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 沢で妹とマシュマロを焼いて食べた日から数えて一週間後、沢で川魚が一匹も釣れなかったことを申し訳なく思っていたAは、妹への詫びとして、街で高い靴を買ってあげるために、妹と一緒に、街までやって来ていた。

 実は、この日の前日、Aの母親である女が、Cという男と再婚するために、一人で実家を出て行った。しかし、そのことは、いまはふれないでおこう。Aも、妹といるときは、母親の話にふれなかった。妹も、同様であった。実のところ、Aも妹も、母親のことには、たいして関心がなかったのかもしれない。すぐに離婚して、また父母の家に戻ってくるだろうと思っていたふしもある。

 さて、その日、Aと妹は、朝早く起きて、始発の鈍行列車に乗って、Aの地元である街にわざわざくりだしてきた。妹のお気に入りの靴屋が、その街にしかなかったからである。

 Aは、妹のわがままを聞いてやり、交通費も出してやった。Aは、Aの地元まで、新幹線で行くことを主張したが、Aの妹は、兄が新幹線代を出してくれる気になっているのであれば、そのぶんを自分の小遣いとしていただくほうが自分にはよいと主張し、そのことをAも了承したので、AとAの妹は、朝早く起きて、始発の鈍行列車に乗って来たのである。そのため、Aの地元である街に着いたのは、夕方頃であった。

 Aは、目当ての高い靴のほかに、妹にせがまれれば、クレープでもなんでも買ってやった。Aは妹を甘やかして、喜ばせた。Aも、妹を喜ばせることで、喜んだ。Aは、沢で川魚が一匹も釣れなかったことを、気に病んでいたからである。

 Aの地元である街は、誘惑の多い町だった。――いや、かつてはそうだったと、いまは言わなければならない。Aは、街を歩くうちに、街の異変に気づいた。

 Aの妹は、兄の様子を不審に思って言った。

「どうなさったのですか、お兄さま」

「どうも街の様子がおかしい。前に来たときは、こうではなかった」

「どうちがうとおっしゃるのです?」

「前は、もっと毒々しかった。いたるところに、地を這うものの姿があった。けれども、いまは……。見よ。まるで平和そのものだ。下等な眷属どもの気配すらない。まるで悪人という悪人が、この街からいなくなったようではないか」

 妹は、首をかしげて言った。

「言われてみれば、そんな気がしないでもありませんが。そう言えば、わたくしのことを、いやらしい眼でじろじろ見てくる男どもも、今日はおりませんわね?」

「いったいどういうわけだ?」

「おじいさまが、魔女である女を滅ぼしたからじゃありませんの?」

「いや、祖父は、たしかにランパスを滅ぼしたが、この街に巣食う悪をみな滅ぼしたわけではない」

「まあ、たしかにそうですわね」

「何かが起ころうとしているのか? それとも、もう起こった後なのか?」

 Aはシリアスな口調で言ったが、妹はあっけらかんとした口調で、

「そんなの、どっちだってかまいませんわよ。たいへんけっこうなことじゃありませんこと? 悪人なんて、いないに越したことがありませんもの」

「……」

「それより、わたくし、おなかがすきました」

「え? 妹よ……。あなたはさっき、クレープを食べたばかりじゃありませんか」

「甘いものは別腹と申しますでしょう?」

「妹よ。それは、食事をとった後で、言うべきセリフです。あなたはまだ、食事をとっていません」

「お兄さま? わたくしは、お兄さまがおなかをすかせているのではないかと思って、気をまわして差し上げたのですよ?」

「あいにくですが、妹よ。それは、無用の気づかいというものです……」

 そう言って、Aは足早にその場を立ち去ろうとした。

 妹は、兄の袖をつかんで言った。

「ちょっと、お兄さま! 待ってください。どうしてそんなに、足早に立ち去ろうとなさるのです? ちょうどいいではありませんか。ちょうど夕食時です。お兄さまも、先日、不幸な事情から、沢で川魚を食べ損なったことですし。ほら、あちらをご覧になって。ああ、なんということでしょう! おあつらえ向きなことに、ここに魚料理の店があります!」

「妹よ……。あなたが、先日、食べたいとおっしゃったのは、川魚ではありませんでしたか? ここは寿司屋です。寿司屋で川魚は食べられないと、わたしは考えますが?」

「いいえ――。わたくしとしましては、食べられる魚なら、海魚うみざかなでもまったく差し支えありません。むしろ、川のものより、海のもののほうが、わたくしにとって、食べて舌によいと考えます。もちろん、わたくしとしましては、寿司屋で食べる海魚より、お兄さまが釣り上げた川魚のほうが、何倍も食べてみたいことは、言うまでもないことです」

 Aは泣きそうな顔で言った。

「わかりました。言うまでもないことは、言わないでください。兄をあんまりいじめないでください。――よろしい。寿司屋に入りましょう。ただし、あなたはちょっと、店の前で待っていてください。わたしはいまから、銀行のATMに行きます。準備してきた資金が、底をつきそうだからです。あなたにはしばらく待っていただくことになるが、それでもよろしいですか?」

「むろんです」

「よし。わたしは、銀行に行って、金を下ろそう……」

 結局、Aの妹は、寿司をたらふく食べ、高い靴も買ってもらって、たいへん上機嫌のうちに、兄とともに、夜行バスで帰った。

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