3.5 番外編

色付く前に散る紅葉

 このお店に来ると、否応なしにあの日のことを思い出してしまう。

 その日、特別苦しい出来事があったというわけでは無いのだけど、そこから当時の忘れたいような記憶が連想ゲームでもするみたいに蘇ってきて、苦い顔になる。

 だからこの表情の原因は、コーヒーを飲んでいるせいじゃない。砂糖とミルクをたっぷり入れたアイスコーヒーを啜って、本のページを捲りながら、人を待っていた。


 このお店に来るのは、何年ぶりだろう。高校生以来、いや、大学生のときに一度か二度くらい来たことがあったかな。勿論、子細に変化はあるのだろうけど、おしゃれな店内の雰囲気はあの頃とほとんど変わっていないように思う。

 そうして過去に思いを馳せていると、ちりん、とドアベルの音と一緒に彼女がお店へやってくる。

 午後三時と指定したのはそっちだというのに、もう三十分も過ぎているじゃないか。

 冗談交じりに問いただすと、着ていく服が無かった、なんて笑いながら言われてしまった。彼女の仕事柄、外へ出ることが少ないとはいえ。ひとりの女性として、それはどうなのか、と思う。口にはしないまま、とりあえずはははと笑っておく。


「それで、なにさ、あのメール。あの子のことは、僕なんかよりも君の方が、よっぽど知っていると思うけれど」


 今日、彼女に誘われてここまで来たわけだけど。

 はっきり言って、乗り気じゃなかった。今すぐに、ここから立ち去ってしまいたいくらいには。


「一緒に暮らしてるんだから。本人から直接、聞けばいいじゃないか」


 逃げ道を探して、そんな疑問を投げかけてみる。それに対し彼女はいいや、近くで見ていた人の話が聞きたいんだ、と言った。わかってないですね、なんて言葉が表情から伝わってきて、むっとなる。


「まぁ、話すけどさ……」


 そう前置きして、恥ずかしくなる準備を済ませる。

 対面、彼女の手に携えられたメモ帳を一瞥して、はぁ、とため息が出そうになる。

 これからあそこに、僕の恥ずかしい経験が綴られていくんだろう。そしてそれが、脚注を織り交ぜられて鮮やかに書き直されて、数えきれない程の人に読まれてしまうのだろう。

 何に活用するだなんてことは聞いてないけど、どうせ作品に関することに決まってる。

 ……本当、どんな拷問なんだろう、これは。



 幼い頃から、僕とリコは相当の時間を一緒に過ごしてきた。

 僕たちは家が近くって、年が同じで。まだ幼い僕らにとって、仲を深める理由なんてそれだけで十分だった。親同士の仲も良くて、小学生になれば何か取り決めるでもなく一緒に登下校をしたし、家族ぐるみで遊びに出かけたりなんてこともよくあった。僕とリコの関係は、いわゆる幼馴染というものに当たるだろう。

 リコが僕のことを当時、どんな風に見ていたかは分からないけど。

 少なくとも僕は、リコのことを他の友達よりも一つか二つくらい、上に見ていた。

 彼女のことが大事だったし、守ってあげなきゃっていう気持ちもあった。


 リコは、自分の気持ちを表現することが極端に苦手だった。下手だったと言った方が適当かもしれない。何事に対しても消極的で、引っ込み思案で。知らない誰かと話すことを、必要以上に避けていた節さえあったように思う。

 だというのに、幼馴染だからっていう贔屓目を抜きにしたって彼女は、とても端正な顔立ちをしていた。それが、裏目に出てしまって。

 物静かな性格が、高飛車だとか気取り屋なんて印象を周囲に抱かせたんだろう。

 彼女は幼い頃から、同年代の連中から疎ましがられていた。

 物を隠されたり、仲間外れにされたりするのは、珍しいことじゃなかった。

 それを庇うことが、僕の使命だって信じて疑わなかった。彼女のためと思えば、どんなことだって出来た。臆することなく立ち向かえた。リコに比べれば、僕は他人と付き合うのが得意だったんだ。

 彼女への嫌がらせは、僕の行動でみるみる減っていった。

 これは、自惚れでも勘違いでもないよ。





「リコのこと、よろしくねって。リコのお母さんから、よくそんなことを言われたよ。僕は、それが誇らしくてね。任されてる感じって言うか、僕だけが、彼女の理解者だって気持ち? そういうのが、生まれてしまって。だからこそ、あの勘違いに拍車がかかってね。ただ家が近い、同い年ってだけなのに。きっと幼いリコにとって、僕と言う存在はさぞかし邪魔だっただろうなって。今なら、そう思えるよ」





 小学校を卒業しても、彼女の内気な性格は変わらなかった。

 生まれ持った性質が、そんなに簡単に変わるものでは無いのは当然のことだ。

 そのせいか中学一年生の頃、周囲から勝手に「読書が好きだ」なんて日陰者にありがちな印象を持たれて、半ば無理やり図書委員にさせられた、なんて愚痴を垂れていたのをよく覚えている。

 当時の彼女は今と違って、本なんか読まなかったし。

 もとより、趣味なんか無い子だったんだ。


 小学生の頃ほど、明らかな嫌がらせは発生しなかった、と思う。実際のところ、生徒の数が増えたせいで僕が気付けていないだけ、なんてことも可能性としてはあり得ないわけじゃないけど。

 でもそれとは別に、新たな問題が生まれた。

 しばしば、噂されていたんだよ。

 僕とリコの関係についてをね。

 断っておくけど、僕から何か働きかけたり嘘を吐いたりってことは、一切していない。本当だよ?

 中学生ってのは、要するにそういう年頃なわけだし。男女で一緒に登下校してるってだけで、噂のタネになるんだろう。理解はしてる。

 それに実のところ、本当に気持ちの悪い話ではあるけど、僕はその噂話がそこまで不快じゃなかったんだ。

 この周囲の噂についても、リコがどう感じていたのかは分からない。ただ、一緒に学校へ行くのを止めよう、なんて提案をしたりはしなかった。噂は彼女の耳にもきちんと届いていたし、実際に「アレ、どう思う?」って聞いても、「別に」としか答えなかった。

 そのときの僕は、それを肯定的であると誤認識したんだろうね。

 本当、思い返せば思い返すほど自分のバカさと愚かさに呆れかえる。


 彼女は自己表現が得意じゃないんだって、そんなこと。

 他でもない僕が、誰よりもわかってあげていたはずなのにさ。





「こんなこと、今言ってしまえば、馬鹿げた話だと鼻で笑えてしまうことなんだけど。悲しくて、情けなくて、惨めで、正直僕からすれば、笑い事にすらならないようなことなんだけどさ。聞いてくれるかな。僕は……僕はね。リコと、将来を共にすると思ってたんだ。まぁ、うん。この際だし、もっと言うならさ。この気持ちは、独りよがりじゃないって。確信してたんだよ。つまり、リコからも、僕のことを同じように想ってもらえてるって。そう思ってたんだ。傲慢だよ。反吐が出る。なぁ。笑ってくれよ。ダサい、ってさ」





 音楽の授業、合唱祭なんかの時期だけは活き活きしてたのを、よく覚えている。

 三年間で同じクラスになったのは一度だけだったけど、きっと僕の見ていない二年間でも、似たように過ごしていたんだろうと思う。

 彼女は、歌が上手なんだ。とてもね。

 思えば、小学校の卒業式でも先生に褒められていたし。

 夏休みが終わってすぐ、体育祭があり、その直後。一年生の、合唱祭の時期に。

 二人で学校へ行くときに「わたしね。合唱祭。ソプラノのパートリーダーになったんだよ」なんて、嬉しそうに笑って話していた。

 その少し前は体育祭の練習が続いていたし、運動が大嫌いな彼女はかつてないほどに不機嫌で。その落差って言うんだろうか。いや、そんなの有ろうが無かろうが、関係ないかな。

 すごく、魅力的だったんだ。

 リコがあんな風に笑う顔なんて、今まで、見たことが無かったから。

 僕はきっとこれから先、どんなことがあっても、あの笑顔を忘れないだろうって、そう思ったよ。

 結局彼女は中学校の三年間、ずっとパートリーダーを任されて、その何れもで、クラスメートたちを金賞に導いた。決して誇張表現じゃない。きっと僕の通っていた中学の出身の連中は皆、似たようなことを思うはず。

 中学校の卒業式ではね。森山直太朗の「虹」を歌ったんだ。

 彼女は、ソロパートを務めたんだ。そりゃ有名にもなるに決まってる。

 それと並び立つテノールのソロを担当したのは、残念ながら僕じゃなかったけど。彼女と一緒に歌いたくて頑張ったんだけど、その方面のセンスは僕には無かったみたいでさ。

 情けないよ。今だって後悔してるし、あの男子生徒を憎んでる。

 いつも恥ずかしがりやな彼女は、歌となれば別人のように変わってね。

 本番でも堂々と歌いあげて、何故か僕の母親が号泣していた。


 そして、まるで小説や漫画のような話だけど。

 僕を差し置いてテノールパートを歌った男子生徒に、卒業式の日に告白されたって聞いたんだ。卒業アルバムと卒業証書の入った鞄を背負って通学路を二人並んで歩きながら。

 リコからそれを聞いた時、身体の芯が凍るように冷えて固くなった。

 断ったよ、と聞いてその緊張は、すぐに弛緩したけど。


「でも、なんで?」


 聞くまでも無いことだった。彼女が誰かと交際する情景なんて、きっと誰にも想像できない。だけど、夢見た間抜けなことを言うなら。ここで、僕の名前を呼んで欲しかった。


「付き合うとか、よくわかんないもん」


 まぁ、叶わなかったけど。

 予想はしてたのに、肩を落としそうになった。ここで諦められたら、きっと、楽だったのにね。安堵と落胆の入り混じる、そんな心境のとき。


「それに、わたしなんかと一緒に居たって、楽しくないよ。それはモミジが一番、わかってるでしょ?」


 僕の考えていた全てが、どうでもよくなったような気がしたよ。

 悲しさを孕む笑顔で、リコはそう言った。

 全く以て間違っている、自分を必要以上過ぎるくらいに、蔑むような言葉を。

 何もかもを諦めてしまったような表情で、そう言ったんだ。

 僕は、それを見て、聞いてね。

 あぁ、これから先、彼女はどこへも行かないだろうって。

 誰のものにもならないでいてくれる、って、思ってしまったんだ。

 バカみたいだよ、本当に。

 わかってる。彼女は僕のことなんて、初めから見てすらいなかったんだ。





「高校に入学してからはもう、最悪な日が続いたよ。頭では、わかってたんだ。良くない、悪いことをしてるって。なのに、口も手も勝手に動くんだ。家に帰ってから、何をやってたんだって冷静になって、死にたくなって。でも、次の日もその次の日もその次だって、似たようなことを繰り返した。もう、どうしようもなかった。……あぁ、もう。そうだね。僕はさ。それくらい。リコのことが、どうしようもないくらいに、好きだったんだよ」


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