第六章 アビアント
長瀬竜也の死体が、南麻布の狸橋付近の古川に沈んでいるのが発見されたのは、第一審の判決があった日の三か月ほど後の一月のことであった。この事件はニュースでも取り上げられ、死亡時の竜也はジョギングウェア姿で、財布などは盗られていないこと、橋から転落し、川底のコンクリートに衝突した後に溺死したこと、狸橋は竜也がいつも夜間にジョギングしているコースの途中にある橋であること、また、この付近の川は都心ではあるが深く抉れた渓谷のような形状をしており、雨量の少ない時期は橋から川面まで、十メートル近くもあることなどが報じられていた。このような状況から警察は、他殺の可能性があるとして捜査を進めているとマスコミは伝えていた。
悟郎は、ニュースで事件を知ると直ぐに、被告が死亡した場合の今後の対応について聡理に問い合わせた。聡理によれば、民事訴訟裁判の被告が死亡した場合、被告の遺産を相続する彩乃が、被告となり裁判が継承されるとのことで、引き続き協力して欲しいと依頼された。それにしても気になるのは、竜也の死亡原因である。自殺か他殺か、はたまた事故死か。もし他殺なんてことになれば、民事裁判にも大きな影響を与えるはずである。このため、先ずは警察の捜査の動向を把握することにしたのだが、幸いなことに所轄署は六本木警察署であり、刑事の我妻とは旧知の仲であった。聡理と共に話を聞くべく、銀座のクラブ「アビアント」で我妻刑事と会う手筈を整えた。「アビアント」は我妻の行き付け、御用達の店である。
「いらっしゃい、お待ちしていました」
クラブのママの由香里が、笑顔で悟郎を店に迎え入れる。
「いや、ご無沙汰してます」
悟郎は面目なさげに頭に手をやってママに挨拶する。
「アガちゃんは、少し遅れるって。まぁいつものことだからご存知よね」
「えぇ、まぁ」
悟郎は、扉の後ろに立っている聡理に声をかけ、一緒に店の中に入る。今日の聡理は当然ながら弁護士ルックである。度なしの丸眼鏡を外してクラブの店内を興味深げに見回している。
「あら、珍しい! 今日はお連れさんとご一緒なのね」
「うん、こちら弁護士の三沢聡理さん、それでこちらがこの店の由香里ママ」
紹介された二人が、初対面の挨拶を交わした後、悟郎たちは店の奥まったボックス席に案内された。
「おう、久しぶりだな、元気か」
遅れてやってきた我妻刑事は、席に着くなり悟郎に話しかけ、隣の聡理を見やりながら「あぁ、こちらが例の弁護士さん?」と聞いた。
「初めまして、三沢聡理と申します」
聡理は立ち上がり、名刺を差し出す。
「まぁ、座って、座って」
席に座り直した聡理に我妻は名刺を手渡し、悟郎にも差し出した。
「ほおー、我妻さん警部補に昇進ですか?」
「いやまぁ、そんなことはどうでもいいじゃないか、先ずは久しぶりの再会を祝して乾杯しようや」
我妻が人並みに照れているのが可笑しかったので、ことさら大声で「警部補昇進おめでとうございます」と乾杯の音頭を取ってコップを目の高さに掲げた。
「早速ですが、長瀬竜也の事件についてお伺いしたいのですが」
乾杯が済むと単刀直入に本題に入る。これもいつものことで我妻も先刻承知している。
「ふむ、実はな、あの事件の捜査主任はこの俺なんだ」と少し自慢げに言う我妻に「えっ、そうなんですか」と聡理が喜色も露わに反応する。
「それは好都合です。我々が持っている情報もあるので、必要ならそれらの情報を提供します」
「ふむ、ガセネタじゃなきゃいいがな、で、何が聞きたい?」
悟郎は事件の捜査の進展状況の説明を求めた。我妻は情報源について他言無用と断りながらもかなり詳しく説明をしてくれた。
≪竜也は夜の九時ごろにジョギングするのが習慣となっており、天候がよほど悪い時以外は毎日のように、港区白金台の自宅マンションを出て、フィンランド大使館、有栖川宮記念公園、フランス大使館などを廻って狸橋を渡り自宅マンションに戻るというコースを三十分ほどかけて走っていた。狸橋周辺は、夜間通行する車は稀で、行き交う人も少なく、事件当夜の有力な聞き込み情報は得られなかった。また、竜也の人間関係についての調査では、長瀬家の兄弟間で遺産相続を廻って深刻なトラブルが生じており、民事訴訟中であることが判明した。竜也の腹違いの兄の長瀬竜一郎と姉の高橋美鈴には、殺人動機があると見なされ、更に、長瀬彩乃も竜也が死ぬと莫大な遺産を相続することになるので、殺人動機があるとされた。しかし、これらの三人には明確なアリバイがあり、少なくとも直接手を下しての殺人を行っていないことが明らかであった。従って、嘱託殺人や通り魔的殺人の線、更には事故死の可能性についても捜査が進められていた。しかし最近になって、殺人及び事故の双方の捜査が思いのほか進展しないので、署内では、自殺説が急浮上している。自殺の根拠としては、竜也が軽度のうつ症状であったことが挙げられた。無論、自殺説に疑問を呈する捜査員もいて〈自殺しようとする者が、都心の、しかも高さ十メートルほどしかない狸橋から飛び降りるか?〉あるいは〈自殺するならもっとふさわしい場所がいくらでもあるだろう〉との見解を捜査会議で述べていた。自殺説が優勢を占めつつあるが、反論もあることから、近く心理学者など専門家の意見を聞いて是非を判断することになっている≫
「とまぁ、捜査の状況はこんなもんだ」
我妻は、長い説明を終えて、コップのビールを一息に飲み干した。
「詳しい説明ありがとうございました」
聡理が、深々と頭を下げる。
「それでは、今度は、そちらさんの情報を聞こうじゃないか」
悟郎は促されてこれまでの経緯と民事裁判の結果について話をした後で「今回の事件とは直接関係しないかもしれませんが、竜也の父親の死亡について不審な点はないか確認したので、参考までにお話しします」と、軽井沢警察の安西刑事から得た情報を説明した。
「安西刑事は、最後にこう言ったんです。〈しかしなんですな、遺産相続を巡ってトラブルが起きたってことになると、なにやら匂わんでもないですな〉って」
聡理が、安西刑事の声色を真似て話すのがなんとも可笑しい。
「〈いや、なんでも疑ってしまうのが刑事の性ってやつでね。聞き捨てて下さい〉なんて言うものだから、かえって気になっていたんです」
聡理は、それなりに必死に我妻に訴えているのだろうが、それにしても、安西刑事の言ったことを、一言一句よく覚えているものと悟郎は感心する。これに似たことは過去にも何回かあった。聡理は、ちょっと見は、不思議キャラのコスプレマニアのように見えるが、実は、東大卒で、在学中に司法試験に合格、英語も堪能という超秀才なのである。そう考えれば、記憶力抜群なのは至極当然なことに違いない。そんなことを考えながら、我妻がどういう反応をするかと窺い見ると、意外や真剣な表情で聡理の話を聞いている。
「ふむ、同じ刑事としてその気持ち分からんではないな」
「というと、我妻さんも何やら匂いますか?」
「父親が不慮の事故で無くなり、残された莫大な遺産を廻って遺族間でトラブルが起こった。そして、今回、係争者の一方の息子が突然死亡した・・・・」
「確かに匂いますねぇ」
悟郎は、自分の言ったことに頷いて、我妻にも同意を求める。聡理は、真剣な眼差しで悟郎と我妻の二人を見つめる。
「親父の事件と、息子の事件は関連付けて洗い直す必要があるかもしれんな」
「それって刑事の勘ってやつですか?」
「まぁ、そんなところだ。とりあえず軽井沢警察に連絡を入れてみる」
「是非、そうして下さい。いや今日は、ほんと有意義な情報交換でした。我々は、これで失礼しますが、我妻さんはゆっくりしていって下さい」
「うん?そりゃいいが、カレンちゃんに会わずに帰るのか? カレンちゃん会いたがっていたぞ」
「カレンちゃんって誰?」
聡理が関心を示す。カレンは悟郎に気のある、馴染みのホステスであった。
「えーっと・・・」
答えに窮している悟郎を尻目に、我妻が大声でホールスタッフにオーダーする。
「おーい、カレンちゃん呼んでくれ、それからビール」
しばらくして露出度の高いドレスを着た若いホステスがやってきて嬌声をあげる。
「わーっ! 悟郎ちゃんじゃないの、久しぶり」
悟郎の隣に座ろうとして、悟郎の横で隠れるようにしている聡理に気付く。
「あれ、この地味な人、お連れさん?」
聡理は地味と形容されてムッとして、頬を膨らませる。
「あっ、うん、そうなんだ」
カレンは、強引に悟郎と聡理の間に割り込んで座る。
「もう、悟郎ちゃんたら、このところさっぱりなんだから」
カレンは、悟郎と我妻に馴れ馴れしくビールを注ぐと、聡理に向き合い「ビールでよろしいでしょうか? それともお好みの飲み物などございますか?」と馬鹿丁寧に聞いた。
聡理は、慣れないアウェイということもあり、終始、カレンに圧倒され続けている。注がれるビールを、ムキになって飲み続ける聡理の様子を眺めて我妻は楽しんでいたが、悟郎は何とも居心地悪い。聡理に帰る旨を告げて、ほうほうの態でアビアントから撤退した。
店を出ると聡理は、「この次にあの店に行くときは、コスプレしてカレンと対決する」と息巻いた。すっかり出来上がっていて、一人歩きも覚束ない。
〈おバカかなんだか、利巧なんだか分からんよ?〉
内心呟き、しなだれかかる聡理を抱きかかえるのであった。
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