エピローグ

エピローグ

 カップに半分ほど残ったコーヒーは、もうすっかり冷めきっていた。

 読み始めた頃の胸騒ぎも落ち着いて、ちゃんと一作の小説として読むことができたと思う。

 そろそろ終わりだろうか、と思っていたら、一番後ろのページは白紙だった。


 夢から覚めるような、没頭していた空想から現実に引き戻されるような、そんな感覚。映画や本が終わった後に覚えるこの奇妙な感じが、私は好きだった。

 ……今読んでいたお話に関しては、普段読むようなそれに比べると没入度が段違いだったわけだけど。

 そうだな。アルバムを眺めているような感覚に近かったかも。


 ただ、なんだろう。

 当事者だからこそ感じる違和感、なのか、分からないけど。

 ちょっと、急ぎ足すぎじゃないだろうか。そもそも私たちが付き合い始めたのって、夏じゃなくて、年の末だ。

 たしかに事実だけが上手いこと組み合わさってはいるけれど、半年間の出来事がたった一か月に凝縮されていて、なんだか毎日ドラマチック過ぎる気がしないでもなかった。


「……まぁ、面白いから、いいのかな」


 いつもなら、読ませてもらったときはここが良かったとかここがわかりづらいかも、なんて、色々意見したりするのだけど。

 さすがにこの作品についてあれこれ指摘するのには、ちょっと抵抗がある。

 ので、言い聞かせるように納得して。


 ソファの背もたれに体重を預けて、白い天井を見上げる。

 ふうと息を吐き、こめかみに感じる熱に似た痛みがどこか心地よかった。

 全く意識を向けていなかった液晶テレビからは、来週放送する映画の番宣が流れていた。子供の頃に観たような気がする、アニメ映画の予告映像だった。

 そして。


「なるほどね」


 何がなるほどなんだろう。

 呟いてから疑問に感じて、滑稽だった。

 視線を、手元の紙の束に戻す。およそ百枚と若干の枚数があり、そこには同居人の書いた小説の下書きが印刷されている。

 もとより読書は好きだから、こうして発売前の原稿を先に読めるのは喜ばしいことだ。優越感みたいなものさえ感じる。

 それを今、最後まで読み終わったところだった。

 これを書いた本人はというと、隣ですうすうと細い寝息をたてて眠っていた。私の肩に寄りかかり、その頼りない重さが愛らしい。私の左肘を彼女の長い髪が擽っていて、意識するとこそばゆい。それを指先で摘み、梳いてみる。


「……かわいいなぁ」


 昔から、彼女と一緒に居る時は、大体、そんなことばかり考えている。抱く感想をそのまま口に出しても、眠りの深い彼女にはきっと届かない。

 朝方、私の腕の中で健やかに寝息を立てる彼女に向かって、よくすることだった。


 面と向かっては、あまりに言いづらいから。対照的に彼女は何でもないタイミングで簡単に言葉にしてしまうのだけど、恥ずかしくないのかなと常々疑問に思う。


 ついさっきまで頭に思い浮かべていた高校時代の姿と比べて、この子はなんかこう、全然変わらないよなぁ、と和む。

 肌も髪も身体も綺麗なままで、月並みの表現だけど、歳より若く見える気がする。


 彼女が自分で自分の容姿についてどう思ってるかは、知らないけど。それに私も私で、彼女に心酔しきっているのを自覚している。どんだけ好きなんだろうと、自分で自分に呆れそうになる。

 あぁ、でも。ほんの少しだけ、大人っぽくなったかもしれない。


「ほんと、物好き」


 時折息の漏れる唇、僅かに揺れる身体。人並外れて整った、その端正な寝顔。

 舐めるようにまじまじ眺めてみると、痛感する。


 こんなに可愛いのに、私なんかのことを好きでいてくれて。

 それが、十年も続いてるなんて。

 いくつになっても、夢みたいなことだと思う。

 この先ずっと、思い続けるんだとも思う。


 彼女と出会ったばかりの私にこのことを教えたなら、どんな反応をするだろう。きっと嘘だ嘘だと認めないながら、心のどこかで深く意識してしまって、上手く話せなくなったりするんだろうな。自分のことだ、容易に想像できる。

 そうして、過去の私に思いを馳せてから。

 なんとなく一番最初のページに遡って、書き出しに目を落としてみる。

 閉じた口で丁寧に噛み締めるように、頭の中で呟く。


『これを読むのは、未来の私くらいしかいないのだと思う』

『そうじゃなかったら問題だ』

『日記ってそういうものだろう』


 この文書そのものは自分で書いたものではないのに、たしかにそんなことを書いたっけと思い出す。ふ、と思わず笑みが漏れる。

 読まれてるんだもん、しっかりと。

 

 

 遡ること、今から十年くらい前のこと。

 私、小川夏愛オガワ ナツメが、まだ十六歳の頃だ。

 当時の私には、人には言えない恥ずかしい趣味があった。


 今思えば、若気の至りと言うか、ちょっとした気の迷いと言うか、他人から見ればあらあらカワイイわねなんて軽く思えるようなことかもしれないんだけど、当事者からすると冷静になったらまずしないような気持ちの悪いことと言うか。自分ではそう、よく分かっている、というか、わかってた。その当時だって自覚してた。でもやっぱり逸る気持ちっていうか、情動? みたいなのを抑えるのに、他の方法が思いつかなくて。まぁそうやっていくら自分を責めたり如何に良くないことと自覚しているのを示したところで、その事実が消え去ったり許されることに変わるわけでは無いのだけど。


 まぁ言ってしまうと、日記をつけていたのだ。

 高校一年生の夏から、卒業する頃まで。

 で、それの何がそんなに問題なんですかと問われれば。いやもう、正直恥ずかしくて思い出すのもアレというか、なんなら自分でも若干忘れていたくらいなんだけど。例えば普通に、その日の天気だとか、何を食べたとか。そんな無難なことばかり書いていたなら、きっと「人には言えない」なんて言葉は使わないだろう。


 本当、恥ずかしいことだと思う。

 その日記には、当時、好きだった人のことしか書いていないのだ。

 しかも、勝手な妄想だとか思い込みだとかが多分に含まれた、気持ちの悪いやつ。

 後になって読み返したことなんか一度も無いのに、絶対に気持ち悪いという確信がある。


 そして、それを書いていた頃、つまり高校時代から十年ほど経ち、現在。

 ある、金曜の夜のことだった。

 仕事が終わってから家に着き、上司の愚痴なんかを溢しつつ、同居人と夕食をとっていたときだった。ちなみに、献立はスパゲッティだった。この間粉チーズを使い切ったのを失念していて、何か物足りないよねと思いながら麺を噛んでいると。


「ねぇ、ナツメさん」


 他人からはあまり呼ばれない、下の名前。しかも、さん付け。今ではすっかり耳に馴染んだけど、呼ばれ始めた頃はなんだか気恥ずかしくて返事にどもった記憶がある。そのくせ向こうは「こっちの方がしっくりくるの」なんて言って易々と口にするから、余計にだ。

 一方私はというと、出会った頃から今までずっと変わらず名字で呼んでいる。

 そういえばいつだったか、私も下の名前で呼ぶべきだろうかと考えたことがあったっけ。大学生の頃だったかな。

 話が逸れた。


「なに?」


 短く返事をしてからフォークを置いて、コップの水に口をつける。これが軽率だった。そこまで重大なことを聞かされるとは、考えていなかったんだ。間違いだった。もっと身構えるべきだったのだ。

 同居人が少しの含みを持ち、穏やかに口角を上げて。

 え、なに、と思えば。

 何でもないことのように、息でもするみたいに、その言葉は放たれた。

 ほとんど消滅しかけていた記憶を、掘り返される。


「……高校生のときさ、日記なんか書いてたんだね」

「げほ」


 聞いて、飲んでいた水を盛大に噴き出した。

 着ていたシャツの胸元がびしょびしょになって、けらけら笑われた。


「な、いや、えっ、まっ」

「あはは、もう、そんな驚くかなぁ。落ち着いてよ」

「いや、だって、そんな」


 困惑と驚きで思考がまとまらず、意味のない感嘆符ばかりがみっともなく舌を滑っていく。

 脳内を「なぜ」と「どうして」だけが埋め尽くした。

 ほら拭いて、と寄越されたタオルで口元や諸々、濡れた箇所を雑に撫でる。心臓がばくばくと激しく暴れていた。待ってくれ、と頭の中で誰に対してなのか分からないストップをかけてから思案する。高校生、日記。その二つのワードだけで、消えかかっていた記憶が波浪のように一気に押し寄せる。二人で行った本屋さんで日記帳を見つけて思い立ち、ノートにペンを走らせた夜のこと。前の席の女の子が可愛いとか、今日は彼女とこんな話をしましたとか、それについて都合のいい解釈を綴ったりとか、だんだん見えてくるお互いの想いを認められなかったこととか、そうして思い悩んだ苦痛をぶつけたこととか、あぁ、幼馴染殺してやる呪ってやるとか書いた記憶もある。あとあれとか、これとか、とか。とか。


 日記に綴ったあれこれが否応なしに頭に浮かんで、あれも読まれたの、これも読まれたの、えぇ、読まれてしまったの。しかも、彼女に。一番読まれたらいけない相手なのに。受け入れ難い現実と向き合って、いやいやいやいやいやいや、待って待って、となる。

 彼女の言う通り、一旦、落ち着こう。そうだ、内容を読まれたとは限らないじゃないか。日記を書いていたこと自体は、あの忌まわしいノートの表紙だけを見ても判別がつくことだ。丁寧に日付まで書いておいたはずだから。そうだ、そうだよ。そうに決まってる。


 でも一応、確認はしないとね。

 同居人の顔を直視できないまま、頭を抱えそうになるのを抑えて俯き、口を開く。自分でもびっくりするくらい、声が震えていた。


「…………よ……読ん、だ……?」

「うん」


 ダメだった。

 至って冷静に答えられてしまった。

 どうやら、読まれてしまったらしい。

 あの、恥ずかしくて気持ちの悪い日記を。

 それも、当時好きだった、その本人に。


 恥ずかしくて顔が赤くなる、なんて騒ぎじゃなかった。吐きそう。死にそう。ていうか、死にたい。過去の自分への遺恨と彼女への申し訳なさで、身体が潰れそうだった。いっそ潰れてしまえばいい。今すぐベッドに飛び込んで、あぁもうああぁあ、と叫びたい。彼女も、言えばこういう反応をされるだろうと予想していたのか、未だあははと笑っている。


 あぁもう、カワイイ。じゃなくて。笑うなよ。恋人が今にも死にそうになってんだぞ。

 こんなことになるなら、焼却処分でもすればよかった。どうして引っ越しで荷物の整理をしてたときの私は『うーん、捨てるのもなぁ』なんて考えてしまったんだろう。何よりそもそもは高校生の私だ。あんなもんを書き残すなよ。バカか。バカ。


「バカ……バカぁ、もう……」


 思わず、そんな子供みたいな罵倒が口を突いて出た。


「ほんと、きもい彼女で、ごめん……」


 次に出たのは謝罪だった。いくら恋人同士になったとはいえど、当時してた推察や憶測が勘違いや妄想じゃなかったとわかっていても。気持ち悪いことには、変わりない。


「いやいや、愛されてるなぁ~って、なんか、嬉しくなっちゃったよ」


 あんな歪んだ情愛で喜ばないでほしかった。


「でさ。書いたんだよね、わたしも」

「……え、何を? 日記を?」

「日記っていうか、まぁ、日記なんだけどね。『オガワの』日記をさ」

「…………はい?」


 意味がわからない。


「ちょっと、待っててね」


 中空にクエスチョンマークを浮かべている私を他所に、椅子から立ち上がってととっと部屋を出ていく。程なくして戻ってきた彼女の手には、そこそこ厚さのあるA4サイズの紙の束が携えられていた。

 それを見てすぐ、あぁ、新しいお話ができたのか。と悟る。小説家である彼女は、よくこうして完成前の原稿を私に読ませてくれるのだ。


「ちょうどさ、煮詰まってたときだったんだ。見つけたのが」


 でも、どうして今。


「これ書くために、わざわざモミジに話聞いたりもしたんだよ。ナツメさんの書いたモミジ、悪人過ぎて全く参考にならないんだもん」


 このタイミングで、それを。


「色々さ、思い出すよねぇ。懐かしくて、ついついたくさん書きたくなっちゃうんだ」


 全部悟っているのに、認めたくなくて。


「洗い物はやっとくからさ。あ、コーヒーも淹れたげる」


 半ば押し付けられるように、紙の束を手渡される。


「とりあえず、読んでみてよ。いつもみたいに」


 ほらほらはやくはやく、と背中を押されて、ソファまで連行される。

 そうして、渋々、読み始める。


 一ページ目の一行目からもう耐え切れずに、思わず「意地悪か!」と叫んでしまった。


「あははは」

「笑うなよ!」


 無邪気に笑うオオタキと対照的に、今にも泣きそうだったけど。

 でも頑張って、読み進めることにした。

 というか、どんな顔でオオタキはこれを書いたんだろう。

 自画自賛じゃないか、ほとんど。



 それは、二人の女の子の恋のお話だった。

 ほんの些細なことで喜んだり、嬉しくなったり、恥ずかしくなったり。

 想うが故に悩んだり、悲しくなったり、戸惑ったり、傷ついたり。

 瑞々しい筆致で日々を記していて、読み進めれば色濃く刻まれた記憶をより鮮明にさせた。

 ちょっとだけ変で、だけど痛いほどに真っすぐな想いを綴っていて。

 偽りも飾りも無い、素直な気持ちを書き、描いていて。

 まるで優しい空想の物語のようでもあり。

 温かい海に溶けていくような夢心地に浸っていれば、そういえば、こんなこともあったね、と頬の綻ぶような思い当たる節もあって。

 まさに文字通り、自己投影。

 こんなに夢中で何かを読み耽ったのは、随分と久しぶりのことだった。


 これは、私と、君と。

 今、この瞬間まで続いている、そんな恋のお話だった。





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