第五章 ゴスロリ
年が変わって一月になり、東京地方裁判所において民事訴訟裁判が開始された。原告は長男の長瀬竜一郎と長女の高橋美鈴、被告は次男の長瀬竜也であり、双方の間で、公正証書遺言の有効性について争う内容の裁判であった。長瀬竜一郎は長竜物流株式会社の代表取締役社長、竜也は同社の常務取締役で、竜也は竜一郎と美鈴にとって異母弟という関係であった。
原告側は訴状で、長瀬竜造の公正証書遺言は、遺言者の認知症が進行し、自らの意思による遺言能力がない状態で作成されたので無効と主張していた。また、被告とその妻の彩乃は、介護人という優位な立場を利用して、相続人を騙し、自分たちに有利な遺言を書かせたと主張していた。
一方被告側は答弁書で、遺言書作成当時の相続人の遺言能力は問題がなく、法律に則して公証人により認証された遺言なので、その有効性に疑問の余地はないと主張、被告人とその妻は誠心誠意、竜造の介護をしており、騙して遺言書を書かせたことなど全くないと反論していた。
その後、何度か、原告と被告側の双方から準備書面の提出があり、裁判官の訴訟指揮のもと、争点が整理されていった。その過程で、被告とその妻が、相続人を騙したという原告の主張は、証拠不十分ということで脚下され、公正証書遺言の作成時の遺言能力の有無が争点として絞られた。その後、七月にようやく証人調べになり、原告側は中軽井沢診療所の医師を証人に立て、被告側は二人の証人を立てた。その内の一人が、柳沢雅彦であることを、被告側の準備書面で知り、聡理は驚いたのだが、更に衝撃的だったのは、陳述書に記された沢柳の供述が、被告に有利なものになっていた事であった。それらは、早速、悟郎と史郎に伝えられ、真偽のほどを電話と文書で沢柳に問い質したのだが、以前に飯田のファミレスで話したことは、自分の思い違いであるとの返答であった。もう一人の被告側の証人は、公証役場における立会人であった仁藤秀栄で、竜也と昵懇の間柄にある経営コンサルタントであった。
通常、裁判は原告側に立証責任があり、遺言時の竜造が重度の認知症であったことを証拠を示して立証しなければならない。認知症がどの程度進行していたかについては、医師による認知症テストで判断するのが一般的だが、竜造はテストを一切受けておらず頼みの綱は、診療にあたっていた医師の証言であった。
悟郎は傍聴席に着くと、彩乃が来ているのではないかと見回したが、その姿は見当たらなかった。彩乃が来ることを、心のどこかで期待していたのだろうか、少しがっかりである。史郎は公判が重なったとのことで、こちらには来ていない。
やがて裁判が始まり、所定の手続きの後に、証人尋問が開始された。最初の証人は中軽井沢診療所医師であり、原告側の主尋問をするのは聡理であった。傍聴席で経緯を見守る悟郎は、聡理がうまく尋問できるか心配で落ち着かない。
裁判官による人定質問と証人による宣誓が行われ、尋問が始まった。
「証人は、遺言者である竜造氏の往診を、何時頃からなさっていましたか?」
弁護士ルックで身を固めた聡理は、緊張した面持ちで尋問を切り出した。原告席の長瀬竜一郎と高橋美鈴が、そんな聡理のことを心配そうに見つめている。
「竜造氏が軽井沢の別荘に定住するようになってからですから、五年ほど前からですね」
小柄で痩身の老医師は、白い顎鬚を指で撫でながら尋問に答える。
「年に何回位往診していたのでしょうか?」
「竜造氏は、高血圧症と糖尿病を患っていました。薬を処方する必要もあり、毎月一回、程度往診していました。あとは風邪を引いて熱が出た時なども往診していました」
「すると、この五年間、竜造氏の健康状態を見守ってきたわけですね」
「まぁそういうことになりますか」
「竜造氏は、引き籠り、記憶障害、被害妄想、徘徊などの認知症特有の症状が顕著でしたが、認知症の治療はなさらなかったのですか?」
「私どもの診療所は、内科と胃腸科が専門であり認知症に関する診察や治療は行っていません。ご家族からも認知症に関する相談は受けていませんでした」
「最後に往診したのは何時でしたか?」
医師は手元のメモを見ながら答える。
「昨年の九月十六日です。前日の夜、国道を徘徊していて保護されたので念のため診断して欲しいという依頼があり往診に行きました」
「そのときの竜造氏の様子はどうでしたか?」
「かなりの距離を歩いたのでしょう、疲労がまだ抜けない状態で、右足を少し痛めていました」
「往診の際の受け答えはできたのですか?」
「いえ、本人に質問しても返事はなく、触診や血圧測定を嫌がったり、声を荒げたりして、充分な診察は出来ませんでした」
「公正証書遺言を作成したのは、一昨年の六月ですが、この前後に往診したことはありますか?」
「その翌月の七月六日に往診しています」
「その時の竜造氏の様子はどうでしたか?」
「この時も、応答がなく診察を嫌がって充分な診察は出来ませんでした」
「意思疎通ができていないと感じられたのですね」
「異議あり!」
被告側弁護人がすかさず異議を申し出る。いかにもやり手という感じの中年の男性弁護士である。
「誘導質問です。質問の撤回を求めます」
「異議を認めます。原告側弁護人は質問を変えて下さい」
裁判長が異議を認める。
「それでは、質問を変更します。返事もせず、診察を嫌がる竜造氏を診てどのように感じましたか」
「認知症が大分進んでいると感じました」、
「そのような状態で、詳細な遺言内容を公証人に、正確に伝えられると思いますか?」
「私が往診した時の状態であれば、自分の意思を正確に伝えることは困難でしょうね」
「ところで、被告は答弁書で、この一年間で竜造氏の認知症が急速に進行したと主張していますが、この点についてどのように思われますか?」
「進行スピードは、認知症の原因疾患や個人的な状況によりさまざまです。アルツハイマー病の場合、一般にはなだらかに進行していきます。脳血管性認知症の場合は、比較的安定した時期を挟んで、階段を下りるような急な進行をするといわれています。そういうことで竜造氏の場合、原因疾患が特定されていないので何とも言えませんが、一年前と亡くなられた頃と認知症の症状に大きな相違は無かったように感じられました」
「ありがとうございました。それではこれで主尋問を終わります」
聡理は、ずり落ちた丸ぶち眼鏡を元の位置に戻しながら、自分の席に着いた。傍聴席の悟郎も先ず先ずの滑り出しに安堵する。
代わって被告側の弁護人が立ち上った。被告席の長瀬竜也に頷いて見せてから、おもむろに反対尋問を開始した。
「専門は内科と胃腸科と伺いましたが、脳神経など認知症に関連の深い科目は専門外ということですね?」
「はい、そうです」
「先ほど、原告側の弁護人の質問に対して、竜造氏は認知症が大分進んでいると感じたと答えておられましたが、それは医師としての見解ですか?」
「いえ、認知症は専門外だし、認知症テストも実施していないので、あくまでも一般常識的見地からそう申し上げました」
「被告人の妻の彩乃さんの問いかけには反応していましたか?」
「えぇ、私の質問には無反応でしたが、奥さんの言葉には反応していたようです」
「往診されたとき、竜造氏への問診は、被告の妻の彩乃さんの介助のもとに行ったのではないですか?」
「そうです。私が問いかけても反応がないので、奥さんを通じて、症状などを聞きました」
「すると、彩乃さんの補助があれば意思疎通ができていたのですね」
「十分ではありませんが、なんとかやりとり出来たといったところでしょうか」
「それなりに意思疎通が出来ていたということですね?」
「はぁ、そうとも言えます」
「反対尋問を終わります」
被告側の弁護人は聡理の方を見やり、ほくそ笑んで着席した。
次に沢柳が被告人側証人として進み出て宣誓をした。被告弁護人が立ち上がり尋問を開始する。
「証人は竜造氏の専属運転手として長瀬物流株式会社に雇用されていたのですね?」
「はい、そうです」
「雇用期間は何時から、何時までですか?」
「平成二十二年五月から、二十七年十一月までです」
「主な仕事の内容はどのようなものでしたか?」
「最初の頃は、週に二回程度、会長を東京本社に送迎することが主な仕事でした」
「竜造氏の認知症が進んで、東京本社送迎の仕事が無くなったそうですが、その後はどんなことをしていたのですか?」
「運転手としての仕事は、来客の送迎、旦那様のゴルフ場の送迎、それに奥様の美容院や買い物などへの送迎が主なものになりました。運転手以外の仕事としては、別荘設備の修繕、庭の手入れなどをしていました」
「旦那様とは、被告の長瀬竜也氏で、奥様とはその妻の長瀬彩乃さんのことですね?」
「はい、そうです」
「ずっと住み込みで働いておられたのですか?」
「はい、来客用の部屋の一つを使わせていただいておりました」
「だとすると、竜造氏の様子を日頃からつぶさに観察できたのですね?」
「奥様や家政婦ほどではありませんが、その様子は大体わかりました」
「あなたから見て、公正証書遺言時、竜造氏は自らの意思で遺言することができたと思いますか?」
「はい、奥様の介添えがあれば、充分遺言が可能と思います」
「有難うございました。被告側の尋問は以上です」
被告側の弁護人は、自信たっぷりに周囲を見渡して自分の席に戻った。続いて聡理の反対尋問が始まった。
「私が、飯田市内のファミレスで証人とお会いした時、遺言当時の相続人はすでに徘徊が始まっているとの説明でしたね」
「はい、そのように言いました」
「先ほどの被告人側の尋問では、まだ徘徊は始まっていなかったと答えましたが、どちらが正しいのでしょうか?」
沢柳は、一瞬、困惑の表情を浮かべ、原告側の弁護士席の方をチラリと見た。弁護士が小さく頷くのを見て、正面の裁判官の方に向き直り、咳払いをして尋問に答えた。
「飯田のファミレスでの私の説明は勘違いでした。遺言した時期を六か月ほど取り違えていたのです」
「すると、私に説明したのは、相続人が遺言した六か月後のことだったというのですね」
「はい」
「身の回りの世話をする家政婦とでさえ、意思疎通が出来なかったという説明はどうなんですか?これも勘違いだと言うのでは、まさかありませんよね」
「それも、私の勘違いです」
聡理が欧米人のように、大げさに肩を竦めた。そんな聡理の様子を見て、裁判官が証人に注意する。
「証人は真実を述べなければなりません。もし、偽りの証言をすると、偽証罪に問われる可能性があります。証人はそのことを念頭に、慎重に答ええて下さい」
「はい、わかりました」と裁判官に一礼して沢柳は続ける。
「飯田のファミレスで原告の弁護士に話したことは、私の勘違いに違いありません」
沢柳は、勘違いで押し通すに違いないと思った聡理は質問を変える。
「あなたは、私たちの再三に亘る証人要請を固辞しましたね。それは何故ですか?」
「裁判所の法廷で証言するなんて、そんな大それたことは避けて通りたいと思ったからです。一般の人は皆同じではないでしょうか」
「被告側からの証人要請があっても、応じる気はないとも仰っていましたね」
「はい、言いました」
「ではなぜ、被告側の証人になったのですか?辻褄が合いませんよ」
「長瀬家には雇っていただいた恩義があります。奥様にも大変よくしていただきました。
なので、旦那様と奥様の両方から頼まれて、断り切れなかったのです」
「長瀬家には、恩義なんて無い、むしろ憤りを覚えると言いましたよね」
「さぁ、そのようなことは、言った覚えはありません」
傍聴席で聞いている悟郎は、沢柳の白々しい態度に唖然としつつ、尋問の展開を見続けた。
「私たちに説明したことを、勘違いの一言で全否定するのは、人間としての信義則に反するとは思いませんか?」
すかさず「異議あり」との声が、原告弁護人からあがる。
「今の原告弁護人の発言は、裁判上、何の関係もないことです。撤回を求めます」
「異議を認めます。原告弁護人は撤回して下さい」
裁判長が、聡理に発言の撤回を命じる。
「分かりました。先ほどの発言を撤回します。これにて反対尋問を終ります」
聡理は沢柳を睨みつけ、腹立たし気に自分の席に座った。被告側の弁護人は、そんな聡理の様子を見て、ニヤリと笑いながら席を立ち、次なる仁藤への尋問を開始した。
仁藤は、遺言は適正に、法に則りなされており、遺言者の意向が正しく反映されているとの陳述書通りの証言をした。聡理はその反対尋問で、仁藤が竜也の経営する会社と顧問契約を結ぶなど利害関係が密であり、証人としての中立性に疑義があると申し立てたが、被告弁護人は、仁藤が法律上の証人要件を具備しており何ら問題ないと一蹴した。
この後、裁判長から、この日をもって弁論の終結とするとの宣言がなされ、判決言い渡し期日が指定されてこの日の裁判は閉廷した。
それから数か月後の十月になって、東京地方裁判所において、原告敗訴の判決が言い渡された。公証人遺言の訴訟の場合、その有効性を否定する判決が出ることは稀であったので、このような結果は覚悟をしていた。公証人は、裁判官など三十年以上の実務経験を有する専門家が任命されるのが殆どであり、法曹界の大先輩である公証人が認証したものを現職の裁判官が否定することは、ほとんど無いのが実情であったからである。しかし沢柳の裏切り的な証言は想定外のことであった。悟郎としても沢柳と実際に面談し、誠実で真面目な人物と信じていただけに、意外であり腹立たしい思いであった。聡理はそれ以上に大憤慨の体である。
「私、ショックです。あの沢柳さんが裏切るなんて」
裁判所を出て、悟郎に会うなり聡理は憤懣をぶちまけた。両手にいつもの大きな旅行バックを下げている。
「いやまったく、真面目で誠実な人と思ったんだがなぁ」
「一番重要な証人と目された家政婦の大里さんを、証人に立てられなかったし、敗訴するのはある程度覚悟していたけれど、沢柳さんが裏切るなんて」
「信じていた人に裏切られるというのは辛いよな」
「そ、そうなんですよ。ホント気分悪い」
「このまま帰るのもなんだし、これから飲みに行くか」
腕時計が五時を少し過ぎているのを見て、悟郎が気を遣った。
「えぇ行きます。やけ酒でも飲まなきゃやってられない」
「それじゃ、史郎にも連絡してみよう」
悟郎はスマホのラインにメッセージを入れる。
「あの、お願いがあるんですが、その先にあるカフェに寄ってくれませんか?」
「うん? あぁまだ酒飲むには早いからいいけど」
「私、そこで着替えますね。こんな格好じゃ気が滅入るので」
「おいおい、今度は何になるつもりだい? あまり変な恰好は困るよ」
「大丈夫です、すごく地味な衣装ですから」
カフェのトイレで着がえた聡理は、ゴスロリ風コスチュームで悟郎の前に現れた。黒を基調としたジャンパースカートには白いレースのフリルが付いており、髪はウィッグを付けたのだろう縦ロールの長いヘアスタイル、靴は編み上げのブーツといった具合であった。トナカイほどは驚かなったものの、充分に変な恰好である。
「どうですか? これなら地味だからいいでしょう? ほんとはミニハットを頭に乗せたかったんだけど我慢しました」
白塗りのファンデーション、濃いアイシャドウ、ダークなルージュというまるで悪魔か死人のようなメイクで、ニコリともせずに同意を求めてくる。聡理はすでに、ゴスロリの世界に浸っているようで、表情がいつもと一変していた。
「いや、まぁ・・・」
何か圧倒されて、悟郎は思わず口ごもる。
聡理に案内されて入った店は、ゴスロリ好きの人が集まるという六本木のバーであった。聡理のようなゴスロリファッションの客ばかりかと思ったが、ほとんどは会社帰りの女性社員などで普通の格好をしていた。ただ、店の従業員は男女ともにゴスロリ風にきめている。
史郎からは、遅くなるかもしれないが、仕事が片付き次第やってくるとの連絡があったので、悟郎と聡理は、カウンターに横並びに座り、マティーニをオーダーした。
「今日はほんとお疲れ様、ところで、上告はするのかい?」
「原告の二人は上告するって言ってます」
「公証人が認めたことを否定するのは並大抵じゃないんだろう? 勝ち目のない勝負を続けるつもりかい?」
「あの遺言が認められると、長竜物流の株式の二十パーセント以上が竜也のものになってしまい、会社の実権を竜也に奪われかねないの。原告側は必死ってわけ」
バーテンダーが、テーブルに置かれた二つのカクテルグラスに、マティーニを注ぐ。
「ふーん、そりゃ分からんではないが前途多難だな、でもまぁ取り合えず乾杯するか」
「裏切りの苦い思いに乾杯!」と聡理は呪詛を吐くかのように言い、マティーニを一気に飲み干した。
「おいおい、そんな飲み方して大丈夫かい?」
「私、こう見えてお酒強いんです」
聡理は、バーテンダーにお代りを注文する。
〈そうだろうか?〉と悟郎は少しのビールで居眠りしていた早太郎温泉の聡理を思い出し、疑問を抱いたが、それは口に出さず「何か作戦はあるのかい?」と聞いた。
「今度こそ、家政婦を探し出して、何が何でも証人にすることね」
「うん、そりゃそうだ」
「家政婦をする前、軽井沢近くの温泉旅館で住み込みの仲居をしていたと紹介所の所長が言っていたの覚えている?」
「うん、覚えているよ、じゃ、その線をあたってみるか」
「また、一緒に行って下さいね」
「あぁ、あのおんぼろ車でよければ、どこまでも行きますよ」
こうなればとことん付き合ってやろうと、悪魔めいたメイクの聡理に、魂を売り渡す思いで答えたのだが、今夜は悪酔いするような予感がする。
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