【インタビュー前編】ふたりの出会いとセールイ・チャイカ
私がリコ・アルバーンと出会ったのは1971年の事だった。
有名な話さ。彼とはクイーン(訳注:当時はスマイルと名乗っていた)のライブで出会った。本当はレッド・ツェッペリンを観に行きたかったんだけど、チケットが手に入らなくてね。そういうことってよくあるだろ?
いつもならライブハウスの外で音だけ聴いてたところなんだが、あの日はたまたま、近くにあったライブハウスに行ったんだ。こういうのを「運命の糸に手繰り寄せられた」って言うのかな。まあ、実際のところはただ単に、寒くて遠出する気になれなかったというだけなんだが。
ハハハ、そんなに可笑しそうな顔をしないでおくれ。あれはとても風が強い1月の暮れでね、本当に寒かったんだ! ステージの上のブライアン・メイが凍え死にそうな顔色をしていて、演奏の内容よりも、そっちのことばかり覚えてるよ。彼とは今でもよくやりとりするけど、昔とちっとも変わらない良い男だよ。
クイーンは今でこそ大物だが、あの頃はまだ「地元じゃ有名」という程度のバンドでね。小さなライブハウスを埋めるのがやっとで、ライブでも野次が飛んでいた。ほら、あの映画を観ただろう? 『ボヘミアン・ラプソディ』。まさにあんな調子さ。映画の感想については控えさせていただきたいが、あの観客の中に、私とリコはいたんだ。
当時の私は髪も短く、薄汚れた男臭いファッションを好んでいた。労働者風の頑丈なサロペットにバックスキンのスカしたジャケットを羽織ってね。そんな調子だから、どこへ行ってもからかわれたよ。
だからリコに声をかけられたときには、また喧嘩を売られたのかと睨んでしまった。しかし、リコはこう言ったんだ。
「なあ、きみ、ファッション興味ある? 良かったらなんだけどさ、僕の作った服、着てみない?」
最初は意味がわからなかったよ。そうしたら、奴は封筒くらいのサイズのスケッチブックを鞄から取り出して、「スリーサイズは?」「服の好みは?」「身長は?」なんて言い出しやがった。
想像してごらん。あの熊みたいに毛むくじゃらな大男のリコが、ちっちゃいスケッチブックをコソコソ捲って、初対面の私に見せて、ああだこうだ言うんだ。しかもクイーンのライブ中に。可笑しくてたまらなかったよ。あの太くて無骨な指が、ピックくらいのサイズのちっちゃい鉛筆でコソコソ絵を描いてさ。それがまた、めちゃめちゃ巧くて……。
それが、何の夢もなく自動車工場で働いていた私と、ファッションデザイナーを目指してロンドンのアートスクールに通っていたリコの出会いだよ。まさか、あの熊男とバンドを組むなんて。それは彼にしたって同じだったろうね。彼が欲しかったのは「生きたマネキン」だったのだから。
ちなみに、今日私が着ているこのレースシャツも、リコが仕立てたものなんだよ。胸のフリルや袖のレースが気に入ってるんだ。私のクローゼットには、リコと一緒に過ごした20年間で彼が作った衣装がたくさん仕舞われてる。
でも、彼は生涯、「シャノンがステージで着ているのは僕が作った服だ」とは言わなかった。言ったほうがファンは喜ぶと思ったんだが、彼はいつもこう言うんだ。「そんなの恥ずかしい!」ってね。
そういえばいちど、リコに訊いたことがある。「どうして白い衣装ばかり作るんだ」ってね。ご存知の通り、セールイ・チャイカは白い衣装ばかり着ていたから。そしたら何て言われたと思う?「僕らの出会った日に雪が降ってたから」だって。リコは熊みたいな大男だったけど、案外ロマンチストで繊細なんだ。
ただ、何度思い返しても、あの日は雪なんて降ってなかったと思うんだよね。ブライアン・メイに訊けば覚えてるかな?
* * *
私はアイルランドの港町で生まれて、4歳の頃にバーミンガムの方へ引っ越した。父親が優秀な機械技師でね。自動車工場の機械をメンテナンスするために呼ばれたんだ。
まあ、普通の家で育った普通の子供だったよ。兄弟は姉が1人と弟が2人。変わったところといえば、ビートルズにハマれず、ザ・フーばかり聞いていたことくらいさ。ちなみにこれは最近知った話なんだけど、私の家族が暮らしてた家の真向かいにはベヴ・ベヴァンが暮らしていたそうだ。つまり、あそこはそういう町なんだな。
最初のドラマー、マシュー・ロレンスとは学生時代からの知り合いだよ。あのひなびたアスパラガスみたいな男は、悪いヤツを演じるのがイケてると思ってたみたいでね。スキンヘッズみたいな格好をして女の子たちを脅してた。いちどは私と仲の良い女の子を泣かせやがったんで、さあ大変! あいつ、半月くらいは私を見かけるたびにコソコソ逃げ回ってたな。
私は学校でもどこでも怖がられてた。若い頃はツンと澄まして、気に入らないことがあれば最初に手が出る性格だったからね。リコと出会ってからは大人しくなったんだよ。「あれで?」って思うかもしれないけど、嘘じゃないよ。
リコは記者たちにプライベートを語りたがらなかったが、後ろ暗いものがあるわけではなかった。彼は介入されたくなかっただけなのさ。それだけなのに、ありもしない犯罪歴だとか、女の噂だとか、ゲイだとか書き立てられて可哀想だったな。あの写真(訳注:1976年発行の英タブロイド紙に掲載されたリコと男性がキスをしている写真)に映ってる男は彼の甥っ子だったのに、信じてもらえなくて困ったよ。よっぽどスキャンダルが欲しかったんだろうね。そんなものはドラッグくらいしか無かったけど。それもコカインをたまにやる程度さ。嗜好品だね。
唯一タブロイド紙が喜ぶネタがあるとすれば、リコは両親と仲が悪かった。彼の葬式でわんわん泣いてた母親は、バンドにいつも金をせびってきたよ。十分に渡してるのにすぐ洋服とかに使っちゃうんだ。父親は化石みたいな男で、いつも「裁縫なんか女にやらせろ」「女々しい身なりをするな」って話してたな。全英1位を取った話をしに行った時も、全米ツアーが完売したときも、開口一番にそれさ。リコは裁縫とお菓子作りが得意だったから、可哀想だった。彼の焼いたチョコレートクッキーを食べてから文句が言えるやつなんて、あの父親くらいだよ。ある意味、大物なのかもね。
セールイ・チャイカが上手くいったのは、私とリコが正反対の人間だったからだと思うよ。喧嘩っ早くて粗雑な私と、見た目は熊でも繊細で少女趣味なリコと。お互いイライラすることもあったが、そんなのは大した問題じゃなかった。私たちはソウルメイトだった。
だから彼が私を置いていってしまったことを、今でも悲しく思ってるよ。私たちは同じように年老いて、同じような頃に、似たような病で死ぬものだと思ってた。リコは、そう思っていなかったんだね。
* * *
最初に「バンドを組もう」と言ったのは私だった。あの頃バーミンガムにいた若者はみんなバンドを組みたがってたんだよ。なんたって、自分の街からブラック・サバスが出たんだ。彼らを見ていると誰でも夢を抱く。何たって、彼らは私たちと同じような見た目の、同じ訛りで話す労働者たちだから。
それに、彼らはなんだか「丁度いい」んだよな。ロバート・プラントも好きだが、あんなに綺麗で歌が上手い奴は、尊敬できても憧れなんて抱けないよ。
私は学生の頃からコソコソ曲を作っていた。とはいっても、そんなに大層なモンじゃない。歌詞と、なんとなくのメロディーがあるだけのものだ。リコとつるむようになって暫く経ったある日、それを見せてみたら、彼は気に入ってくれたんだ。
そこから、私たちの曲作りが始まった。仕事が終わったらリコのフラットに行って、酒を飲みながらああだこうだ言い合って、曲を仕上げていった。リコは学校の友達とバンドを組んでいて、最初からけっこう上手かったんだが、私が「もっとこうしろよ」とか「もっと速く弾け」とかあれこれ言ううちに、物凄く上達した。
楽しかったよ。仕事終わりで腹ペコの私のために、リコはいつも食事を用意してくれた。飯を食いながら、今週の新譜はどうとか、最近どんなヤツに注目してるとか話して、夜中まで曲を作って……。フラットでは大きい音が出せなかったから、コソコソね。なんだか、内緒の集まりをしてるみたいだった。それがセールイ・チャイカの音楽に影響したのかな?
リコがギターを弾いて、私が歌って。たまに停電するフラットで、蝋燭の炎を眺めながら肩を寄せ合って。そのまま眠ってしまうこともしょっちゅうだった。今思えば、あのときがいちばん幸せだった。未来なんか何にも考えないまま、ただ、好きな奴と、好きな事をしてた。人生にはね、そういう時間が必要なんだよ。
* * *
冬が終わって、春が過ぎて、夏が来る頃には、アルバムを作れるくらいの曲ができていた。私はリコのバンド“ギュスターヴ”で歌うようになっていた。シャイな私にとっての最初のバンドさ。
ギュスターヴは典型的な学生バンドで、ビートルズやゾンビーズ、キンクスなんかの適当なコピーと、オリジナルを何曲かやっていた。お遊びのバンドだが、楽しかったし、地元じゃなかなか評判だったよ。あそこでベースを弾いていたジャック・タイラーには、5枚目のアルバム『ザ・ラスト・ワルツ』(1979年)でベースを弾いてもらった。一昨年彼が亡くなったときは、とても寂しくてね。
ギュスターヴのみんなは私のことを大層気に入って、客からの評判も良かったんで、「これらかも一緒にやっていこう」と言ってくれたんだが、私は私とリコのバンドを作りたかった。断るときは胸が痛んだが、それより希望のほうが強かったかな。
1971年の初夏、私のバンドは初めてのライブをした。とはいっても、地元の若いバンドがパブにいっぱい集まって、30分ずつ軽く腕を見せるだけの簡単なギグだよ。私は工場務めの同僚でバンドをやってたジェシカ・ローレンスと、学校を出てからぶらぶらしていたマシューに声をかけて、寄せ集めのバンドを作り、ステージに立った。
「セールイ・チャイカ」というバンド名は、そのとき考えたんだ。いっぱいバンドが出るから、識別のために必要でさ。名付けたのはリコだ。なんでも、白いマントの裾を翻して歌う私の姿がカモメ(訳注:露語でカモメは「チャイカ」)みたいに見えたんだと。まったく、ロマンチストだね。
最初のライブはまずまずだったんじゃないかな。終わってから、客に随分褒められたし。それから私たちは週に2~3度、飛び込み営業みたいなライブをするようになり、11月にはヴァーティゴ・レーベルから声をかけられて、契約を交わした。ライブを重ねるごとに、私たちの音はどんどんヘヴィに、どんどん華麗になって行った。
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