6

 バーカン・マーカスから、その日のうちに電話で、得体のしれない男から奇妙な手紙を受け取ったという報告を受けると、AとAのしもべのあいだで、Aのアジトにただちに帰還すべきかどうか、議論になった。

 Aは、留守のことは、万事マーカスにまかせてあるとして、ただちに帰還すべきほど、事態は切迫していないと見ていたが、しもべのうち、ユキトは『マーカスが心配だ。自分だけでも、ただちにAのアジトに帰還すべきだ』と言って、聞かなかった。

 結局、ユキトは、次の日の朝、朝食を食べてすぐ後に、すっかり荷造りを済ませて出てきた。

 それを見て、Aの妹は兄に聞いた。

「ユキトさまは、もうお帰りになるのですか?」

「ええ、地元で、ちょっとしたトラブルがあったようで。わたしは大丈夫だと言ったんですが、彼は心配だと言って。彼だけ、一足先に帰ることになりました」

「責任感の強いお人なんですね?」

「はい。まあ、心配性とも言いますが。それが彼の短所であり、長所でもあります。わたしは部下の中で、彼のことをいちばん尊敬して、頼りにしているのです。――ところで、妹よ。もしかして、あなたさっき、ユキトのことを『ユキトさま』と呼びませんでしたか? わたしの聞きちがいでしょうか」

「いいえ? たぶん、お兄さまの聞きちがいですわ」


 さて、ユキトを駅まで見送ると、その足で、Aはしもべと山に登った。妹も一緒にくっついてきた。

 Aはなにか目的があって、山に登ったのではなかった。当然の話であろう。人間というのは、なにか目的があって、山に登るのではないからである。Aも、そこに山があったから、山に登っただけだ。要するに、ただの思い出づくりである。

 ガルガンチュアとヨーゼフの二人のしもべも、二日後には、この地から引き上げることになっていたからである。

 Aたちが登ったのは、Aの祖父母の家から比較的近い場所にある、とくに名の知れていない山であった。聞けば、そこもAの祖父母の家の地所であるらしい。名の知れていない山のことであるから、登山道もきちんと整備されておらず、急な崖に面した難所なども、いくつかあった。

 しかし、全体的に言えば、足がまともに動く人ならば、さほど登るのに難儀する山ではなかった。

 見晴らしのいい高台まで来ると、Aの妹は、彼方にある山に向かって叫んだ。

「ホヨホー! ホヨホー!」

 奇妙に思った兄が、聞いた。

「妹よ、なんですか? その、ホヨホーというのは」

「え? お兄さまは、ご存じないの?」

「いえ――、たぶん知りません」

「山に来ると、みんなホヨホーと叫ぶのですよ?」

 むろん、山では、ヤッホーと叫ぶのが一般的である。妹は、なにか勘ちがいして、ホヨホーと叫んだのであろうが、兄は、妹のまちがいを訂正しなかった。そもそも、掛け声に正解なんてなかろうし、なにより、ホヨホーと気持ちよさそうに叫ぶ、妹の気分を害したくなかったからである。

 Aがなにも言わなかったので、Aのしもべも、妹にならって、彼方にある山に向かって、ホヨホーと叫んだ。Aも、かれらにならって、彼方にある山に、ホヨホーと叫んだ。

 妹のホヨホーは、澄んだよく通る声で、ふもとまでよく響いてきた。それは、Aの祖父母の家にまで聞こえてきていたと、Aの祖父は後に述懐している。


 Aたちは、たっぷり二時間以上かけて、山を登った。山頂でおにぎりを食べ、しばらく休み、めいめい自分の携帯やカメラなどを出し、写真なども撮りおえると、山を下りようとした。

 ちょっとした事件が起こったのは、その下山中のことであった。

「あいたたた……!」

「大丈夫か、妹よ!」

「大丈夫。ちょっとくじいただけですわ。ぜんぜん平気です。歩くのにまったく支障ありません」

「嘘をつきなさい。あなたは立っているだけで、そんなによろめいているじゃないですか」

 妹が、木の根元に足をとられ、足をくじいてしまったのである。

 Aが、どうしようか思案していると、ガルガンチュアが言った。

「若旦那よ、ここは、わたくしめにお任せあれ。わたしが姫をおんぶして、ふもとまで運んで差し上げましょう!」

 すると、ヨーゼフが言った。

「いえ、ここは、ガルガンチュアどのではなく、下っ端であるわたしが、姫をおんぶして差し上げるべきです!」

 二人とも、妹をおんぶしようと、一歩も譲らず、ついには、つかみ合いの喧嘩にまで発展しそうな勢いだったので、Aが止めに入った。

「よさんか、ばかもの。まったく、おまえたちときたら。……じゃんけんしなさい。勝ったほうに、妹のために一番しんどい役目を果たしてもらうとしよう」

 ガルガンチュアとヨーゼフは、じゃんけんをした。

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