第一章 ヘッドハンター

 夏の盛りを過ぎて、夜の国道一四六号は行き交う車も疎らだった。道の両脇は雑木林の黒々としたシルエットが連なっている。その奥には、中軽井沢の高級別荘が点在しているはずだが、針葉樹の深い森に沈んでその灯りが洩れることもない。

 矢吹悟郎は、対向車がないので、先ほどからヘッドライトをハイビームにしてステアリングを握っていた。運転している車は、日本ではマイナーなピックアップトラックである。古い型式のシボレー・シルバラードで、すこぶる頑丈な造りだが燃費はどうしようもなく悪い。夜間のドライブになったのは、急な仕事が明日の午前中に入り、急遽、東京に帰らなければならなくなったためだが、ハイな気分であった。悟郎の仕事は、フリーランスのヘッドハンターであり、三十歳で会社勤めを辞めて、この商売に就いてかれこれ五年が経ったところである。仕事の中身は、エグゼクティブクラスの人材を企業へ紹介斡旋することなので、クライアントやキャンディデイト(紹介候補者)との急な面談要請は珍しいことではない。明日、面談することになった人物は、一年ほど前から外資系化粧品メーカーへの転職を働きかけてきた化学系の研究者であった。大きな獲物を目前にしたハンターのように、悟郎の心は弾んでいたのである。

 カーナビは、あと五キロほど先で、国道十八号に突き当たることを示している。カーナビの画面から目を戻した時、ハイビームが何か動くものを捉えた。目を凝らして見つめる。どうやら人の後ろ姿らしい。ブレーキを踏んで速度を緩めた。

後ろ姿らしきものに近づくにつれ、それが背広姿の男で、白髪頭の老人であると見て取れた。体を前後に揺らしながら、足を少し引きずるようにして歩いている。悟郎はハザードランプを点灯すると、車を道端に止めた。車を降りた悟郎は、老人を追いかけ、驚かせないように横に並び声をかけた。

「大丈夫ですか?」

老人は呼びかけられて初めて悟郎の存在に気付いたようで、ようやく立ち止まった。肩で息をしており、いかにも苦しげである。

「どこに行くのですか?」

老人は、何か言おうとして口を動かそうとするが、わなわなと唇を震わせるばかりである。

「家はこの近くですか?」

老人は何かを訴えるように、悟郎の方に手を伸ばそうとしてバランスを崩しよろめいた。悟郎があわてて受け止める。

「オッと、こりゃ参ったな」

どうやら徘徊老人らしい。悟郎は老人の身体を支えながら、どう処置したらよいか思案を巡らした。

「あなたの家まで送ります。だから、あの車に乗りましょうね」

老人は体力と共に気力も尽きたのか、抵抗する素振りを見せないで、悟郎の腕に抱えられて車に向かった。

 ピックアップトラックは、普通の乗用車に比べて、車高が高い。老人を何とか後部座席に押し上げる。運転席に戻った悟郎は、カーナビを操作して付近の警察施設を探した。上手い具合に近くに駐在所があるらしい。悟郎は、カーナビの目的地をその駐在所に設定すると車をスタートさせた。

 

 三角屋根の可愛らしい造りの建物がライトアップされている。悟郎は、行先を間違えたかと一瞬戸惑ったが、赤色灯が入口にあるので、目指す駐在所に違いないと思い直し、駐車スペースに車を止めた。老人は寝ているようなので、悟郎一人が車を下りて、駐在所の中の様子を窺う。室内の照明は点いているが、誰もいないようである。交番や駐在所の警察官が不在がちであることは経験則で先刻承知済みなので、かまわずドアを開け室内に入りあたりを見渡す。入口近くにスチール机があり、その上に電話と卓上案内板が置いてある。その案内板に、警察官不在の場合の連絡先が記されていたので、受話器を取り上げ、電話番号をプッシュした。

「はい、こちら軽井沢警察です。どうかなさいましたか?」

軽井沢警察署に直接繋がるとは想定外であったが、認知症らしき老人を保護したことを伝える。

「それはご苦労様です。駐在警察官に連絡するので、電話を切らずそのままお待ち下さい」

奥の居住スペースにいる駐在に連絡するのだろうと推量して、受話器を耳に当てたまま待つ。

「すぐに駐在警察官がそこに参りますので、電話を切って、そこでお待ちになって下さい」

了解した旨を告げて、受話器を置くと悟郎は車に戻り、老人を助手席から降ろし、腰に手を回して支えながら駐在所に連れ込んだ。


「あぁ、保護したのはその人ですか?」

制服のボタンを掛けながら、奥から出てきた駐在が声をかけてきた。ドラマなどによく出てくる“駐在さん”のイメージ通りの人物である。

「えぇ、あの、どこか腰掛けるものはありませんか?」

「あっと、その衝立の裏にベンチがあります」

駐在も手伝って老人をベンチに座らせる。

「少し震えています。寒いのかもしれません」

「夏とはいえ軽井沢の夜は冷え込みますからね」

駐在は、部屋の隅の物入れから毛布を持ってくると、老人の肩に掛けた。

「お爺さん、あなたの名前は? お家はこの近くかな?」

駐在はかがみ込み、老人に話しかけるが返事がない。

「どこか怪我していませんか? 気分悪くないですか?」

駐在は老人の耳元に口を近づけ、声を大きくする。それでも、老人は惚けたような表情のままである。

「怪我はなさそうですが、だいぶ歩き回ったようで足を少し引きずっていました」

悟郎が代わりに答えると駐在は振り向いて頷き返す。

「そうですね、まぁ見た様子じゃ救急車を呼ぶほどではないでしょう」

駐在は立ち上がり、壁に立てかけてあった折り畳み式のスチール椅子を二つ取り出すと、拡げて悟郎に座るように勧め自分も座った。

「どちらで保護されました?」

「えーと、ここから四,五キロメートル先の国道です。長野原から軽井沢に抜ける道路です」

「国道一四六号ですな。一人で歩いていたんですか?」

「ええ、なんか様子がおかしいので、車を止めて声をかけたんですが、返事をしないんです。服装も変だし認知症の老人だと判断して保護しました」

「なるほど・・・ワイシャツを着ていませんね。背広の下は肌着だし、ズボンのベルトもしていないな」

「この近くの別荘の住人と思われますが、顔に見覚えないですか?」

「見覚えはありませんが、どれ、おじいちゃん、失礼しますよ」

駐在は老人の背広に手をやり、ネーム刺繍がないか調べる。

「長瀬って刺繍があります。ちょっと待って下さい。身元が分かるかもしれません」

駐在は、書庫から分厚い名簿リストを取り出すと、スチール机に置いて調べだした。

「長瀬、長瀬と・・あぁありました。長瀬家の別荘が上の原にあります。早速連絡してみましょう」

駐在は電話をしていたが、連絡がついたようで、すぐに迎えにやって来ることを悟郎に告げた。

「それは良かった。それじゃ、私は東京に帰らなければならないので、これで失礼します」

「あっいや、時間が許すようなら迎えがくるまでお待ち願えませんか。それから報告書に保護した方の名前を書かねばならんのです。名刺がありましたら頂戴したいんですが」

悟郎は迎えが来るまで待つ事を承知し、車の中のバッグから名刺入れを取り出すために駐在所の外に出た。先程から煙草を吸いたかったところだったので、早速、一服する。いつもの癖で、顔を上向きにして煙をフーっと長く吐く。その目線の先の夜空に青白い月が煌々と輝いていた。


車が駐在所の前に停車する気配がし、ドアの開閉音がして間もなく、一人の女性が入口に現れた。年の頃は三十歳前半といったところか、すらりとした長身に鮮やかなブルーのロングカーディガンを羽織っている。先ほど見上げた玲瓏な月の光を身に纏っているように思えて悟郎は見入ってしまった。

「義父(ちち)は無事でしょうか? 」

緊張しているのだろう、美しいその顔は血の気が引いて青白く、心配そうに眉根を寄せていた。

「怪我はなさそうですが、かなりお疲れのようです」

駐在が答え、衝立の裏側に女性を案内する。そのとき入口から、背広姿で両手に白手袋をした男が入ってきた。実直そうな初老の男で、多分、乗用車の運転手だろうと吾郎は見当をつける。

「お義父(とう)様、大丈夫?」

女性は、ベンチに歩み寄り、跪いて老人に声をかける。

「おお、あぁ」

今まで誰の問いかけにも応じなかった老人が初めて反応を示す。

「お迎えに来ました。別荘に帰りましょうね」

老人が、二度、三度と頷くのを見て女性は立ち上がり、振り返って駐在と悟郎に向き合った。

「義父(ちち)を国道で保護していただいたと先ほど電話でお聞きしましたが、本当にありがとうございました。保護していただけなかったら、車に轢かれていたかもしれません」

「こちらの方が、国道を歩いていたお父様を保護し、この駐在所に連れてこられたんです」

駐在が後ろに立っている悟郎を紹介する。

「ご親切にしていただきありがとうございました。ご面倒をお掛けしましたが、お仕事の途中ではなかったのでしょうか?」

「いや、今夜中に東京に帰ればいいんで気にしなくていいです」

「義父を早く連れて戻りたいので、このお礼は後日改めてさせていただきたいと思います。不躾ですがお名刺を頂戴できないでしょうか」

名刺入れは、バッグから持ってきて尻のポケットに入れている。

「お礼なんてお気遣いは不要です。でも、名刺を渡さないのもカッコつけるようでなんですから」

悟郎から名刺を受け取りながら、女性は、自分は、長瀬彩乃だと名乗った。

「それでは、父を連れて帰らせていただきますが、よろしいでしょうか?」

「えぇ構いません。ですが、本署に報告書を出さなければならないので、明日別荘に伺い二,三お話をお聞きしますのでよろしくお願いします」

「分かりました、明日、お待ちしています」

彩乃が老人の手をとり、運転手が、老人の体を支えベンチから立ち上がらせる。老人は休息をとったことで、元気を取り戻したらしく、意外と確りした足どりで駐在所を出て、乗用車の後部座席に乗り込んだ。悟郎は、駐在所の外に出て煙草に火をつけ、テールランプが遠ざかるのをしばらく眺めていた。


彩乃たちが乗る黒塗りのベンツは、別荘地の幹線道路をそれて、細い舗装道路に入り、そして今、車一台がやっとすれ違うことができる道幅の砂利道に差し掛かったところであった。砂利道の入口には、浅間石の石積みの門柱があり、左側には、“これより私道、立ち入り禁止”、右側には警備会社のロゴマークの入った小さな看板がそれぞれ立てられている。ベンツが進む砂利道の両側は鬱蒼とした針葉樹の林であり、闇を一層深いものにしていた。左カーブを回り込むと、その先は緩やかな上り坂になっている。ベンツは、なおも徐行して進み、坂の上に建つ別荘の車寄せに至ると静かに停車した。

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