アイとディー

小林素顔

アイとディー

 デートに来ていく服がありません、なんて非モテと呼ばれる人たちは言うけれど、それは甘えじゃないかな、とアイは思っていた。男性だったらパンツを履けばいい。女性だったらスカートを履けばいい。そう、「だったら」。


 アイにとってはスカートもパンツもむずかゆい服装だった。子供のころからお仕着せのようにスカートを着せられる日常はもちろん嫌いだったが、パンツを履くことで「ボーイッシュ」と呼ばれることも、なんだか不本意だった。


 アイは自分の体に違和感があったわけではないが、肌を見せるのは嫌だった。体のラインもなるべく見せたくなかった。そうやって消去法で服を選んでいくと、どんどん選択肢は狭まっていき、太いジーンズにだぶついたダンガリーシャツを着て、中途半端なおかっぱ頭で、友達と渋谷の駅前で待ち合わせ、なんていう罰ゲームを食らうのだった。


 時間になっても友達は来ず、一時間近く待ちぼうけを食らったところで、ああこれ、ハブられたな、とアイは気付いた。ダサい格好の友達を連れて歩くほど、女性や男性は優しくないのだ。


 自分は女性でも男性でもない。そのことはアイの自意識の中では明らかだった。アイといういかにも女性らしい名前も嫌いだったけれど、かといって性転換したいとは思わない。自分には居場所になる性がない。そんな絶望感が、愛の心の中ではいつも水を含んだスポンジのように重く湿っていた。


 いい加減帰ろう、そうだこの際だから人身事故でも起こしてやろうか、と思って歩きだそうとすると、アイは後ろから声をかけられた。


「ねえ、貴方、私と一緒に遊びませんか」


 きっと香水臭いチャラ男だろうなと思って、振り切ろうと足を速めると、声の主はアイの目の前に素早く姿を現した。


「遊ぼう。遊ばないといけない。私の勘だけれど、貴方は私と遊ばないといけない」


 アイは、その声の主の容姿に、しばらく見入ってしまった。厚底のブーツに大きな千鳥格子柄の浴衣姿で、紫色の髪をツーブロックにして、化粧はしていなかったがやけに肌がつやつやしていた。きっと男の体で生まれているだろう体格だったが、それを感じさせない「性のバランス」を感じた。


「……あの、やめてください、警察呼びます」


 アイは口ではそういったが、目の前の存在の異様さに興味津々だった。そもそも、個人にこんなに興味を持ったことはこれまでの人生でなかったかもしれなかった。


「いいよ、呼んでも。でもそうしたら、きっと後悔すると思う」


 そう言って目の前の浴衣姿は胸を張った。アイは、たしかにそうかもしれない、と妙に納得させられた。それくらい、アイは人生で初めて「人に惹かれて」いた。


「あの、お名前伺っても」


「名前? ディーって呼んで。ABCDのD。DifferenceのD」


 ディーはそう言ってにっこり笑った。その屈託のない笑顔につられて、アイはスターバックスでコーヒーを一緒に飲むことにした。


「ねえ、なんで私が貴方に声かけたか、分かる?」


 ディーの問いに、アイは首をかしげる。


「ユーチューバーの罰ゲーム、ですか」


「ひどいなあ、そんなことするわけないじゃん。私、同じ匂いを感じたんだ、貴方に」


「同じ匂いって?」


 アイが訊くと、ディーはショートのカフェラテをひと口飲んで、深く息を吸った。


「自分には自分の居場所がない、ううん違う、自分の性がないって、そういう雰囲気が、溢れてる」 


「どうしてそう思うんです?」


「私も昔、貴方みたいだったから」


 ディーはそう言って、アイの目の前のテーブルに右の手のひらを差し出した。それは、アイが手を伸ばすのを待っているかのようだった。


「来なよ、こっち側に」


 アイはその言葉に怯えた。アイはその時、ディーに強く惹かれていたが、近づくことによって、女性であることを強制させられるのではないかという恐怖を感じていた。


「怖いよね、分かる、でもね」


 アイの心を見透かしたように、ディーは両の手のひらを差し出した。


「貴方は『性別』なんていうものに『別けられる』存在じゃない。貴方の『性』を生きればいい」


 ディーがアイを見つめる視線は真剣だった。アイは、ディーの瞳の中に自分が映っていることが分かるほどに、ディーを見つめ返していた。人をそんなに真剣に見つめたことは、アイの人生では初めてだった。


「自分の性を生きるって、どういうことですか?」


 アイが訊くと、ディーは優しく微笑んだ。


「私みたいなこと。世の中での役割は、人から与えられるものじゃなく、自分で見つけるってこと」


 その言葉は、アイの心のスポンジに春一番のように吹き込んだ。重々しい湿り気を吹き飛ばすような言葉だった。


「その言葉、信じたい」


 アイが言うと、ディーは深くうなずいた。


「信じて」


 ディーの手のひらに、アイは自分の両手を乗せた。ディーはアイの両手をしっかり包んで握りしめた。




 ――その後、ディーはファッションデザイナーとして、アイはディーのブランドの専属モデルとして、世界に羽ばたいていくのだったが、それはまた、別の話。




(了)

 


 

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アイとディー 小林素顔 @sugakobaxxoo

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