9
Aの母が姑の陰湿ないじめに苦しんでいた頃、Aの祖父母の家の地所では、Aのしもべたちが、Aに頼みこんで、労働を志願してした。
その日、ルーカス・アバントゥーラは、朝早くどこかに出かけたようで、いなかった。
最初、Aは、しもべは当家のゲストだからと、しもべの労働の申し出を断ったが、しもべの熱意に押し切られるかたちで、しもべの申し出を受け入れた。
Aはしもべたちに命じて言った。
「ガルガンチュアは、まきを割れ! ヨーゼフ・マルクスは、洗濯を手伝え!」
Aがしもべに訓示を与えているところに、ユキトが近づいてきて、言った。
「若旦那よ、わたしはなにをすればよろしいでしょうか?」
Aはこまり顔で言った。
「ユキトよ、おまえは病み上がりなのだから、働かなくともよい。縁側で、日向ぼっこでもしていなさい」
そこに、妹がつかつかやってきて、言った。
「若旦那よ、わたくしはなにをすればよろしいでしょうか!」
Aはあきれ顔で言った。
「妹よ、兄をからかっているのですか? あなたまで、わたしのことを若旦那と呼んで、労働を志願しなくてもよろしい。暇ならば、山羊に餌でもやっていてください。うろちょろして、わたしたちの邪魔をしないでください」
「まあ、お兄さま。邪魔するだなんて、人聞きがわるい。妹を邪険にしていたら、いまに天罰が下りますわよ?」
「ああ、はい。妹よ、たいへん申し訳ありません。このとおり、あなたに謝罪します」
兄は妹に平伏した。兄は、妹とくどくど議論している時間を節約したかったのである。
兄が面を上げると、妹は兄に言った。
「で、お兄さまは、なにをなさいますの?」
「わたしは、しもべの労働を監督します」
「なるほど――。他人に働かせて、自分は高みの見物というわけですのね? さすが、わたくしのお兄さまです。ここぞというときに、頼りになりますわ」
「妹よ、あなたのその言葉は、わたしには皮肉にしか聞こえません。わたしは、監督も、立派な業務だと考えますが?」
「もちろんですわ。監督と称して、他人に偉そうに命令を下すのは、実際にまきを割ったり、洗濯を手伝ったりするよりも、立派な業務にちがいありませんものね?」
「……」
「お兄さまの、若旦那としての重責を考えますと、妹は頭が下がる思いでおります」
そう言って、妹は兄に平伏した。
妹が面を上げると、兄は妹に言った。
「妹よ。軽い気持ちで、若旦那という職業が務まると思わないでください。――とはいえ、妹にそこまでおっしゃられては、兄の名がすたります。よし、わたしは沢に行って、釣りのリベンジをしよう。労働に従事するしもべたちに、せめてもの報いとして、火で焼いた川魚でもって、労をねぎらうためである。妹よ、お願いだから、あなたは付いて来ないでください。あなたが傍にいないほうが、沢でのわたしの釣果が、格段にアップするとわたしは考えます」
妹は兄に言った。
「よろしい。お兄さまは、一人で沢に行って、存分にリベンジを果たしてください。――とはいえ、兄にそこまでおっしゃられては、妹の名誉にかかわります。お兄さまよ。もし、一人で沢に出向いて、以前と同じように、一匹の釣果もなかった場合は、妹を邪険にした罰として、わたくしに、比較的高いバッグを買っていただきますが、それでよろしいですね?」
「わかりました。そこまで挑発されては、後には引けません。兄は、妹の挑戦を受けて立ちます!」
「それでこそ! わたくしのお兄さまです。――さてと! そうと決まれば、わたくしは縁側に行って、ユキトさまと将棋でも指して、のんびり待っているとしますわ。ふふふ。お兄さまよ。それでは、ごきげんよう」
そう言って、スキップをして遠ざかっていく妹の背中を、Aは愕然として見つめた。
Aは一人になると言った。
「ユキトさまだと? まさか、ユキトのやつ。わたしの妹を、たらしこんだのではあるまいな?」
これは、Aのまったくの誤解で、ユキトはAの妹をたらしこんだりはしなかったし、Aの妹のほうでも、ユキトに対して、格別、恋愛感情を抱いているわけではなかった。
しかし、Aの眼から見れば、Aの妹は、風邪をひいたユキトを、無償で看病していたし、ユキトは、Aのしもべたちのなかでは、比較的イケメンだったから、妹がユキトに対して恋愛感情を抱いているように見えたとしても、おかしくはなかった。
三時間も経つと、Aも、冷静になって、妹は未成年だし、ユキトにかぎってそんなことはないと、自分を戒めたのであるが、三時間が経つまでのあいだ、つまりAが沢で釣りをしているあいだは、ユキトが妹をたらしこんだのではないかと、邪念が頭をよぎり、Aはまったく釣りに集中できなかった。
そうでなくても、Aの釣りの腕前は、ぜんぜんたいしたことなかったから、結局、Aは、空のバケツをひっさげて、一匹の釣果もなく、沢を後にすることになったのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます