満月の夜に

いとうみこと

満月の夜に

 信号が黄色から赤に変わり、俺はブレーキを踏んだ。アイドリングが止まった車内はさっきまでとは打って変わって重苦しい空気で満たされている。俺は目だけを動かしてそっと助手席の佳奈の様子を伺った。普段はひとつに結んでいる髪が、そっぽを向く横顔を完全に隠している。


 なんでこうなっちゃったんだろう……


 夕方、祖母の家でゴロゴロしていた時、いとこで幼なじみの佳奈から電話がかかってきた。家業の定食屋が休みだから食事に行かないかという誘いだった。ばあちゃんが快く送り出してくれたので、俺はすぐ近所の佳奈の家に車を取りに行った。佳奈は免許がないのだ。単なる運転手だとしても、ふたりきりの食事は初めてのことで、俺としてはまんざらでもなかった。


 佳奈は、以前友だちと行ったことがある隠れ家風レストランに行きたいと言った。国道を真っ直ぐ西に向かい、ガソリンスタンドとコンビニがある交差点を左に曲がったら、2つ目か3つ目の信号を右に曲がってすぐだという。それなら30分足らずで着くだろうということで、俺たちは軽い気持ちで車に乗った。


 最初は近況や昔話で盛り上がった。しかし、それもコンビニの角を曲がった辺りから怪しくなった。佳奈の記憶があやふやだったのだ。


「佳奈が行けばわかるって言うからとりあえず出発したんだろ?これだから運転しないヤツは」

「何よ、その言い方。ちゃんと道順は覚えてたじゃないよ」

「じゃあどうして見つからないんだよ。なんか目印になるものないのかよ」

「あ、ある!向かいのマンションの駐車場に同じ赤い車が3台並んでて友だちと盛り上がった!」

「ったく、だから女はダメなんだよ。動くものや変わる物を目印にするバカがいるか!」

「陽平、今の発言で世界中の女性を敵に回したわよ!」

「あ~はいはい、それで結構。どうでもいいからさっさと店の名前でググッてくれ」

「店の名前忘れた。さっきまで覚えてたのに、陽平がぎゃあぎゃあ騒ぐからど忘れしちゃったじゃない」

「はあ?あんだよ、それ!じゃ、友だちに連絡して聞いてくれよ」

「彼女、いま日本にいないからムリ」

「おい、マジかよ。じゃ、どーすんだよ」

「大丈夫、思い出せるよ」

「佳奈は楽観的でいいよな。さっきのコンビニまで戻って聞いてみようぜ。その方が確実だしずっと早い」

「ちょっと待ってよ。なんで陽平はいつもそうやってすぐ誰かに頼るの?少しは自分で解決しようとしなさいよ」

「意味わからん。店の名前も場所も思い出せないくせに、他人に説教してんじゃねーよ!ああアホくさい、やめだやめだ、もう帰ろうぜ」


 俺はすぐさま車をUターンさせた。ふたりの体が大きく揺れて、後ろのタイヤが軋んだ。


 それからずっと、佳奈は黙ったままだ。信号が青になってブレーキから足を離すと、さっきまでは気にならなかったスターターの音がやけに大きく響いた。


 じきに右手にコンビニが見えてきた。


「喉乾いたからちょっと寄るかな」


 俺はわざとらしく呟いて、ハンドルを右に切った。コンビニでレストランの場所を聞いてみるつもりだった。エンジンを切ると、佳奈は黙ったまま車を降り、さっさとコンビニの入り口へ向かった。


 その佳奈が、俺の目の前でコンビニのドアに手を掛けたまま止まった。視線は右のゴミ箱の方に向いている。数秒後、佳奈はドアから手を離し、足音を忍ばせて歩き始めた。


「どした?」

「しっ!黙って」


 唇に指を当てたまま、佳奈はゴミ箱を通り過ぎ、その先の壁と塀の間をそっと覗き込んだ。


「陽平、来て」


 手招きに応じて俺も静かに近づき、佳奈の脇から顔を覗かせた。植え込みの間に何か黒い物がうずくまっているように見える。


「猫か?」

「うん。子猫みたい」

「よく見つけたな」

「目が光ったから。でも、満月じゃなきゃ無理だったと思う」

「逃げないな」

「弱ってるのかも」


 佳奈は無類の猫好きだ。家が定食屋で飼えないことを常々愚痴っていて、仕方なく近所の猫を訪問してはおやつを配っている。


「ちょっとお店の人と話してくるから見てて」


 そう言うと、忍び足のまま走っていった。佳奈を待っている間も子猫はじっと動かなかった。香箱座りをしているところを見ると死んではいないのだろうが、あまりに動かないので不安になる。そこへ佳奈が戻り、俺の隣にしゃがみ込んだ。手にはコンビニの袋を下げている。


「このコンビニの近くに餌をあげちゃう人がいて、野良猫が凄く増えたんだって。で、おととい保健所と保護団体の人たちが来て一斉に捕まえてったらしい。それで親とはぐれたんじゃないかと思うって言ってた」

「どうする?」

「どうするも何も、子猫だよ?このまま放っといたら死んじゃうもん。とりあえず連れて帰る。後のことは後で考える」


 佳奈のこうした行動力は昔からで、俺の感心するところだ。佳奈は袋からちゅ〜るを取り出すと、小猫の鼻先へそっと差し出した。すると、それまでピクリともしなかった小猫の首がにゅうと伸びた。


「いい子だね、おいで、怖くないよ」


 そのかつて聞いたことのない優しい声と慈愛に満ちた横顔に、不覚にも俺は釘付けになった。その間に、そろりそろりと近づいてきた子猫は、ちゅ〜るを口の周りにべっとりつけたままいつの間にか佳奈の両腕に収まっていた。全体的に黒いが、顔の下半分から喉にかけてと、4本の足先が白い。頭はヘルメットを被っているようだし、足にはまるで靴下を履いているみたいだ。


「見て!可愛いね」

「お、おう」


 俺には佳奈の無邪気な笑顔の方がずっと可愛く見えて、うまくリアクションできなかった。

 

 それから俺は、佳奈に指示された通りコンビニの店主に状況を説明し、小さめの段ボール箱を譲ってもらって、買ったタオルを敷いた。その箱に子猫を入れて、再び俺たちは車に乗り込んだ。


「これからどうする?」

「お店の常連さんに獣医さんがいて、今電話したら診てくれるって」

「了解。そこは場所わかるんだろうな?」

「大丈夫、うちの裏」


 俺たちは声を立てて笑った。それからどちらからともなく詫びを入れた。


「さっきは言い過ぎた、ごめん」

「あたしも意地張ってた、ごめんね」

「晩飯どうする?」

「病院行った後でうちで食べよう。あたし作るから」

「おけ」


 今までも何度もこうして喧嘩をしてきた。けれどいつだってすぐに仲直りできた。これからもこうしてずっと……


「あ、思い出した」

「何を?」

「店の名前」

「ああ。何だった?」

「プレヌリュンヌ」

「ぷ、プレ……」

「プ・レ・ヌ・リュ・ン・ヌ」

「……よし、今度来よう」

「ん。それまで陽平も名前覚えといてね」

「……」


 昇りかけた満月が楽しそうに笑っていた。

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