第二章 白檀の香り
軽井沢から帰って数日後に、商品券と共に丁重な礼状が届いた。差出人は長瀬竜也と彩乃の連署になっており、悟郎は、彩乃が長瀬竜也の妻であることを知ったのであった。その礼状によると、保護した老人は、竜也の父の長瀬竜造で、大手企業の長竜物流株式会社の創業者であるらしい。今は現役を退いて名誉会長をしているという。あの徘徊老人が大手企業の創業者とは思いもよらなかったので驚いたが、数週間後にはもっと驚くことになる。
長瀬竜造が、軽井沢の国道一四六号でトラックに撥ねられて死亡したのである。大手企業の会長の不慮の死ということだけでなく、数年前まで、経済界の重鎮として政治にも関与し、女優など多くの女性との交際歴があるなど、話題性の大きな人物であったのでマスコミは競って報道した。
朝食を食べながら新聞を読んでいて、竜造の死を知った悟郎は、「マジかよ!」と思わず叫び、この驚きを誰かに伝えたい欲求にかられた。しかし独身、彼女なし歴三年の悟郎が思いつくのは、大学時代からの友人で弁護士をしている向井史郎ぐらいしかいない。そこで、早速、史郎に電話したのだが、史郎は「ほぉそうか」と眠たげに言い「用件はそれだけか?」とつれない反応である。拍子抜けして電話を切って、しばらく考えた末に思い至ったのは、人生の喜怒哀楽を共有する伴侶の必要性ということであった。〈よーし、彼女作るぞ!〉心の中で悟郎は叫んだ。
長瀬竜造の死亡事件は、テレビのワイドニュースでも取り上げられた。夜間、国道一四六号を歩いていた竜造が、大型トラックに撥ねられ、ほぼ即死の状態であったことや、加害者であるトラック運転手の供述などを、レポーターが事故現場からの中継で伝えていた。亡くなった竜造は、立志伝中の人物で、華々しい女性遍歴があったことから、週刊誌各紙が格好の話題として取り上げ、特集記事を掲載していた。軽井沢警察の安西と名乗る刑事から電話があったのは、ちょうどそんな最中であった。
安西の電話の用件は、数週間前に悟郎が竜造を保護したときの状況を聴取することであった。駐在からの報告書に添えられていた悟郎の名刺を見て電話したとのことで、報告書の記載事項が事実かどうか一応確認させて欲しいと言う内容であった。悟郎がありのままを伝えると、安西は納得したようで、協力に感謝する言葉を述べて電話を切った。刑事が電話してきたということは、あの不慮の死に何か疑惑があるのではと悟郎は思ったりしたが、その数日後に軽井沢署は、トラック運転手を業務上過失致死容疑で送検すると発表し、竜造の死亡には事件性はなく、単なる交通事故であると結論付けた。
悟郎の事務所に、長瀬彩乃が訪れたのは、竜造が亡くなってから数か月後のことであった。悟郎の事務所は江東区の自宅マンションの一室に、小ぶりの応接セットと執務机を置いただけの簡素極まりないものである。その応接の椅子に座る和服姿の彩乃はいかにも場違いであった。悟郎は、“掃き溜めに鶴”という古い諺を思い起こし、都心のホテルのロビーで会えばよかったと心中悔やんだ。
「わざわざこんなところまでお越しいただいて恐縮です」
「こちらこそ無理に押しかけてしまい申し訳ありません。あのこれ」
彩乃は持参した菓子折りを風呂敷から取り出し差し出した。今日の彩乃は、紺地の大島紬という地味ではあるが大人の女の色香を感じさせる装いであった。
「この度はご愁傷様です。突然のことでさぞかし大変だったでしょう」
「えぇ不慮の事故でしたので、警察から事情を聞かれたり、マスコミが取材に来たりと何かと大変でした」
「そうですか、私のところにも軽井沢警察の安西という刑事から問い合わせの電話がありました」
「それはご面倒をおかけしました。でもあの事故は、交通事故として処理されることが決定したので、もうご迷惑をお掛けすることはないと思います」
「そのようですね、えーっと、ところで、今日は?」
「義父(ちち)を助けていただいたお礼を実際にお会いしてしなければと、ずっと気になっていたのですが、あのような事故があって伸び伸びになってしまいました。それで改めてお礼を申し上げようと思い参りました」
「いやいや、ご丁寧な礼状もいただいています。これ以上のお礼なんて」
「仕事で東京に帰られる途中にも拘らず、わざわざ車を止めて国道を歩いていた義父に声をかけて下さいました。そのうえ駐在所まで義父を送り届けていただきました。誰にも出来ることではありません。本当にありがとうございました」
彩乃に頭を下げられた悟郎は、面映ゆく思い「いや、まぁ、えっと、いま飲み物持ってきます」と言うと、台所の冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、紙コップを添えてテーブルの上に置いた。どの客に対しても、春夏秋冬、ミネラルウォーターと決めているので、彩乃だからと言って特別扱いはできない。それでも普通は出さない紙コップを添えたのは、彩乃がすこぶる付きの美人であったからであり、無節操な己にあきれる悟郎であった。
「こんなものしかありませんが」
出されたものを見て彩乃は軽く頭を下げ、少しお伺いしたいことがあるのですがと前置きをして「義兄(あに)や義姉(あね)から問い合わせなど無かったでしょうか?」と聞いた。
「えーと、どういうことでしょう? 」
悟郎は、質問の意味を図りかねて聞き返す。
「失礼しました。身内の恥を晒すようですが実は、遺産相続について親族間でトラブルが発生しました。私の夫は長瀬竜造の次男ですが、その兄と姉が、夫に対して民事訴訟を起こしたのです」
「ということは、彩乃さんの旦那さんが被告、その兄と姉が原告ということですか?」
「そうです。遺言は、義父が亡くなる一年ほど前に、公証人役場で公正証書として作成されたのですが、義兄と義姉は、その有効性を認めようとしないのです」
「はぁ、なんとか概要が見えてきました。でも、それが私に関係あるんでしょうか?」
「もしかすると原告側は、矢吹さんを証人に立てるのではないかと思いまして」
「私に何を証言しろと言うんですかね?」
「義父を保護した時、義父が深刻な認知症を患っていたことを矢吹さんに証言して貰おうとするのではないでしょうか」
「公正証書遺言を廻る裁判ですか・・・」
悟郎は口を閉じると考え込み、しばらくして口を開く。
「そういった裁判では、公正証書を作成した時、判断能力を持っていたかどうかが重要なポイントになるはずです。私が保護した時点の様子などはさして重要とは思えませんが」
「公正証書を作成した一年ほど前は、他人とのコミュニケーションが可能で、判断能力にも問題がありませんでした。でも、その後、急速に認知症が進行したのです」
「そうでしたか、でも証人に立てるのなら、私のような者でなく、一年前のお父様のことをよく知る人が証人になるんじゃないですかね」
「そうですね、つまらないことをお聞きしてしまいました」
彩乃は恥じているのか、アルカイックな笑みを浮かべ軽く頭を下げた。
「いやいや、気にしないで下さい」
「根が心配性なものですから、いろいろと考えてしまって、でも矢吹さんに話を聞いて貰ってすっきりしました」
彩乃は悟郎の答えに納得したのであろう、最後にもう一度礼を言うと、白檀の香りを残して帰って行った。
彩乃が訪れた日からわずか数日後、今度は、向井史郎が、二十歳台と思われる若い女性を伴って悟郎の事務所にやってきた。史郎は仕立ての良い、如何にも高級そうなスーツを着ている。背が低く、がっしりした体格、顔も格闘系のいかつい風貌だが、昔から身に着けるものにポリシーを持つ中々の洒落者であった。服装に無頓着な悟郎とは大違いである。身長百七十八センチと背が高く、どちらかと言えば甘いマスクの悟郎とは対照的だったので、学生時代は、周囲からシロー・ゴローの凸凹コンビと揶揄されていた。
「悟郎、おまえ、長瀬竜造を軽井沢の国道で保護したんだったよな」
挨拶抜きで、いきなり史郎は悟郎に話しかける。
「あぁ、それがどうした」
悟郎が電話した時、無関心で不機嫌な対応をしたくせに、内容は確り記憶していたようだ。
「その時の様子を、聡理(さとり)さんに詳しく話して欲しいんだ」
「一体どう言うことなんだ。まだ紹介もされてないぞ」
「いや、すまん、そうだった」
史郎は、同伴した若い女性を、三沢法律事務所の所属弁護士の三沢聡理だと悟郎に紹介した。そして、三沢法律事務所が長竜物流の顧問弁護士事務所であることや、史郎が弁護士としての仕事を始めたとき、三沢所長に大変世話になったこと、更に、聡理が三沢所長の孫娘であることなどを悟郎に話して聞かせた。
三沢聡理は、初対面の挨拶と自己紹介をし、三沢法律事務所が、長竜物産社長の長瀬竜一郎の依頼により、原告側の弁護を引き受けたことなどを説明した。聡理は、背が史郎より高いので、身長は百六十五センチ以上あるだろう。大きな丸眼鏡をかけ、髪をお団子にして頭にのせている。黒のパンツスーツ、襟に輝く金色のひまわりバッジ、書類がどっさり入りそうな大型のビジネスバッグなど、精一杯弁護士らしくきめているが、態度といい、話し方といいギクシャクしている。緊張しているからだろうと思うものの、こみ上げる笑いを抑えかねて立ち上がり、台所に行き、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを二本持ってきた。
「こんなものしかありませんが」
いつものように言ってボトルをテーブルに置く。紙コップは無しだ。
「まっ、そういうことで、竜造を国道で保護した時の様子を、詳しく話して欲しいんだ」
史郎の言葉に合わせて、聡理もぺこりと頭を下げる。近くで見ると、目が少し垂れ下がっており、幼い感じがするが整った顔をしている。
「今回の裁判は、認知症だった被相続人の遺言の有効性について争うものです。矢吹さんは、徘徊していた竜造を保護したそうですが、客観的な立場で見て、竜造の認知症はどの程度であったか知りたいのです」
「そりゃ構いませんが」
聡理から真剣に請われて、悟郎は保護した時の経緯を詳しく話して聞かせ、最後に竜造はかなり認知症が進行していたに違いないと結論づけた。
「詳しく話していただいてありがとうございます。それにしても矢吹さんてやさしい方なんですね」
一瞬なんのことやらと思った悟郎であったが「えぇ若い女性にはやさしく接するというのが、私の信条ですから」とボケてみた。
すると史郎が「男友達には、つれない」と、下手な突っ込みを入れる。
「いえあの、私に対して親切ということじゃなくて、矢吹さんが認知症の老人を保護して警察に送り届けたことが親切だって意味です」
聡理が少し慌てた調子で、悟郎の誤解を解こうとする。
「はい、老人にもやさしく接するというのが私の信条ですから」
悟郎の二度ボケに、史郎は馬鹿らしくなったのであろう突っ込むのを止めてそっぽを向いている。そんな史郎と悟郎のやりとりが可笑しいのか聡理は、クスリと笑い俯いた。
「俺の話なんて、大して参考にならなかったでしょう?」
「いえ、亡くなる直前の被相続人の様子が客観的によくわかるお話で、大変参考になりました」
「そう、それならいいんだけど、ところで、長瀬彩乃って知ってますか?」
「えぇ、知っています。その方は被告の奥さんでしょ」
聡理はバッグからタブレットを取り出して、何やら操作していたが「私はお会いしたことがありませんが、とても綺麗な方ですね」と言いながら画面を悟郎と史郎に見せた。彩乃のスナップ風全身写真と顔写真が数枚載っている。今時の若者らしく、裁判に関係する情報は何でもデジタル保存しているのだろう。
「悟郎、この美人がどうかしたのか?」
史郎は、タブレットを見ながら、興味津々といった顔で尋ねる。
「実は数日前に、ここにやってきたんだ」
悟郎は二人に、ことの経緯を話して聞かせる。話を聞き終えた史郎は腕組みをして「ふーむ、そりゃ単に礼を言うために来たんじゃないな」と考え込む風である。
「というと?」
「原告側の動きを探り、場合によっては、おまえを被告側の証人に立てようとしたのかもしれない」
「ふむ、そんなもんか」
「しかしこれで、敵もいろいろと工作していることが分かった。聡理さん、我々も早く手を打たないと、遅れをとることになりかねません」
史郎はいつになく真面目な調子で聡理に言うと悟郎に向き直った。
「そこで、これからが本題なんだが・・・」
言葉を切り悟郎の表情を窺う
「おい、おい、これから本題って、マジかよ」
「実は折り入って矢吹さんにお願いしたいことがあるんです」
聡理も真剣な表情で悟郎の顔を見つめる。
「俺に? 一体どんな」
「原告側証人候補の調査と、証言要請に関することを矢吹さんに手伝ってもらいたいんです」
「俺からも頼む。本来なら俺が手伝えればいいんだが、生憎、公判が幾つも重なっていてな、それにこういった類いの仕事は、俺よりお前の方がずっと向いているからな」
「うむ、まあ、調査ならおまえよりはマシだ」
「是非お願いします」
聡理は、ガバッと頭を下げる。悟郎が承知するまで顔を上げないという決意溢れる頭の下げようである。あっけにとられて悟郎は「まっ、いいか」と思わず言ってしまった。
「あっ! ありがとうございます」
聡理は頭を上げる。その顔は喜色満面、悟郎に断る隙を与えないとでもするように、早口でしゃべり出した。
「裁判で重要なのは一年ほど前の長瀬竜造のことをよく知る人物の証言です。長瀬竜造は、数年前から極端な人嫌いになって軽井沢の別荘に籠るようにして暮らしていました。なので、証人としてふさわしい者はごく限られています。別荘で長瀬竜造の身の回りの世話をしていた長瀬彩乃と住み込みの家政婦、あとは竜造の専用運転手として雇われていた者、それと、数か月毎に往診にくる診療所の医師。それぐらいしかいないんです。その内、長瀬彩乃は、被告人の妻なので、証人には不向きです。残るのは、家政婦と運転手と診療所医師ということになります。診療所の医師は、私が何とか説得して証人になることを引き受けてくれたのですが。家政婦は行方不明だし、運転手は頑なに拒絶していて、私の力じゃこれ以上無理なので、史郎先生に相談したところ、適任者がいるといって、矢吹さんを紹介してくれたのです。なので、お願いです。どうか協力して下さい」
聡理は一気にまくし立てると、疲れたのか、ペットボトルのキャップをねじ開け、水をごくりと飲み一息入れた。
「それから、もう一つお願いしたいことがあるのですが・・・」
「おいおい、冗談じゃないよ、まだあるってどういうことだ」
悟郎が口を尖らせるを見て、聡理は心細そうに史郎の方を見る。
「分かった。その件は俺から話そう」
史郎が引き取って話したことは、原告の一人である義姉の高橋美鈴からの依頼で、凡そ次のようなものであった。
≪竜造は名うての女好きで、女優など多くの愛人がいた。認知症が進み現役を引退して別荘に籠るようになっても、その性質変わらない筈で、別荘で一緒に住む嫁の彩乃に劣情を抱いたことは想像に難くない。彩乃が、その美貌を武器にして竜造を意のままにし、自分たちに有利な遺言を書かせることは容易であったろう。そもそも次男の竜也が、自分たちを差し置いて竜造の同居介護を申し出たのは、財産分与を自分たちに有利にする企みがあったからであり、それでなければ東京の高級マンションで優雅に暮らしていた竜也夫妻が、軽井沢まで来て痴呆老人の世話をするなんて考えられない。つまり竜造の遺言は、竜也夫妻に誑かされて書かされたものであり無効である。ついては、その辺りのことも併せて調査して欲しい≫
「とまぁ、そういうことだ」
説明を終えて史郎はペットボトルに手を伸ばした。
「へー、ドロドロした話だなぁ、それにしても、あの彩乃さんがそんなことするかねぇ」
「なんだ、不満そうな顔だな。あ、そうか、お前、美人に弱いからな」
「えっ、そうなんですか?」
真面目顔で聡理に聞かれて悟郎は狼狽する。
「違いますよ、美人に弱いのは史郎、お前だろう」
史郎が反論しようとするのを、聡理は手で制して悟郎に言って聞かせる。
「詐欺または強迫などによって、被相続人に遺言をさせた者は相続権を失うという法律上の規定があるんです。認知症であることをいいことに、自分たちに有利な遺言を竜造に書かせたことが立証できれば、勝訴に大きく近づきます」
聡理は悟郎の眼を真っ直ぐ見据えて、熱心に訴えかける。
「分かった、分かった。チョー難しそうだけど、やってみるよ」
悟郎は、今度も聡理の迫力に根負けして答えた。
「わぁ、有難うございます。ホント助かります」
聡理は、ガッツポーズをして喜びを爆発させた。
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