8

 風邪をひいたユキトが高熱で苦しんでいた頃、娘を残して父母のもとを離れ、Cの家庭に入ったAの母親は、Cの家で、Cの母から陰湿ないじめを受けていた。

 Cの母は、昼間はパートに出て、稼ぎの少ないCの家計を助けており、どれだけ小言を言っても、外に働きに出る決心をしようとしないAの母に、ことあるごとに難癖をつけ、ひどくなじった。Aの母は、それが結婚の条件であり、Cはそのことを同意の上で、自分と結婚したのだと、さんざん口を酸っぱくして言ったが、どれだけ言っても、Cの母は、Aの母の言い分を頑としてはねつけた。

「自分は外に出て働いているのに、どうして嫁である女は、外に出て働かないのか、それはおかしい」

 Cの母の頭の中にあるロジックは、たったこれだけだが、誰が何を言っても、彼女の信念を変えさせることはできなかったであろう。誰が何を言っても、『だって、自分は外に出て働いているのに』と言えば、彼女は議論に勝つことができたし、これからも勝つことができると確信していた。要するに、頭が悪かったのである。

 理屈を理解しない相手に、理屈で勝つことはできない。これは、自明の理である。彼女と議論して勝つことは、ソクラテスですら、できなかったであろう。孔子でも、できなかったであろう。釈迦なら、できたかもしれない。彼女は、仏教徒だからである。しかし、自分のしていることが、仏の教えに背くものではないかと、自分の頭で反省したりすることは、絶対になかった。

 まず、そのための頭がなかったし、そもそも彼女は、仏の教えとはどういうものか、まったく理解していなかったからである。要するに、真の仏教徒ではなかった。世に大勢いる、形骸化した仏教徒であり、聞いて耳によい教えにのみすがり、念仏をとなえるだけで極楽に往生できるという、まともでない教説をまともに信じている、徳の低い俗物にすぎなかった。要するに、鬼女であった。

 鬼女である女は言った。

「外に働きに出ないのであれば、せめて家のことは、完璧にしなさい。完璧にできないようであれば、外に働きに出なさい。もちろん、外に働きに出ても、家のことはしてもらいます。あなたは、当家の嫁なのですから」

「完璧とは、なんですか?」

「完璧とは、完璧のことです。わたしが満足しないなら、完璧ではありません」

「完璧とは、あなたが満足することをいうのですか? わたしは、辞書を引いてみましたが、完璧の項目には、そのような意味は見当たりません」

「あなたはなぜいつも、そうやって屁理屈をこね回すのですか? 口を動かす暇があったら、手を動かしてください。家事を完璧に行ってください。わたしが満足するまで、床を磨いてください。わたしが満足する食事を、あなたが用意してください。なぜなら、わたしは外に出て働いていますし、あなたは、当家の嫁だからです」

「わかりました……」


 あるとき、妻は夫に言った。

「あなたの母親はひどい。どうか、あなたから言って、わたしへのひどいいじめをやめさせてください」

 夫は妻に言った。

「わたしは仕事で疲れています。その話は、また明日にしていただけませんか?」

 夫の母の愚痴を言った翌日から、夫の帰宅時間は、みるみる遅くなった。

 それでも、妻は夫に、夫の母の愚痴を言い続けた。妻にしてみれば、それしか、事態を打開できる手立てがなかったからである。

 あるとき、夫は妻に言った。

「どうか、わたしの母のことを、悪人のように言わないでください。わたしを産み、育ててくれた人のことをあなたが悪く言うのを聞くと、わたしは悲しくなります」

 ついに、妻は、外に働きに出る決心をした。妻は、外に働きに出て、家計を助けた。

 しかし、姑の陰湿ないじめは続いた。姑の妻に対する要求は、妻が外に働きに出る以前と以後で、まったくちがいが見られなかった。要するに、妻の負担が増えただけであった。

 鬼女である女は言った。

「あなたは、外に働きに出ていると言うが、それはわたしも同じことです。これまであなたが楽をしていただけなのだから、文句を言わず、家事を遂行しなさい。夫をいたわりなさい。あなたの愛する夫を産んだ母であるわたしをいたわりなさい。あなたは当家の嫁です。労働に疲れたわたしと夫をいたわるのが、あなたの責務ではありませんか?」

「わたしも労働で疲れています」

「それはみんな同じです。あなたは当家の嫁なのですから、わたしと夫が満足するように、完璧に家事を遂行しなければなりません」

 それを聞いて、Aの母は眩暈めまいがした。事態を打開しようと思っても、疲れて、頭が回らなかった。Aの母は疲れ切っていた。労働と家事にがんじがらめになって、逃げるという選択肢も思い浮かばなかった。

 Aの母はついに、精神を病んだ。

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