オガワの日記 番外編:"Fall" in love

"Fall" in love 1

 今年は、随分梅雨が長いような気がする。

 もう六月になってしばらく経つというのに、ここ数日降り続いた雨に濡れた空気は、初夏にしては少々、肌寒かった。自分の部屋に冷房が無いせいか、昔からこういう気温の変化にわたしは結構弱い。季節の変わり目なんかは、必ず風邪を引く。


 そんな日でも教室の冷房はいつもと変わらず稼働していて、ただでさえ冷えた室温をさらに落としている。上着、持ってくればよかったな。

 こんなとき、わたしがもっと発言力のあるやつだったらなぁ、なんて日ごろの行いを悔やむように考えたりする。

 アサハラみたいなやつは、きっとこんな気持ちとは無縁なんだろうな。わたしの数少ない知り合いの顔を頭のなかで整列させて、その中で一番騒がしいのを選びとる。二番目は、フジワラだ。

 それが羨ましい反面、きっとああいう奴にもああいう奴なりに、悩みなんかあったりするのかもしれないと思う。

 真正面、同じ列の一番前の席で、それなりに真面目に授業を受けているように見えるアサハラの背を見る。

 ただでさえ猫背なアサハラの背中は、授業中だとその酷さが増す。机の木目でも注視するように丸まっていた。

 羽織った上着には肩甲骨が浮き出ていて、くそう、こっちは寒い思いをしているのに、と歯軋りする。


「さむ……」

 

 すん、と鼻を鳴らし、シャツ越しに肩を擦って苦言を漏らした。

 こういうときに強いのは大体、男の子だ。部活の朝練なんかを理由に、暑い暑いって騒いで。わたしみたいなやつのことなんか、きっと視界にすら入っていないんだろうなって思う。


 二年生になって、教室の男子はほとんど知らない顔に変わった。

 ただでさえ声の小さい人間なのに、そんな状況に置かれてしまえば、縮こまっちゃうのも無理はなかった。

 ……いや、まぁ。

 以前に比べれば、幾分、マシにはなったと思うけど。たぶん。きっと、うん。そのはずだ。鏡なんかどこにもないのに、視界の隅で自分の姿を見るみたいだった。

 シャツの袖を限界まで伸ばして、指先だけ出すようにする。そんな行動にあんまり効果も無くて、ぶるるっと鳥肌が腕や背中やらに拡がっていくのを感じる。

 それを消すみたいにまた、二の腕の辺りを手で擦った。


「寒そうだね、オオタキ」


 そんな風に、明らかに寒いです寒いですアピールと思われても仕方のない動きをしていると、後ろの席からこそっと小さい声が聞こえてきた。

 今は授業中なので、あまり身体を動かさないで控えめに振り返ると、オガワと目が合ってどきりとした。

 一体いつまでわたしはこうやってオガワの顔を見るだけでドッキンドッキン昂ったり、声を聞くだけで取り乱したりするつもりなのだろう。

 自分で自分に、呆れそうになる。そこらのカップルがやることだって大方やってるってのに。もういい加減、慣れてもいいはずだった。


 オガワと出会ってから、一年と少し経つ。

 クラス替えが近付いてくると毎日毎日不安で眠れない夜が続いたのだけど、神様に祈りが通じたのか、一年生に引き続きオガワと同じクラスになることができたのだった。

 二年生になって、最初の登校日。昇降口前でクラス表を二人で確認して、一緒のクラスだとわたしよりも先に知ったオガワが勢いよく抱き付いてきたのを、よく覚えている。

 それはさておき。


 距離の近さから喉を突くようにして生まれた驚きが去ると、今度は顔が気味悪くにやついてしまいそうになる。それを悟られないようにと、表情は苦いものを選んだ。


「寒いよ。今日は冷房、要らなくない?」

「言えてる。多分、女子はみんなそう思ってるよ」


 公式を説明する先生の視線から逃げるようにして、こそこそと小声でやり取りする。

 小さい声で話しているのだからそれは当たり前なのだけど、いつもよりオガワとの距離が近いような気がして、瞬きとか、ほんの少しだけ揺れる前髪とか、些細な動作の一つ一つが胸に深く突き刺さる。

 刺さって、抜けませんけど。

 囁くようなオガワの声が、様々なことを思い出させる。およそ授業中に思うようなことではないそれらの記憶を、ぐっと堪えるようにして頭から追い出す。


「オオタキ、寒がりだもんね。上着、忘れちゃったの?」

「うん」


 吐息を混ぜたようなオガワの声が、頭蓋の裏側にこびりついて振動する。脳を揺らすみたいで、なんだか背筋を指先でなぞられでもしているようにそわそわする。

 耳元でやられたら、卒倒でもしそうな気がした。そうやって、多分、ぼーっとしてしまってたんだと思う。


「……オオタキさん、寒いって言う割に、赤いけど?」


 まさに眼前で一瞬意地悪そうに微笑んだかと思えば、そんなことを言ってくる。自分の顔色なんかひとつも意識してなくて、そんな状態で指摘されてしまえば、がぁあって顔が熱くなる。

 誰にも、私たちが付き合っていることは、言ってないのに。授業中だよ、誰かが聞いてたらどうするの、などとオガワへの色んな異論(うまい)が募って、その全部を口にする訳にも行かないから。


「ばか、もう」

「あはは」


 四文字にまとめて、お伝えしてあげた。だけどオガワはそれを聞いても、小馬鹿にしたみたいに、ふふふと笑うばかり。かわいくって、ずるいなぁって思う。





 授業が終わり、駅でオガワと別れて。

 電車に乗り、家に到着する。

 ただいま、とお母さんに言ってから自分の部屋に立ち入ると、スティックの芳香剤の匂いと一緒に、むっとした暑さが身体を包んだ。

 オガワがウチに来る予定なんかないのに、付き合い始めてから何となく、妙に片付けをこまめにやったりしている。どういう気持ちの変化から生まれた行動なのか、自分でもよく分からないけど。

 中学生の頃なんか、部屋に来たモミジにいつも小言を言われたりした。もうしばらくここには来ていないけど、きっと今の状態を目にしたらびっくりすると思う。あのリコが、こまめに部屋の掃除を……!? ってなると思う。


 ふと、思い返せば。

 いつ以来、と具体的に覚えているわけじゃないけど、モミジとはかなり長い間、込み入った話をしていない。

 むしろ、なんとなく、避けられているような気さえする。朝も帰りも電車の時間をずらされたし、たまに家の近くで鉢合わせしても「ひさしぶり」と笑うだけですぐにどっか行っちゃうし。

 きっと、気を遣っているんだと思う。モミジに限って、話しづらいとか、そんな女々しい理由でわたしから遠ざかるはずないから。

 別に、顔を合わせて話したいことなんて、わたしにはない。それでもやっぱり、一応、小さい頃からずっと一緒に過ごしてきた相手なわけで。何となく寂寥めいたものが心に滲んで、何を被害者ぶってるんだって思い直す。

 もし現状を憂うのなら、こうなった原因を作り出したのは、他ならないわたしだ。お門違いも、甚だしい。

 どうしたって、わたしが好きなのは、オガワただひとり。それ以外は、それ以外でしかない。冷徹に切り捨てるように胸の中で唱えると、なんだか自分が酷く意地悪な人間に思えた。実際、そうなんだろう。 


 部屋が綺麗になっても冷房は無いままで、この部屋にあるのは扇風機だけ。

 ここ数日は涼しくて過ごしやすかったのだけど、今日は午後から出てきた太陽によって温められたじめじめした暑さが、薄暗い部屋の中に充満している。

 戸を閉めてから電気は点けないまま、扇風機に直行する。強にして、ベッドに向けてから首振りをオフにした。

 うるさい扇風機の生み出す風は湿っぽくて暑いけれど、何もないよりはましだと思った。それから窓を開けるか悩んで、開けないままにした。特に、理由はないけど。


 生ぬるい風を足首辺りに感じながら、ほとんど中身の入っていない鞄を床に放る。

 手を使わずに靴下を脚から剥がして、それも鞄と同じように、床に脱ぎ捨てた。


 それで、次は。

 目線をずらして、本棚の横に置かれた全身鏡に映りこむマヌケ顔を見る。

 身長はわたしと同じくらいのはずなのに、わたしのよりも少しだけ大きいような気がする、オガワのセーター。昼間に借りたその袖を指先で摘むみたいにして、手のひらを覆う。爪が少し伸びているかも、なんて思った。

 襟の辺りを掴んで脱ぐ。軽く頭を振って乱れた髪を整えてから、今日一日身に纏っていた紺色のそれを、まじまじ、見つめる。


 オガワはこれを、下に着ているシャツを二回くらい折って押さえるように肘まで捲っていることが多いような気がする。そうしてオガワの姿を頭に思い浮かべて、それだけなのに、あぁ、綺麗だなぁとか、かわいいなぁって考えて。

 少し遅れて、どうかしてるな、わたし。なんて自嘲気味に思った。


 ぎゅっと胸の中に収めるようにすると、なんだか小さくなったオガワを抱きしめているような気分になった。

 小さい頃のオガワって、どんな感じだったんだろう。静かな子だったとは聞いているけど。卒業アルバムとか、頼んだら見せてくれるかな。見せてくれなさそうだな。ゆかりさんに頼んだら、古いアルバムなんか持ってきてくれるかもしれない。


 意図せず鼻で息をすると、オガワのことを思い出す優しくて落ち着く匂いがする。

 オガワのお家では香りがあまり強くない柔軟剤を使っていて、同じように、ボディソープもシャンプーの匂いも控えめだ。

 オガワはよくわたしに「いい匂いだなぁ」なんて言うのだけど、そんなことを言うなら、オガワの方がよっぽどだと思う。

 むしろ服なんかの匂いで誤魔化していない分、オガワの方がずっといい匂いなんじゃないのかしら。

 ずっと嗅いでいたくなって、きっとこんなことをしていると知られてしまったら、気持ち悪がられちゃうかもしれない。自覚したところで、やめる気はさらさらないけども。


「……はぁ」


 色んな気持ちの溶け込んだ溜息を吐く。なんだか熱が出たときみたいに頭がぼうっとして、理由もないのに心臓がちょっとうるさい。

 セーターを掴んだまま、どこまでだったら許されるだろうって考えて、いや、いやいや、って頭を振る。

 客観的に。匂いくらいは、まぁ、セーフだと思う。それでもきもいことは間違いないし、知られたらやばいというのは、大前提として。じゃあ何がって言うと、そこから先って、と。想像すると身体が暖かくなるようで、少しすると自分の思考と衝動にちょっと引いて鳥肌が立つ。

 さすがに。

 別に誰も見てなんかいないんだし、と理性が弱くなりそうになって、ダメだよ、と自制心が上から抑えるように主張してくる。


 そうやってもだもだとしていたら、携帯が鳴った。くぐもった着信音が部屋に響いて、鞄に入れたままにしていたのを思い出した。

 なにか監視でもされているような気分になって、びくぅ、となる。まだ画面も見ていないのに、オガワからだ、なんて思ったりした。わたしの携帯に電話をかけてくる相手なんて、今はもうオガワくらいしかいない。本当は寂しいはずのその事実が、わたしにとっては嬉しくて仕方ない。


 急いで鞄を開けて震動する携帯を手に取り、応答のボタンをタップした。

 画面にはすっかり見慣れた大きい犬の写真と一緒に、字だけでももう可愛い漢字四文字の名前が表示されて、その相手は勿論、オガワだった。


「な、なんですか」

『ふ、なんですかって、なに? 怒ってるの?』


 電話に出てすぐ、もしもしも言わないで食い気味に尋ねると、オガワが笑い混じりに問い返してくる。


「怒ってないです、けど」

『なんで敬語なの?』

「なんですか、用は」

『ん、声、聴きたくなって……え、そんなの言わなきゃダメ? なに? どしたの、今日』

「どうも、しないけど」

『変なのー』


 電話の向こうで、オガワが息を漏らすように静かに笑う。

 最近オガワは、よく笑うようになった。

 出会ったばかりの頃は、もう少し、不愛想だったように思う。いや、不愛想というと響きは悪いけど、なんか、クールって言うか、もっとカッコいい感じがしたというか。でもそれだと今がカッコよくないみたいになるから、うーん。要らない問答を、胸の中で繰り返す。

 それに、以前が不愛想だったと言えば、わたしも似たようなものだ。オガワの場合はそれもプラスに働いてしまうのだから、やっぱり、ずるいなぁと思う。

 考えるまでも無くどちらのオガワも大好きではあるんだけど、以前のちょっと冷たさの混じるようなオガワの性格も、あれはあれで悪くはなかったかも。


『いま、なにしてた?』

「べつに、なんにも」

『そっか』


 言えるわけない。

 アナタのセーターを顔に近づけてドキドキしてました、とか。

 言えるワケ、ないでしょ。

 動揺から声のトーンが変にならないよう、強く意識する。


『私はねぇ。オオタキのこと、考えてたよ』

「へ、ぇ」

『はは。わかりやすいねえ』


 聞いてもいないことをさらっと答えられて、空気の塊が喉にひっかかる。

 固めた意識が、簡単に崩される。

 どうして今日に限って、こう、この、もう。

 こんな歯が浮くような台詞、全然、オガワらしくない。誰かに言わされているんじゃないだろうか。疑う割に、単純な構造の脳がとろけるみたいに喜びが滲む。表情がそれにつられて、ふにゃあと柔らかくなる。声が震えて、自分が自分じゃなくなっていくような感じがする。


『オオタキさん? おーい』

「……今日のオガワ、へん」

『えぇ。そう?』


 とぼけるように、またこっそりと笑う。

 その声に、目を細めて穏やかに笑みを浮かべる綺麗な顔を思い出して、そういう顔をしてる時は大体、照れたり恥ずかしがったりしてるわたしのことを面白がってる。

 たまには何か言い返してみたいんだけど、オガワの方が頭も良くて色んな言葉を知っているわけだから当然、上手く丸め込まれてしまうのだった。


『なんかねぇ、気分いいんだ、今日。夏休みが近いからかな』


 指摘するとそう評して、やっぱりわたしの覚えた違和感は勘違いじゃなかったみたいだった。そもそも、オガワから電話をかけてくること自体、珍しいから。


『寝っ転がって、電話するとさ。なんか、横で寝てるみたいで、いいよね』

「それ、こないだ、わたしが言ったやつ」

『そうだっけー?』

「わかってて言ってる」

『いやー。かわいいこと言うなぁって、思ったよね』

「バカにしてるでしょ」

『してないよ。してないし、……うん』

「……なに?」

『んー、何でもない』

「なにさぁ」

『なにさーあ』

「まねしないでよ」


 本当に、大した要件はないみたいだった。それなのに電話をかけてきてくれたことが、たまらなく嬉しくて。無邪気にわたしを揶揄うオガワが愛しくて、永遠に電話が繋がったままでいたいと願う。毒にも薬にもならないようなやりとりが、ずっと続いてほしいと祈る。

 それからついでにとでも言うように、オガワもわたしと同じことを考えていてくれたらいいのに、なんて考えで思考を締める。

 たかが数分話しただけで、これだ。

 重たい女だ、って思う。こんなことを考えていると知っても、オガワはわたしのことを好きでいてくれるだろうか。話してみたいような気もするし、黙っていたいとも思う。


『あ、そうだ』

「ん?」

『……セーター。匂いくらいなら、嗅いでも良いよ?』

「な」

 

 何かを思い出したように言葉を区切ったかと思えば、こそ、と内緒話でもするみたいに声量を落として言う。

 携帯を右手に持ち、その反対の手には、オガワのセーターを握ったままだった。

 えっ。まさか、え、どっかで見てるの、なんて在りもしないのに想像して、勢いよく背後を振り返ったりして、それからベッドにセーターをぶん投げた。


「な、なに、言ってるの」

『はは。なにって。もし私がオオタキのを借りたら、こっそり嗅ぐけどなぁ』

「ば、ばか、ばか」

『今日、そればっかじゃん。かわいいなぁ、君は』


 本当、オガワの言うとおりだ。今日は、昼間からずっとこんな調子な気がする。オガワのちょっとした言葉で舞い上がって、乱されて。なんだか手の上で踊らされているみたいで、こっちはぜんぜん、面白くない。ぜんぜん、楽しくない。なのに。


『ねぇ、オオタキ』

「……なに?」

『好きだよ』

「う」

『大好き』

「ぅぅうう」

『どっから出てんのよ、そんな声』


 こんな言葉で、簡単に嬉しくなってしまって。

 頭に花でも咲いたように、また顔がふにゃふにゃになる。別に今わたしがニヤついていても、それがオガワに伝わることはないのに、意味も無く表情が緩むのを我慢して、きっとすごく気持ち悪い顔になっていたと思う。

 電話を耳にあてがったまま、声が漏れるのを我慢すると熱くなった上半身がゆらゆらと揺れた。電話を持っていない方の手で頬をぎゅーっと押さえつけていないと、どろっと溶けてベッドに落っこちてしまいそうな気がした。

 どこからどう見たって、ばかなのは、わたしのほうだ。


『じゃ、お風呂入るから切るね。また明日』

「ん、また」

『ばいびー』


 お別れのあいさつにそんな言葉を使うなんて。やっぱり今日のオガワは、オガワらしくない。何か変なものでも食べたりしたんじゃなかろうか。

 通話の終了を示す通知音が、心に小さい穴を開ける。寂しい気持ちがあっという間に胸を満たした。


「ふう」


 枕をぼふんと鳴らして、天井を見る。

 いつ頃だったかな。

 二年生になって間もないか、その少し前の、春先くらいだったか。

 その辺りから、なんだかオガワは丸くなったというか。纏う雰囲気が、少しだけ柔らかくなったような気がする。

 それはきっと、よい変化なのだろうけど。私にしか見せなかった表情を、色んな人に振りまいているように見えてしまって。あんまり、楽しい気分にはなれない。


 多分オガワにその自覚はないけど、二年生のクラスの男の子の間では、オガワの話、結構されている。

 オガワさんかわいいよねとか、彼氏いるのかな、とか、そういうやつ。こないだは、夏愛なつめって名前が可愛いって言われてた。わかる、とひとりで頷いたりしてた。

 ああいうのって、みんな聞こえてないと思って話しているんだろうか。もしくは、聞こえててもいいと思ってるのか。聞こえててほしい、くらいまであったりするのかな。もしもそうなら、あの男の子たちはちょっと気の毒だ。

 自分で言うのもどうなんだと思うけど、オガワははっきり言って、わたし以外のことに対してとことん無関心だ。

 本当、やばいくらいに何も考えてない。全く自惚れなんかじゃない。あくまで本人はわたしにバレてないと思ってるみたいだけど、意識してみると態度の違いがあからさま過ぎてちょっと笑えてくる。

 だからそういう会話に彼女が興味を示さないのも、仕方ないと言えば、仕方ないのだと思う。


 周りのひそひそと話す声に聞き耳を立ててしまうのは、わたしの昔からの癖みたいなものだった。

 意識しなくても耳に届いて脳に刻まれるそれらの情報に、やめろわたしのオガワに近付くなって思う反面、ちょっとだけ優越感みたいなものを覚えちゃったりして。

 嫌なやつだ、って自己嫌悪して、だけど恋人同士なんだから、それくらい、思ってたっていいよねって開き直る。


 ごろごろと落ち着く体勢を探すみたいに寝返りを打って、すると目と鼻の先には、さっき投げたオガワのセーターがあった。じっと見つめて、なんだか見つめ返されているような気持ちになる。

 

 ……匂いくらいなら、嗅いでもいいよ。


 さっきのオガワの言葉が、頭を過る。

 音が薄く伸びるように、頭の中を反響する。

 自分の中の邪な気持ちが、甘い言葉で誘惑してくる。身体の半分くらいは、もうそれに従ってしまっていた。

 冷静さなんか欠片も残ってない、火照った頭。その熱を排気するみたいに、熱く濡れた息を吐き出す。

 目の前にあるのはただの衣服でしかないってのに、心臓がどぐどぐと激しく脈打って、金属の軋むような耳障りな音が残る。

 いけない、と言い聞かせるように思っても、腕が意思に反して違う生き物のように勝手に動き出す。

 寝転んだまま、顔の近くまで引き寄せる。そして鼻先が触れるか触れないかといった距離で留めて、目を閉じる。

 そうして恐る恐る、鼻で息をした。


 やばい薬を吸いでもしたみたいに脳がぐらぐらして、暖かく粘ついた幸福が身体を満たす。目の端が引き攣って、お腹の奥がきゅってなる。鳥肌にも似たものが、身体中を駆け巡る。

 口で息を吐いてから、また鼻を通して空気を取り込む。

 こんなことまでしておきながら、頭の中じゃまだ罪悪感と衝動が葛藤している。いや、そう思っていたいだけで、実際のところ、きっともう罪悪感なんて心のどこにも残ってない。

 思考と行動が、きちんとリンクしていない。

 全く以て、大馬鹿者だ。

 狂いそうなくらい、いい匂いがする。

 いや、もう。

 とっくのとうに、わたしは、狂っちゃってる。


「もう。ばかたれか、わたしは……」


 詩的に耽っている場合じゃないでしょ。

 行動を振り返ってから呆れて、ベッドから起き上がる。床に足をつけると、またさっきと同じようにセーターをぽいっとベッドに放り投げた。

 こんなのを手元に置いておくからダメなんだ。こんなのって言うのもどうかと思うけど、これは、ダメだ。なんだもう、麻薬か。どんだけ好きなんだ。わたしは。

 くしゃっとベッドに張り付くようにして乱れた紺色のセーターを見ると、なんか、こう、扇情的な気がする。何を考えてんだろ? さっき自身の行動に呆れたばかりだってのに。

 はぁまったく、もういい加減にしないかリコちゃん。さっさと部屋着に着替えて、期末テストの勉強でもしたらどうだい。英語の範囲が結構広かったはずだ。

 ちらっ。

 別に特別苦手な教科なわけじゃないけど、何事も早く始めるのに越したことはないと思う。

 ちらちら。

 あぁでもそうだ、ノートも教科書も、何にも持って帰って来てないや。そしたら、勉強しようがない。それならあれだ、こないだ買ってそのままにしてる本、読もう。オガワはもう読み終わったって言ってたし、早くラストシーンの話をしたいとも言っていた。一晩で読めるかな。


「……」

 

 心の中で言い聞かせて、もはや若干閉じた口からちょっと心の声が漏れつつ。オガワの抜け殻(?)を横目に、シャツを脱いで部屋着に着替えようとして。一生懸命、冷静なふりをしてみる。

 そんな風に、どうにか意識の外に追いやろうとは、した。だけど、果てしなく愚かでばかでオガワ好き好き大好きなわたしに、そんな芸当、できるはずもなく。できないに決まってる。できるわけが無いんだ、そんなことはさ。

 もう、半分開き直ってるようなものだった。


 もうひとりのわたしが、制するなんて言葉を使ったら烏滸がましいくらいの強さで、優しく優しく、深みへ落ちていくわたしを差し止めようとする。そんなもの、本当に何の枷にもならない。ティッシュで作った紙縒を命綱に、バンジージャンプでもするような感じだ。

 吸い込まれるように、着替え終わらないまま。

 下着のままで、またベッドに倒れ込んだ。布団に染み付き鼻に馴染むような自分の匂いに交じって、オガワの匂いがする。あーあ、って思った。

 本当にわたしはばかでどうしようもないなって、第三者の視点で眺めているような心地だった。

 目を閉じると、闇に浮かぶ。

 うるさい扇風機の音しかしないはずなのに、周りには誰もいないはずなのに。わたしの名前を呼ぶ声がする。後ろからわたしを包むように抱き締めて、耳元で小さく「いい?」と問いかけてくる。

 家で、ひとりでするとき。

 その前には大抵、そのようなことを思い出す。ほとんど機械的に思考が働いて、右手が身体に伸びた。

 もう遠慮は、微塵も無かった。

 自己嫌悪と情欲がせめぎ合い、もう、めちゃくちゃだ。理性と衝動を計る天秤は、とっくに壊れて使い物にならなくなっている。


「ぅあ」


 お風呂上りもかくやというくらいに、火照った身体。

 太ももの内側とか、わき腹とか。自分の「いい」場所は、自分が一番よくわかってる。いつもオガワにしてもらう感触をなぞるように、指先で撫でるたび、湿った息と声が漏れる。

 自分でびっくりするくらい大きい声が出てしまって、はっとする。

 誰に見られているわけでもないのに、思わず口を手で覆い隠した。


「っ、ん」


 今度は、できるだけ声を抑えようと、ゆっくり、してみる。

 素肌に指を這わせると、じとっとした室内の暑さのせいか少し汗ばんでいた。弱い電流が身体中を走り抜けるようだった。甘い刺激で、オガワと重ねた肌の記憶が蘇る。

 あのときもこうやって、と脳裏に映像でも浮かぶみたいに、薄暗い部屋で見たオガワの顔を、声を、指の感触を、思い出す。身体の奥深くに刻まれた優しい傷跡が疼いて、熱いものが溢れてくる。

 背筋がびくびくして、脚が攣ったときのように震えだす。

 抑えた口が無理やり開こうとしてるみたいに、奥歯のさらに奥からあ、あ、と声が漏れた。肺いっぱいに空気を取り込むようにして、ぎゅっとセーターに押し当てた鼻で息をする。瞼が痙攣して、はぁ、と口から吐き出す長い息の音が煩かった。


「ぉ、オガワ、ぁ」


 今、すっごくいけないことしてる。

 勿論、頭ではわかってる。ごめん、ごめん、と頭のなかでオガワへと意味のない謝罪を繰り返す。ぎゅっと瞑った目から、涙が滲んだのがわかった。そういえばいつだったか、オガワにしてもらうときにも、何かを謝っていたような気がする。あれは、思うだけじゃなくて、ちゃんと口にしたんだっけ。どうだったかな。はっきり、思い出せないや。上手く頭が働かないし、そりゃ、こんなことしてれば、当然か。

 ああ、もう、どうでもいい、そんなこと。

 余計なことは何も、考えない。

 気持ちいい、オガワ。


「すき、すっ、き、」


 譫言みたいに、口から言葉が溢れる。ここにはいない彼女の名前を呼んで、愛を唱えて、ベッドが軋む。きっと材質の問題だろうが、オガワの部屋のよりもその音が喧しい気がした。


 去年の冬休み、初めて、オガワと、した。

 それから半年くらい経って、泊まる度に、とは言わないけど、それなりの頻度で回数を重ねてはいる。


 わたしが達しそうなとき。それを悟ると、オガワは必ずわたしに、自分の名前を呼ばせようとする。好きと言わせようとする。気持ちいいって言わせようとする。


 いつも、オガワに抱きしめられながら、わたしはそれに従ってしまう。

 ほとんど、無意識だった。最中は大抵、頭が真っ白になっていて、オガワの要求に応じて口が勝手に動いて。息とオガワの甘い声に混じって聞こえてくる自分の声を耳で拾い、そこで漸く何を言ったのかに気付くことが、ままあるくらいだった。


「きもち、い、よ」

 

 それが、癖になってしまってるんだと思う。一人でしていても、誰に求められてるわけでもないのに。喜悦を示す甘ったるい言葉が、意思に関係なく喉の奥から溢れて止まらない。

 そんな日は一生来ないだろうとは思うけど、もし、オガワじゃない相手と関係を持つことがあったとして。その相手と、行為に及ぶことがあったのなら。

 わたしは、オガワ、って言っちゃいそうな気がして、ならなかった。


「は、ぁ」


 荒い呼吸に、胸が上下する。

 涙の滲んだ虚ろな目は思うように開かず、夢うつつのように部屋の壁も天井も曖昧だった。高いところからゆっくり落下するような浮遊感があって、力が入らない。

 身体から右手の指を離し、生温かく濡れたそれが布団に触らないよう、肘を支えにして持ち上げる。その間にも、乱れた息が整うのを待つ。

 一通り終わってみると、まるで夢から醒めたように冷静になり。

 薄暗い部屋の中で、宙に掲げた右手を見る。


 ……指、拭かなきゃ。


 呟くように心の中で唱えてから、骨でも溶けたように気怠い身体を起こした。



 ばか。ばかすぎ。

 本当、ばかたれだ。

 終えてからすぐにお風呂に入り、髪も乾かさないままに脱衣所に籠っていた。体育座りして、ごうごう回る洗濯機を眺める。ついさきほどまで使っていたセーターが、丸い窓の中で激しく回転しているのが覗けた。

 いや、何が「使っていた」だよ。冷静に考えるんじゃないよ、そんなことをさ。自分で考えたことに対して自分でツッコミを入れながら、膝を抱きしめておでこを膝の骨に押し当てる。


 なにをしてんだ、わたしは。本当、最低、最低だ。わたしのぜんぶ最低だ。語彙の弱い罵倒が頭の中をぐるぐると洗濯機と同じように回っていて、なんか、もう、死にたくなった。膝に押し付けていたおでこを離して、今度は間に鼻を挟むようにして唇も押し当てた。さっきまで見えていなかった洗濯機の窓がまた視界に入る。


 正直なところ、本当に恥ずかしくて、気持ちの悪い話ではあるんだけど。

 オガワのことを想って一人でするのは、今日が初めてじゃない。


 いや。

 ぶっちゃけ、めっちゃしてる。

 なんなら、付き合う前からしてる。

 悪いか。このやろう。

 誰に対して怒ってるんだろう。

  

 お風呂場で溜め息を連発する生き物になっていたら、トイレから出てきたお母さんが訝し気に話しかけてきた。


「どうしたのリコ、洗濯機なんか回して。おもらし?」

「ちーがーうー」


 近寄ってくるお母さんのことを、腕をぶんぶんと振って追っ払う。もーなに、思春期ぃ? なんてぶつぶつ言いながら、リビングに戻る足音を聞いてまた、はあと溜め息を吐く。肌はお風呂あがりで火照っているはずなのに、かかる息が熱いことがはっきりとわかる。

 

 だって。

 今までした中で、一番、良くて。

 それが余計に、罪悪感を膨らませてくる。


「はぁあああああ」


 一段と大きい溜め息を吐いたあと。

 どうしてか、今からちょうど半年くらい前。冬休みが開けてすぐ、オガワが風邪を引いたあの寒い日のことを、思い出していた。

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