【インタビュー中編】栄光と影
最初のアルバム『灰の小鳥』(1973年)は北ロンドンのモーガン・スタジオで録音したんだ。始めてのレコーディング作業だからどうなる事かと思ったが、優秀なエンジニアが寄越されて、何の心配も無かったよ。
最初に録ったのは「星を掴むように」だ。あの曲はライブじゃ典型的なブルースナンバーだったんだけど、レコーディングの時になって、プロデューサーのジョシュ・ダグラスがヘヴィなリフに繊細なコーラスを絡めて、民謡か讃美歌みたいにした。仕上がった音源を聴いた時は、「凄い!」ってリコと一緒に飛び上がったよ。
1stアルバムから3rdアルバムまで組んだジョシュは魔法使いみたいな男でね。私たちの不完全な曲を、完璧なトラックに次々と仕上げていった。おかげで私たちは“幻想的でヘヴィな音楽をやるバンド”っていう売りを掴めたのさ。
ところであのとき、同じスタジオでは丁度ブラック・サバスが『血まみれの安息日』を作っていた。これがまあ、イタズラ好きの悪童たちでね。シーツを被ってお化けになってマシューを追っかけ回すとか、天井に粉袋を仕込んで私たちを粉まみれにするとか、そういう子供みたいな遊びをするんだ。リコは面白がって、変な着ぐるみを買ってオジー・オズボーンを追っかけ回してたけど。
ある日、とうとうジェシカが怖くて泣きだして、私の堪忍袋の緒が切れた。そりゃあ怖いよね。憧れてたミュージシャンが、変なちょっかいかけてくるんだから。ましてやあの子はまだ20歳になったばかりの可愛い娘だったし。
それで、私は彼らの泊まってるところに文句をつけに行った。単身でね。そしたら、トニー・アイオミが素直に謝って来た。「女の子を怖がらせてすまない」なんて言って、お土産まで持たせてくれたよ。なんだか化かされたような気分で、リコと首を傾げた。ああ、トニーから何を貰ったかだって? それはナイショ。
それからはイタズラがパッタリ止んで、快適な仕事をすることができた。だが奇妙なことに、サバスとの付き合いはそれからも続いてね。そんな彼らも解散してしまった。まあ、きちんと終わりを定めて始末をつけるのはいいことだ。
サバスに限らず、あのときから動いてたバンドは、みんなもう爺さんばかりさ。舞台に立っているときは若い気でいても、ホテルに変えれば歳を実感する。町に溢れる流行りの音楽は、私たちでは到底作れないものばかり。もう潮時なんだよ、きっとね。
* * *
1973年11月にリリースされた『灰の小鳥』は全英3位を獲った。信じられなかったよ。そりゃあそうさ、自分のバンドの名前がビートルズと並んでるんだ。早朝、マネージャーから電話がかかってきて、「お前たち!やったぞ!」ってね。あの日の事はよく覚えてるよ。4人だけで集まって、女学生みたいにきゃあきゃあ騒いだ。
でも、嬉しいのは最初だけだったよ。全然知らない「友達」とか「親戚」がいっぱい電話を寄越してきたり、変なビジネスを持ちかけられたり。仕事の話が山ほど来て、ライブ会場でもたくさんのファンに囲まれるようになったけど、変な虚しさが募った。私たちはあの時代の若いミュージシャンにしては珍しく金銭的な搾取をされなかったが、そういう話でもないんだ。
1973年の暮れから1974年の春までの全英ツアーで、私たちの名前はイギリス中に知れ渡った。チケットは連日完売で、プロモーターは毎夜、豪華なパーティーを開いていた。私たちは昼夜2公演をしながら、既に契約していた2枚目のアルバムの曲を作った。
最初に辛くなったのは私だった。ブライトンでの公演のとき、歌いながら、ふと「昨日まで誰も私たちに気付かなかったのに、どうしてこの子たちは『ずっとファンです!』みたいな顔ができるんだろう?」って思ってしまったんだ。思ってしまったら最後、脳に混乱が溢れて、喉が引き攣った。きらきらした若い女の子たちの顔を睨んで、叫び出しそうになった。
その日の夜、リコと喧嘩した。きっかけは何だったかな。「ギターの音がでかすぎる」「お前がもっとでかい声で歌えばいい」みたいな話だったような、「あの女に気ィ取られやがって」「お前こそ」みたいな感じだったような。まあ、何でもいいんだ。とにかく、掴み合い、引っ張り合いの大喧嘩さ。マネージャーやローディーがすっ飛んできたが、図体がでかいリコと、腕っ節が強い私を引き剥がせる奴はいなかった。
散々罵り合った後、ぷりぷりしながら自室に戻ると、急に頭が冷えた。ロックスターになりたいと言った私の我儘に付き合っているのはリコだ。それなのに、気晴らしに彼を攻撃して何になる。まだ私たちは、1枚目のアルバムを出しただけじゃないか。
その夜は長かった。謝りに行きたかったのに、屈強なローディーが3人くらい部屋の前をうろうろしてて、どこにも行けなくてさ。大人しくベッドに寝転がってると、身体中が痛いし、悪い考えしか浮かばない。
そんな状態で眠れるわけがなくて、気を紛らわすために書き物を始めた。最初は愚痴を書き出すつもりだったが、だんだん「リコが気に入る歌詞を」とペンが動いていった。いい大人になると、素直に謝るより、何かきっかけを持っていった方が良いからね。もっと大人になって、その行動はなんて子供じみていたんだろうと苦笑するのさ。
朝方、誰かが部屋のドアを叩いた。開けてみると目の下にクマを作ったリコがいて、気まずそうに「髪を結わせろ」と言ってきた。あいつはフロントマンには容姿も大切と考えていて、私の服装や髪型を管理したがってたんだ。まあ、リコにはそういう才能があったしね。ミュージシャンになってなかったら、服を作りながらスタイリストでもやってたんじゃないかな。それに私は粗雑な性格だから、放っておくとすぐ物乞いみたいな格好になる。特に、髪が痛みやすい体質だから、手入れして貰えるのは有り難かったよ。
リコを部屋に入れて、鏡の前に座ると、いつもと同じことをしているのに気恥ずかしくてね。ブラシを通された髪が柔らかく光るごとに、どんどん耳朶が赤くなってしまって。今思えば、前の晩の喧嘩を本気で反省したのはそのときだった。
恥ずかしさが頂点に達したとき、私は慌てて歌詞を書いたことをリコに話した。そうしたら、彼は驚いた顔をしてこう言ったんだ。
「何てことだ、ぼくは曲を書いたんだよ!」
結局、私たちは似た者同士だったようだ。
そのときにできた「あなたは私の」(1974年のアルバム『黄金の林檎』に収録)は、リコが生きてたときでいちばん売れた。日本でもかなりヒットしたんだっけ。セールイ・チャイカの歌詞は小難しいが、この曲はシンプルだから外国ウケも良かったんだろう。今見返すと青臭すぎて恥ずかしい歌詞だ。ずっと「あなたは〜」ばかり言っててさ。でも、そういう感じでできた曲だから、リコの追悼ライブで演奏したときはまともに歌えなかったな。
* * *
初めて日本に行ったのは1976年だった。空港じゃ、女の子たちに囲まれて、熱烈な歓迎を受けて驚いたよ。イギリスでは、私たちのバンドは落ち着いたファンが多かったからさ。それにしても、日本の子たちって絵が上手いよね。学校で何か特別な教育でもしているのかい?
あのときは、結婚してバンドを抜けたジェシカの代わりにノエル・スタークが入ってきていた。ノエルのことは彼がムーン・カフェってバンドでベースをやってた頃から知ってたんだが、メンバーの失踪とかでそのバンドが解散したんで、セールイ・チャイカに誘ったんだ。良いやつでね。1980年にバンドを抜けた後も、呼べばすぐに駆けつけてくれたよ。
日本で面白かったのは、やっぱり食べ物の違いだね! 何を食べても美味いって聞いていたけど、本当だったよ。ステーキやパスタなんていう「これは日本の料理じゃないだろ」ってものまで美味い。日本に行って一晩で、どうして周りのミュージシャンたちが「日本は素晴らしい」って言うのかよくわかった。まあでも、私は港町の生まれだから体が合ったのかな。リコとマシューは生魚や醤油の匂いを受け付けなくて困ってたし……。
それにしても、日本は良い思い出ばかりだ。みんな綺麗な着物を着せてもらったし、お茶や芸妓の文化も教わった。信仰や伝統のことも、みんな親切に教えてくれた。あのとき案内してくれた通訳の子とは今でもたまに電話で話すんだよ。
日本のプロモーターは温泉のあるホテルに泊まらせてくれた。最初は「裸で入るの?ホント?」って驚いたけど、すごく気に入った。ライブがあるとあんまりゆっくりしてられないから、1984年の暮れには、リコとふたりだけでこっそり旅行に行ったんだ。知人のツテで紹介してもらった、山奥の、とても古い温泉宿でね。あの頃にはセールイ・チャイカは大物になっていたから、誰も私たちのことを知らない場所でゆっくり休めるのは貴重な機会だったよ。旅情が募って「林檎の島」(1985年のアルバム『エンジェル・ノート』に収録)みたいな曲も書けたしね。
まあ、帰りの空港でタブロイド紙に見つかっちゃって、騒がれちゃったんだけどね。今となっては、それも大事なリコとの思い出だ。
* * *
ピート・タウンゼントと喧嘩した話はホントだよ。誓って言うが、私は彼のことが嫌いなワケじゃない。今でもザ・フーは大好きだ。けど、人間的な好き嫌いと関係なく、どうしようもなくムカッとくることってあるだろう?つまりはそういうことなんだ。
他のバンドとの仲は、常に良好というわけではなかった。リッチー・ブラックモアやデイヴィッド・カヴァデールとは今でも仲が悪いし、雑誌のインタビューでリコを馬鹿にした野郎のことは今でも許してない(訳注:米誌『サウザンド・スティールズ』でリコの演奏技術について苦言を呈したイングヴェイ・マルムスティーンのことと思われる)。ただ、ミュージシャンというのは大概気難しいからね。ブライアン・メイみたいに人当たりがいいのは少ないよ。クイーンにしたって、彼とは仲が良くても、ロジャー・テイラーとは殴り合いの寸前だ。私が荒っぽすぎるとも言えるな。
1978年頃、私は変にイライラしていた。何でイライラしてたのかは終にわからない。身体のリズムみたいなものだったのかな。リコとの仲もなんとなくぎくしゃくしていてね。ステージに立てばそんなことは忘れて歌えるが、それ以外の時間は絶えずバンド全員で殺し合いだ。それの度が過ぎて、私はあの前後の3年間で5人もメンバーを辞めさせている。
そんな中で「白い輝き」(1980年のアルバム『ピロー・トーク』に収録)は出来たんだ。叩きつけるような曲さ。あの曲には私とリコが喧嘩した思い出がたくさん詰まってる。あと、あることないこと書き立てて追い回してくるマスコミへの文句もね。
マスコミとの仲は常に最悪だったよ。あいつら、ジェシカに子供が生まれたときにも病院まで追っかけたんだ。80年のツアーに同行したドラマーのウィリアム・キングはパパラッチの焚いたフラッシュに目をやられて、事故を起こして大怪我をした。私は矢面に立とうとしたけど、みんなの弾除けにはなれなかった。
評論家連中も最悪だ。「新曲は反キリスト教者への皮肉を歌ったものですね?」「いや、別れた恋人に向けた文句の曲だよ?」「でも、この単語には反キリストの意味がありますよね?」「そうなの?全く知らなかったよ!」「ということは無意識のうちに」「だから違うってば!」みたいな調子さ。一度はあんまり失礼なことを言う評論家への仕返しとして「グラスウェン」(1990年のアルバム『ブラック・ダンス』に収録)って曲を書いてる。リコは疲弊して、クスリに頼るようになった。私も似たり寄ったりだったが、アルコールの方が多かったかな。
それでも、いちど始めたバンドは続けるしかない。歩み続けるほかに無いんだ。生まれたら、死ぬ日までは生きなきゃいけないんだよ、誰だってね。
***
1986年、私はマネージャーのナオミ・ササオカと結婚した。ご存知の通り日本人さ。実家は福岡にある。ナオミはセールイ・チャイカのスタッフの中では中堅で、日本人らしく真面目な子だった。交際は短かったんだが、付き合いは長かったから、別に変な感じはしなかったかな。自分の国の若者がロックスターと結婚したっていうんで、日本のテレビから取材を受けたこともあるよ。第二のオノ・ヨーコだとかなんとか。第二どころかけっこういると思うんだけどね。
結婚式の時、リコは見事なウェディングドレスを縫ってくれた。「手芸好きの夢だ」なんて言ってたが、私もナオミも申し訳なさで胸がいっぱいだった。だって、彼の目の下には真っ黒なクマができていたんだ。ドレスは今でも仕舞ってあるよ。結婚記念日には引っ張り出して、リコの思い出に浸っている。
息子のトビーは養子だ。2歳の頃にうちに貰って、大事に大事に育てた。はずなんだけど、俳優なんていう不良の仕事に就いちゃってね! 今はアメリカに住んでいて、毎週のように映画の撮影やプレミアなんかで忙しくしてる。リコが聞いたらびっくりするだろう。なんせ、彼が知っているトビーは、いつも恥ずかしがってクローゼットに隠れているちっちゃな男の子だったから。
1985年のライブ・エイドには、呼ばれていたけど欠席している。その前にやったヨーロッパツアーでバンドが疲弊し切っていたから、1984年から1986年にかけて休暇を取っていたんだ。
まあ、相変わらずスタジオワークはしていたけどね。1985年の暮れにリリースした『エンジェル・ノート』の収益は、ライブ・エイドに出られなかった詫びとして、全額チャリティに使った。ただ、このアルバムはそもそもそんなに金がかかっていないんだ。自宅スタジオを使ったし、弾いてるのも私とリコだけ。あとは昔馴染みのエンジニアがひとりっていう、エコノミーな作品だったのさ。
あのアルバムを作るのは楽しかったよ。何日も泊まり込んで、リコとわいわい騒いで、酒を飲んで……昔に戻ったみたいにはしゃいだ。そんなキラキラした青春の雰囲気が、音にも閉じ込められている。
ほぼ2年間の休止を経て、1987年のアルバム『私を燃やして』に伴うツアーは派手にやった。秋の暮れのウェンブリースタジアム公演は楽しかったな。物凄い人数が入っていたし、演奏もすごく上手くいった。ライブのために読んだジプシーのダンサーたちも凄く上手くてね。夕暮れにタンバリンの音が響いて、それをリコのギターの音が包んで。歌い出す瞬間、彼と瞳を合わせたことは、今でも忘れられない。
思い出の中にはいつもリコがいる。喧嘩もしたし、仲良くなかった時期もあった。けれど、リコはいつも暖かい家のように私を受け入れてくれた。ふざけ合って、からかい合って、そうして過ごしてきた。
けれど、私はあのとき、過ちを犯してしまったんだ。そして私は、リコを永遠に失った。
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