【インタビュー後編】リコの死、そして
1993年のその朝は、警察からの電話に起こされた。ろくに服も着ないまま病院に行くと、真っ白い部屋でリコが眠っていた。何でか、一目で死んでるってわかったよ。死因はヘロイン200mg。可笑しいね、リコは私が結婚した頃からクスリを完全に辞めてたのに。
最初に見つけたのは、彼の家にたまに出入りしていた売春婦だった。ケリーという名の子だ。私は初めて会う彼女から、チョコレートクッキーの包みを渡された。私がいちばん好きだったリコの料理だ。なんでも、彼は死ぬ前にいっぱいチョコレートクッキーを焼いていたんだって。どんな気持ちで生地を練って、型で抜いたんだろう。私のことを考えてくれていたのかな。
遺書は無かった。あまりに突然で、最初は涙も出なかった。瞬きをしているうちにリコの大きな身体は灰になり、私はリコの入った箱を抱きしめたまま、何日も窓辺でぼうっとしていた。
毎日たくさんの友人たちが私を慰めに来てくれたけれど、ぜんぜんわからなかったよ。「あなたは誰?」みたいな感じになってしまって。我に返ったのは、それこそサバスの連中が揃って尋ねてきたときだった。トニーの顔を見ると、1枚目のアルバムを録ったときのことを思い出して涙が溢れてきたんだ。それに丁度、リコはトニーと同じイタリア系で、あんな感じの背格好をしていたからね。
クッキーは、10人くらいで押しかけてきた彼らと一緒に食べた。少し日が経って湿気てしまっていたけれど、みんな美味い美味い言ってて、なんだか誇らしかったよ。
1994年、ハマースミスでリコの追悼コンサートが行われた。追悼コンサートとはいっても、実質的には私のソロコンサートだった。彼はバンド外のミュージシャンとあまり仕事をしなかったし、私以外のヴォーカルとつるむ気も更々無かったようだから、たくさんのゲストを呼ぶのは逆に不自然だと思ってさ。でも、久々に見る顔が集まってくれて、嬉しかったよ。
そのアンコールで、私は「ロング・ロング・グッバイ」を歌った。リコの遺骨を抱きながら、初めてひとりで作った曲だ。歌っている途中、ふと見ると、みんなが泣いていた。演奏している連中も、聴いている人達も。後で聞いたら、私が左側の髪をかきあげる仕草を見て胸が苦しくなったんだって。私はいつも、そうやってリコを見ていたから。
コンサートが終わった後にシングルとして出した「ロング・ロング・グッバイ」は、瞬く間にチャートを駆け上がって、全米1位を獲得した。正直、嬉しくもなんともなかったよ。まるで「リコがいなくてもお前はやっていける」と言われているようだった。
* * *
「ロング・ロング・グッバイ」は、セールイ・チャイカ最後の曲になった。私は歌手を辞め、プロデューサーなんかをしていたが、2010年を過ぎた頃からは引退している。若い頃に忙しく飛び回って、息子のこともろくに見てやれない日が多かったから、いい加減翼を休めようと思ってね。
2005年は日本で暮らしてたので、エンジェル・ルーレットっていう日本のアイドルに曲をあげたりもしたよ。いちど7人揃って挨拶に来たんだけど、可愛い子達だった。リーダーのアイカなんてまだ18でさ。なのに、みんなセールイ・チャイカの曲をぜんぶ聴いてきたんだ。彼女たちが生まれる前にリリースされた曲も多いのに!
リコの存在を感じるか、なんて訊いてくる記者もいるけど、昔のアルバムを聴くと、リコの全てを思い出すよ。当たり前さ、それがバンドだ。同じことをブライアン・メイやロジャー・テイラーにも訊いてごらん。同じように答えるだろうから。
辛いことも多かったが、幸せな人生だったよ。死んだらリコの隣に埋めてもらうよう頼んであるんだ。それが私の最期の楽しみさ。ナオミには悪いけどね。
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