側臥暇人

夜。

それは蠱惑な闇であり、そこには耽美的な光があった。


街を彩る灯りの数多は黙してスポットライトとなって道行く背中を照らす。

繁華街の喧騒は少しばかり離れたここ、海辺にも届いていた。


そんな音楽を聞き流しながら、私はザーッと寄せては返す波をただ見つめていた。

夏でもあるまいし、海辺でバーベキューをしようという輩もいない。

人影のない海辺はなんとノスタルジーを感じさせるのだろう。


波の起伏が、次の起伏を作り、やがて白い飛沫となって砂浜を濡らす。

無限に等しい繰り返しは、夜が更けるにつれ高さを増し、その様はまるで乾いた砂を龍が呑み込んでいくようだった。


満月がそっと海面を撫でた。



私がなぜ、こんなところにいるのかといえば、漁師であるわけでも漁業組合の手の者でもないのである。

一介の会社員だ。

それがどうして、夜中に海を見つめていられようか。


深い理由はない。

なんとなく、だった。



風が吹くと紺碧の海が囁いた。

私はぶるっと体を震わせ、息を吐いた。



あれは恐怖の大王が世界を滅すると叫ばれていたころだ。

当時の私はそれはもう幸せの絶頂にいた。

愛する妻と結婚し、二人の子をもうけた。

私は妻子に少しの猜疑も抱かなかったし、それを誇りに思っていた。



私はすっかり足を放り出していた。

スーツが汚れてしまうことなど気にも留めずに、夜に耽っていた。



ある日、私は娘の誕生日を祝うために、苺のホールケーキを買って帰った。

娘の喜ぶ顔が見たくて、早足で家路についた。


だが、娘はもういなかった。



あれほど賑やかだった騒音も薄れ、ぽつんと佇む街灯だけが私の傍にいた。



二度と動かない家族を見て、私は怒りよりも涙よりも先に、何も考えられなくなっていた。

テレビの報道が押し掛けたこともあった。同僚が慰めにきたこともあった。

それでも私はうわ言のように


「ああ...」


と呟くだけだった。

葬式も、墓参りも、酷く空しいものに感じていた。

それからは、周りに心配はかけまいと仕事にだけ熱心に生きた。



夜の闇はいよいよ暗黒に達していた。

一段と強い風が吹きつける。

木々の揺れる音が遠くから聞こえてくる。


その時、どこからか声がした。

私はふと後ろを振り向いた。


「おとうさん」


そこにいたのはあれほどまでに愛した私の宝に間違いなかった。


はじめて、涙が頬を伝った。


何を言えばいいのかわからなかった。


ただ夜闇にぼうっと浮かんだ言葉が口から漏れた。



「ただいま」

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側臥暇人 @sokuga_himajin

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