Ночная луна
錦月
1.ミルクを混ぜて召し上がれ
今日は最悪の日だった。
生徒会に提出する資料と数学の宿題など、どれも今日必要なものが全て入ったファイルを自宅に忘れてきた。資料は明日持っていくことで生徒会の人は許してくれたが、先生側には謝罪をしに行かないといけない羽目になり、宿題を忘れたせいでこれまた別のの先生に叱られ、しかも部活ではなかなか意見がまとまらず意見を言わなかったがために「積極性がない」と怒られた。どこまでもついていない。自分はなぜこんなこともできないんだろうと悲しくなり、またそんなことを言っている自分に嫌気がさした。私はいつもこうだ。前日に自分がしっかり準備をしていなかったせいなのに後悔をする。そしてまたそんな自分に苛立って。悲しくなって。なぜか涙だけが止まらなくて。
バカみたいだ。
だけど、やめれない。どうしようもない人間。
もっとフランクに、あっけらかんと生きれたら、
どんなに楽なことだろう。
でも、こんな迷惑な性格は治らない。
そんな感情を背負いながら、家路へと急ぐ。だが、今日は帰りたくなかった。
昨日、父と母が言い合いをしていたのだ。何も今更そんなことを気にしているわけではない。ただ、気分も気分だったのであまり帰る気にはなれなかった。
さっき、泣いたせいで目が腫れている。しょうがないので人があまり通らない裏道を通って行こうと思い、いつも通らない道を通った。裏道のため、人はほとんど通らないがもしものために下を向いて歩く。涙で視界がぼやける。危ないからと思いゆっくりと歩いた。自分の小さな嗚咽だけが裏道に響いて余計むなしくなった。そんな思いばかりが自分の中でぐるぐると回ってわからなくなっていく。するとぼやけた視界から見えていたコンクリートが色を変えた。
「わっ…!」
慌てて立ち止まり、目を見開く。そこには三毛猫がいた。黄色の鋭い瞳が私を見つめる。
「ミャー」
わたしに、声をかけてきた。そんなのは自分の思い込みだろうけど。つい手を伸びしてしまった。私にすり寄ってきて、思わずほほが緩んだ。すると、横でドアが開いた。
「あらあら、すいませんねぇ~。ほら、なかにはいりなさい、たま。」
そこにいた初老の男性が甘ったるい声で話しかけてくる。
「あっ、すいません。」
一言謝りながら猫ちゃんを撫でるのをやめる。男の人が猫ちゃんを呼ぶが、猫ちゃんは私のそばから離れようとしない。
「あ~、こりゃ動かないね。ちょっと、その猫もって店ん中入ってきてくれないかな?」
男性は優しい微笑みを浮かべて私を見つめる。私は、泣いたせいで赤くなった目を気づかれないようにして一瞬ちらりと男性を見た。
「いやね、こんな風になったらこの子絶対動かないんだよ。頼むよ。」
「あー…わかりました。」
私はためらいながらも誘いには断れず、自分の自己主張のなさに改めて嘆きながらもなんだか、変なことに巻き込まれてしまったと思いながら、しかたなしに店のなかに入った。
カウンター席とテーブル席が3つほどあるまあまあ広い店内。カウンターの中には金属製のコーヒーを作る機械や後ろの棚には瓶に詰められたコーヒー豆で埋め尽くされている。シックな雰囲気の店内にはコーヒーのいい匂いが立ち込めている。もしかすると私は無意識にこの匂いに導かれていたのかもしれない。
「せっかくだし、コーヒー飲んでいかない?」
男性、おそらくマスターだろう。彼からの突然の提案に私は驚いた。
「いいんですか?」
つい、笑顔でマスターのほうを見る。正直、こんないい匂いを嗅いだら飲みたくもなる。私の声は、弾んでいた。
「うん、たまも君のこと気にいったみたいだしね。」
「ミャー」
マスターが私の抱えている猫(たまというらしい)を撫でながら言う。
「なら、お言葉に甘えて…。」
私は、マスターのご厚意に甘えてコーヒーをいただくことにした。
私が座ったのは、カウンター席でコーヒーを入れるマスターの正面の席だ。
マスターはゆっくりとコーヒーを入れていく。私はコーヒーを入れる仕草に思わず見惚れてしまった。流されるような仕草。そのしぐさはいつだったかテレビでみた新体操のリボンの動きのように無駄がなくスピード感があった。マスターの伏し目がちにコーヒーに落とされた視線は色気さえ感じさせる。
「はいどうぞ」
私がコーヒーを入れるしぐさに見惚れているうちにコーヒーが出来上がっていた。
「放課後の寄り道、楽しんで」
ニッと口角を上げたマスターが私にコーヒーを差し出す。出来上がったコーヒーが目の前に置かれる。
ティーカップから出る湯気から芳醇な香りが伝わってくる。今まで嗅いだことがないほどに奥ゆかしく心地の良い香りが私の鼻腔をくすぐる。
「ミルクを入れて飲んでね」
と、ちいさな銀色のミルク入れをコーヒーの隣に置いた。
私は小さく頭を下げて、さっそくコーヒーにミルクを入れる。ティースプーンでゆっくりとかき混ぜればミルクの白がゆっくりと茶色のカーテンに包まれていった。ミルクが混ざることで少し変わったそのコーヒーを興味深く見つめる。
「いただきます。」
神妙な面持ちでコーヒーカップに口をつける。
口にコーヒーを含む。その瞬間コーヒーの匂いが鼻に伝わり、口の中でミルクの甘みとコーヒーの苦みが絶妙ななんとも形容しがたい味が舌をゆっくりとつつんでいった。
「おいしい…!」
思わず私は声を上げた。体がじんわりと温まっていくのを感じる。
「あはは、そう言ってもらえると嬉しいよ。うちのコーヒーはお客さん一人一人のためにその人だけのコーヒーをいれるんだ。」
マスターは人懐っこい笑みを浮かべてうれしそうに言った。
「その人だけのコーヒー…ですか?」
私はふと疑問に思ったことをマスターに問う。
「うん。僕がこの人にはこういうコーヒーを飲んでほしいなぁっていうコーヒーを入れるんだ。だから、うちには他のバリスタはいないし、メニューもない。」
マスターはそういって目を細めてほほ笑んだ。私はその瞳に何がとても強い光を感じた。
「…コーヒーが好きなんですね。」
思わず口走る。コーヒーの専門店なんて好きじゃないとやれないのに何を当たり前なことを聞いているのだろう。そう思ったが遅かった。
でも、マスターは
「ああ、好きだ。」
と、そういったマスターの顔は色っぽいような少年のようなそんな表情をしていた。私にはそんなマスターの姿が綺麗に見えた。
小さな声で「素敵ですね。」と同調するように言葉を紡げば、マスターは驚いたように目を見開いた後またゆっくりと目を細めた。
すると、マスターは冷蔵庫からいくつかの材料を取り出しなにかを作り出した。その作業をぼーっと見ながら私がちびちびとコーヒーを飲んでいると、
「よかったら、これもどうぞ」
と、私の前にきらきらとしたケーキがおかれた。
「こんなにいただけないですよ。」
最初はいやいや入った手前、こんなにいただくなんて申し訳ないと思い、断る。
「いやね、これお客さんには出してないのよ。おいしいかどうか食べてみてほしいんだ。」
甘いものも好きだし、丁度お腹も空いてきたころだ。そこまでいうなら…と了承して、先ほどの抵抗も忘れてケーキを頬張る。
ケーキは、2層構造になっていて一番下のスポンジの上にはたっぷり乗せられたマーマレードのジャム。2段目のスポンジを経て、一番上にはマーマレードの練りこまれた生クリームがなんとも美しい。さらにその上にはマーマレードが花を咲かせている。生クリームがドレスであれば、マーマレードはさながらドレスのコサージュのようだ。
食べてみると、思っていたより癖が強くなく、あっさりとした仕上がりになっている。マーマレードのジャムがいい案配ですごくおいしい。
「これおいしいですよ!お客さんに出した方がいいと思います。」
私は純粋に思ったことを口にした。
「あら、ほんと?うれしいね~」
マスターは私の言葉に女の子のようにキャッキャと喜んだ。なんだかかわいらしい人だなと思い、笑ってしまった。
カランカラン…
丁度その時店のドアが開き、長髪のカッコイイ雰囲気の男性がお店の中に入ってきた。
「いらっしゃい」
「おう」
どうも常連さんらしい。その人は、私の隣を一席分開けて座った。
「マスター、いつもの」
「はいよ」
そう言ってマスターは大きめのマグカップを戸棚から取り出し、それにコーヒーを入れていく。私は、その男性に強い違和感を覚えた。
(どっかで見たことあるような…。)
いったいどこだったか、男性をジーと見つめる。
「なんだよ」
男性はとても迷惑そうな顔をして、私に声をかける。
「え、あ、すいません…。」
私は突然のことで少しどもりながら、謝る。
「いや、なんで謝る。」
「お、怒ってるのかと思って」
「怒ってはない。ただ、あんたがずっと俺のことを見てるからな」
なんだこの人、めんどくさい…。原因は自分だが、いやな人に絡まれたと思ってしまった。
「よしなさい、ケンちゃん。こわがってるでしょ?」
マスターが私に助け舟を出してくれた。
「は!?なんで怖がってんだよ」
「顔が怖いからだよ。」
「なっ…!」
男性ははシュンとしてなんで俺は…と小声で文句を言いだした。
「あっ!」
その横顔を見て思い出す。この人は…
「あなた俳優の南雲健一さんじゃないですか!?」
CMやドラマに引っ張りだこの有名な役者だ。通りで見覚えがあるわけだ。
「うん、そうだけど。」
「そうだけどって…。え、そんな有名人がこんなところで何してるんですか!?」
「今日は、撮影で近くに来たんだ。俺、ここの常連なの。」
「へぇー!すごい…。」
私のことはつゆ知らずその美しい横顔を私に向けてコーヒーを飲んでいる。
「…。」
テレビで見るよりかっこいいかも…?そう思い、また見つめてしまった。
「……何?」
「!いえ、何も…。」
「そんなに僕のことを見つめてるのに?」
南雲さんは少し上目遣い気味に見つめてくる。流し目はおんなじ男の人でもドキリとするような雰囲気だ。
「別に見つめてなんかいませんよ!」
「あ、そ」
そういうと先ほどとは打って変わって乾いた眼をした。
そうだった…。南雲健一は世間でも有名な女たらしだった。その美しい容姿ににじみ出る色気。まさに色男。忘れていた。そんな私たちの様子をみてマスターは声を出して笑った。
「な、なんで笑うんですかマスター…。」
私は眉間にしわを寄せてしまう。
「ふふっいやね、君たち初めて会ったのにもうすでにいいコンビだな~と思って。」
「へっ!?何ですかコンビって!そんなんじゃないですよ!」
「そーだぞ、マスター。俺はこんなガキとコンビなんてありえん」
南雲さんはすました顔でコーヒーを飲みながら雑誌を読んでいる。
悔しいことにその横顔はほれぼれするほどかっこよかった。
「そういえば、君の名前聞いてなかったよね?」
マスターが突然を私に声をかけてきた。そういえば、そうだった。入ってからすぐにコーヒーをいただいて落ち着く間もなく南雲さんがやってきたからだ。
「そうですね。えーと、花澤祐希です。よろしくお願いします。」
「祐希ちゃんか。ふふ、かわいい名前だね。」
「顔に似合わずな」
マスターの言葉に顔をほころばせた私もすぐに真顔になった。
「余計なこと言わないでください。」
「あ~、ケンちゃん。冗談でも女の子にそんなこと言っちゃいけないよ。」
「ハイハイ。」
マスターを横目で見て乾いた返事をする。いい加減な人だ。
それにしても、そうやってケーキを食べたりコーヒーを飲んだりしてゆっくりするのはずいぶんと久しぶりのことのような気がする。久しぶりに心もお腹も満ち足りてさっきの悲しい感情もどこかにいってしまったようだ。ここにきて、よかった。そう思いながら私は席を立つ。
「あれ?もう帰っちゃうの?」
マスターは小首をかしげながら私に問う。
「はい。お腹もいっぱいになったし、時間も遅くなってきましたし。」
「あれ、ほんとだね。女の子はそろそろ帰らないといけないね。」
そう冗談ぽくマスターはいうと、レジへ向かう。私は、レジスターに電子文字で表示された数字に戸惑う。
「え、安すぎませんか?ケーキ代は?」
「いやいや、それは僕が食べてほしかっただけだから。」
「でも…。」
厚かましくケーキまでご馳走になっておいて払わないなんて申し訳ない、私はこんなにも満足させてもらったのに少なすぎると感じた。
「ケーキは僕からのハンカチだと思って受け取って」
「ハンカチ…?」
「だって、涙止まったでしょ?」
私は目を見開く。まさか気づかれていたなんて…。しかも私を気遣ってこんなことを?そう思うとまた涙が出そうになったがこらえて、マスターに笑顔を向ける。
「涙、止まりました。」
そういえば、マスターも顔にしわを作って笑った。
言われた代金を支払って、私は店を出る。
「いやー、若い子と久しぶりに話したからすごく楽しかったよ。ありがとうね、祐希ちゃん」
「い、いえ!私の方こそありがとうございます。美味しかったです。」
「ここ等辺は暗いから気を付けて帰ってね。」
会釈をして、店から離れようとする。でも、少し名残惜しくて口走る。
「あの…また来てもいいですか?」
私は遠慮がちに問う。
お店から漏れるまばゆい光でマスターの顔は見えない。
「いつでもおいで。待ってるからね。」
ああ、この場所は。
「______。」
Ночная луна 錦月 @hiseniki
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