は誰もいないはずだし、結婚して長く暮らしていた宇都宮は、嫌な思い出ばかりで二度と行きたくないようなことだったからねぇ。結局は長野県のどこかの老人ホームに入るつもりだったんじゃないかね、老人ホームが見つかるまで、軽井沢のアパートで仮住まいだって言ってたから」

 その時、客が立て続けに入ってきた。常連の客らしく、女将は愛想よく迎える。悟郎と聡理はそれを機に、これ以上の情報は得られないと判断し礼を言って店を出た。


 中華街に来たからには、中華料理を食べずに帰るなんてあり得ないという聡理の申出により、聡理が推薦する粥が美味いと評判の店に向かうことにした。その道すがら「これだけ調べても、大里サチの行方が、分からないということはひょっとすると・・・」と言いかけて、聡理は言葉を飲み込んだ。「この世にはもういない」と悟郎が、聡理の思いを口にする。二人は、胸中に抱いた疑惑について思いを巡らし、しばらく何も言わずに歩き続けた。

 目当ての中華料理店に着くと聡理は、数点の点心それに中華粥をオーダーした。やがて運ばれてきた点心を前にして聡理が先ず口を開いた。

「大里さんは、家政婦として長瀬家の内情を知り尽くしていた」

悟郎も歩きながら考えていたことを口にする。

「多額の退職慰労金というのも、なんか口止め料のようで気になるな」

「大里さんは、原告側の証人になられては最も困る存在」

「行方不明になっても不審に思う身内や親せきが誰もいない」

二人は互いの眼を見つめ頷き合う。

「我妻さんに相談してみよう」

「えぇ、軽井沢署の安西刑事にも」


 中華粥は評判通り美味しく、ヘルシーでもあるので悟郎は気に入った。聡理は点心と中華粥では足らないと言い、デザートに中華風エッグタルトを食べてやっと満足したようであった。

 いつものようにシルバラードで、聡理を神楽坂の自宅近くまで送ったのだが、助手席のチャイナドレス姿の聡理がいつになく色っぽく感じられて、悟郎は自分自身の心の動きに動揺していた。聡理のことを女性として意識しているのだろうか? それとも、スリットから覗けた太ももに性的興奮を覚えただけなのか? 

 赤城神社の近くの路上に車を止める。聡理はコートを抱えドアを開け降りかけたが、振り向くと悟郎にキスをして「今日はありがとう」と言い降り立った。軽いキスであったから、帰国子女の聡理にとっては挨拶代わりかもしれない。しかし純粋日本男子の悟郎にとっては衝撃的な出来事であった。

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