7/17

 オオタキと付き合って、初めての登校日。朝起きて顔を洗っているときにそのようなことを考えて、妙に緊張した。

 オオタキも同じように緊張していたりするんだろうかと想像して、鏡の中の私が気持ち悪くニヤついた。すると丁度良いタイミングでトイレから出てきた父さんと目が合って「ご機嫌だね、ナツ」なんて爽やかに笑われた。はずい。


「海、どうだった?」

「楽しかったよ」

「そう。それはいいね」


 ネクタイを結ぶ父さんとそんな他愛ない会話をして、今日の夜は帰りが遅くなるというようなことを言われた。

 いつもの時間にオオタキが家に来てくれて、それを玄関の前で待つ間。

 朝、オオタキと一緒に学校へ行くのは、いつものことなのに。今朝の緊張が尾を引いて、会話もぎこちなくなってしまいそうだった。それをオオタキに悟られるのは恥ずかしいし、何か、カッコ悪いような気がした。

 生まれてからこれまで、こんなことを意識したことはなくて。意図して隠そうとなんかしなくたって、私の考えていることは誰にも伝わなかった。オオタキと一緒にいると、それも全部過去になる。皮でも剥かれたみたいに、知られたくないような恥ずかしいことも全部晒け出してしまいそうになる。

 きりっと顔の筋肉を固くするような錯覚をしつつ、表情が緩まないよう頬を軽くぺちんと叩いたりした。


 そうして駅方面に繋がる道を見ていると、少し遠くから歩いてくるオオタキの姿。なんか、変な歩き方だった。膝がちゃんと曲がっていなくて、なんだかゼンマイで動くおもちゃみたいだった。


「おっおはようございます」

「なんで敬語なの? おはよう」


 いつもは若干猫背気味のオオタキの姿勢が、今朝はぴんと背筋を伸ばして、伸ばしすぎて、ちょっと不格好だ。家の前で対面すると、行進する兵隊みたいに足を揃えて立ち止まり、きをつけ、れい。なんて声がどこかからか聞こえてきそうな動きで挨拶をしてきた。

 何も言ってないし、言われてないのに。

 あぁ、きっとこの子も私と同じ気持ちなんだなって理解して、頬が緩んだ。固くしたはずの表情は、顔を合わせて数秒ででろっと融解した。マヌケだ。


 オオタキと付き合うことで、今までと何か変わるだろうかなんて楽観的に思っていたけど。

 もうぜんぜん、違う。朝の時点で違う。恋人同士って関係になるだけで、熱が違う。今日は七月にしては涼しい気温だったのに、体感温度は三十度超えてた。ちっちゃなことでも意識しちゃうし、挨拶ひとつでも「今の変じゃなかったかな」とかいちいち考えてしまう。

 これがただ未体験のことで刺激的なだけで、実は浮かれててすぐに冷めちゃう……なんてオチじゃないことを、祈るばかりだ。絶対、違うけどね。賭けてもいいわ。付き合う前からオオタキめちゃくちゃかわいかったもん。付き合い始めてから、さらにもっとかわいくなっちゃったけどね。この子は一体、どこまでかわいくなっちまえば気が済むんだろう? 一生見守らなきゃいけないじゃん。結婚するしかないよね、そんなん。


「昨日、寝る前に電話しようと思ってさ」

「うん」

「オガワの番号だけ入れて、なに話そっかな、って考えてたら、寝ちゃってた」

「なんじゃそりゃ」


 会話らしい会話と言えばそれくらいで、何と言うか、話が弾まなかった。普段なら何を考えるでもなく話題が生まれるのに、それがこう、上手く運ばない。私ってこんなに話し下手聞き下手だったかしら、と思った。


「……」

「……」


 鞄とスカートが揺れる。二人分の靴音が、朝の静かな住宅地に響く。

 黙って隣を歩くオオタキを覗くと、ぶらぶらと左手を出したり引っ込めたりと、忙しそうにしていた。何かを言いたそうにちらちら私の表情を窺ってきたり、たまに指同士があたっちゃって、過剰に仰け反ったり。

 容易に察しがついた。

 手、繋ぎたいんだろう。だけどそれをすぐに行動に移してしまうのも退屈だし、このオオタキの葛藤がどういう思いから生まれているのか、知りたかったので。


「……釣りかい?」

 

 意地悪っぽかったかもしれないけど、そう聞いてみた。

 あわわあわあわと焦って、両手を顔の前でぶんぶんと振る。違うの? とまた質問すると、いや繋ぎたくないわけじゃないんだけど、とか、なんとか。目が泳いで、口の端がもにょもにょとして。オオタキの動揺する表情は、ここ数日で飽きるほど目にしてる。それでもなお、可愛すぎて、くぅーっとなる。


「あ、あの、友達とか会っちゃったら、あれかな、とか思って、その」

「あぁ。なるほどね。それは確かに、問題だ」


 言って、すっとオオタキの左手を握る。これくらい普通だよ、みたいに、気持ちが昂るのを隠して、強がって。握るとふわ、って効果音が聞こえてきそうなくらい、吸い付くみたいに柔らかくて小さなオオタキの手。その指の隙間に私の指を滑り込ませるようにして、ぎゅっ、と。


「……校門の手前までなら、いいんじゃない?」


 優しさを前面に押し出して、ちょっぴり胡散臭いくらいの笑顔をオオタキに向けてやる。数秒目が合うと、湯気でも出るんじゃというくらいに顔を赤くして、「ううっぅええ」と文字じゃ書けないような声を出しながら地面の方を向いてしまった。なるほど。こういうのが、オオタキには効くらしい。覚えたぞ。


「いま、わたし、すっごいきもかった」

「そんなことない」

「手汗、すごいかも」

「暑いし、気にしないよ」


 それに、オオタキの汗だったら私はいくらでも飲めますよ。と言いかけて、いや、別にそんなことはないけど。思うに留めて、帰ったら日記に書こう、とか考えた。そしてそれを今まさに書いた。

 

 学校に到着してホームルームが始まる頃には、もうオオタキは机に突っ伏してすやすや眠っていた。そのまま一時限目はずっと寝ていて、先生に一度注意されてもその数分後にはもう腕に顔を埋めていた。

 昨日たくさん遊んで、その疲れが残っていたのかも。それがなくたって、その前々日には告白で精神磨り減らしてるだろうし。あれからまだ数日しか経ってないんだよな、と不意打ちみたいに、部屋での会話とか抱き締めたこととか、キス、したこととか、思い出して。

 頬杖をつき、手のひらを口元に押し付ける。熱い息が唇の隙間を抉じ開けるように通り抜けて、触れ合ったオオタキの唇もこんな風に熱くて、とか、いやいやいや、今授業中なのに、バカか私は。なんて思いながら、窓の外を見ていた。授業の内容は、ほとんど耳には入っていなかった。


 合間の休み時間、アサハラとフジワラが私たちの席に寄ってきた。

 ぐーすか眠るオオタキに手を伸ばしながら『起こしていい?』なんてアサハラがにやけながらひそひそと言う。なんで私に許可取ろうとしてんだよ、ダメに決まってんだろ。オオタキの幸せな時間を邪魔するんじゃないよ、全く。


「だめ」


 でもアサハラはそんな私の言葉もガン無視して、オオタキには見えない角度から手を伸ばして肩をちょんちょんとつついた。お前、それだとまるで私が起こしたみたいになるじゃねーか。


「……んなにぃ、おがわぁ」


 半開きの目を擦りながら、呂律の回らない口調でオオタキが言う。前髪がくしゃっとなっていて、口がだらしなくふやけてもにょっとしていた。


「あー……おはよう、オオタキ」

「んん」

「寝ててもいいよ、ごめんね、起こして」

「んー」


 なんか、昨日も似たようなやり取りをした気がする。そういう「慣れ」みたいなものが増えていくのは、なんとなく、いいなぁって思う。


 先ほどまで机に突っ伏して動かなかったオオタキも、昼休みになると元気だった。いや、真面目に学生やるんだったら、本当は逆であるべきなんだろうけども。

 で、いつもの如く手を触られた。両手でにぎにぎと、私の肌の感触でも確かめるみたいに。一般的な女の子の手と比べたら、私のは骨っぽくて固いだけだと思うのだけど。

 しかし今朝のことを思うと、これはオオタキの中ではセーフなのだろうか、とか考えたりする。線引きが良くわかんないけど、手を繋いで歩くのよりは、緊張しないようで。


「いつも思うんだけどさ」

「うん?」

「なんで私の手、触ってくんの?」

「……あ、嫌だった?」

「あ、いや、全然。嫌とかじゃなくて、理由が知りたくて」


 前々から、気にはなっていた。別に嫌なわけじゃなかったし、というかむしろ嬉しいくらいだし。オオタキがそうしたいのならば拒む理由もないので、なんとなく、触らせておいたけど。


「んー……なんだろ…………」


 いざ聞かれると理由が出てこないのか、唸って悩んでいた。顎を机にぺったりつけて、目線だけ上を向いてる。中空に思考を並べて整理するみたいに、視線があっちこっちに泳いでいるのがよくわかった。いやー、かわいいね、今の状態。写真撮って携帯の待ち受けにしたい。


「……安心する、っていうか」


 にぎ。


「なんか、なんだろう…………むずいな」


 にぎにぎ。


「オガワ、何にも言ってこないし、ついつい」


 むにむに。


「落ち着くのかなぁ」


 終始手は離さないまま、歯切れ悪く、言葉を並べていく。そんなに触っても、何も出ないし何も変わらないよ。

 はっきりとしないオオタキのご説明に相槌をうち、まぁなんとなく、伝わってはきた。大した理由がないことが。


「……手繋ぐのと、なんか違う?」

「…………」


 あ、と一瞬呆けた顔になって、それからがたーんとそこそこデカい音がした。転ぶんじゃないのって思うくらい勢いよく椅子を後ろに倒しながら、顔を真っ赤にして立ち上がった。


「ごっ、ごごご、ごめんたしかに、いやなんで気付かなかったんだろ待って待ってごめん」


 いや、慌てると余計に不審じゃない? ただでさえ今デカい音で注目されてるってのに。

 椅子を立てて座り直したとき、なんだか妙に肩とかが強張ってた。


「……別に今更なんとも、思われないでしょ、たぶん」


 前から「あの二人って……」的なことを思われていたのならそれは、違う話になってくるのだけど。でも私みたいなやつのことなんか、クラスの誰も注目してないだろうし。私たちが何してようが、誰にも迷惑かけてないんだから、放っとけと思う。明確にその敵が見えているわけでもないのにこんなことを考えるのは、ちょっと自意識過剰な気がしないでもないが。

 

 父さんの帰りが遅い日は大抵そうなんだけど、今日は母さんと一緒にお風呂に入った。彼氏とかいないの? とか聞かれて、いるわけねーと答えた。彼女なら、いますけどねー。とは、言わなかった。

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