7/14 夏を愛でる君の話
昨晩、どうしてか必要以上に身体やら髪やらを洗ってしまった。部屋も隅から隅まで、まさに塵一つ残さずといった具合までに掃除して。さぁ万全、もうどっからでもかかってこいオオタキ。お前の全部を受け止めてやる、と迎えた、今日。
目が覚めて身なりを整えてから、何故か正座してオオタキを待った。
ベッドの前、部屋の真ん中で。
体が裂けるのではと言うくらいに心臓が激しく脈打って、大変だった。いっそ来ないでくれればいいのに、いやそれはダメか、とどっちつかずな感じだった。いやいや大丈夫、だって、もう先はどうなるか分かってるようなもんだし。何をそんなに緊張する必要があるのか。不安要素なんかどこにもない。昨日のオオタキとの電話を思い出せよ、あんなに明るい声色で、返してくれたじゃないか。ていうかもはや、あれ告白みたいなものじゃなかったか。……あぁ待ってなんかそれも今になって恥ずかしくなってきた。なんであんなに気取った台詞を遠慮なく吐き出せたんだろう。キモイよオガワ。いやそれはもとからか。うん。納得してどうするんだ。今日くらいは可愛くあれよ、告白して、される予定なんだぞ。しかしでも万が一、そうじゃなかったら、いや、無いとは思うけど、でも、オオタキは話があるとしか、言ってないし。だって、私なんかを好きになるとか、変じゃん。変だもん。変だよ。あぁ胃が痛い。痛い痛い痛い。待って待って、何も言えないかもしれない。オオタキと顔を合わせて、上手く喋る自信がない。そもそもいつも上手く喋れてたかどうかすら危うい。そんなこと今気にしてどうするの、と自分で自分に聞きたくなる。でも考えてしまうのだから仕方がなかった。
そんな風に、明らかに不要なことばかり考えながら部屋で正座していると「ナツ、リコちゃん来たけど……なんであんた、正座なんかしてんの?」と部屋に入ってきた母親に言われた。いつも思うのだけど、ノックしてほしい。
「じゃ、ごゆっくり」
「は、はい」
廊下から二人のやり取りが聞こえた後、オオタキがゆっくり壁から姿を出す。まずは中にいる私の様子を確認でもするみたいに顔だけ見せて、重力に従って床に向く長い髪が映える。
今日のオオタキは、白いパーカーを着ていた。外が暑かったんだろう、前を開けて袖をまくっている。
中にはレースの黒いトップスを着ていて、僅かに透ける首元が色っぽい。
外は暑かっただろうし、わざわざパーカーなんて着てくることないんじゃないだろうか。まぁでも似合ってるしカワイイからいっか、と納得する。
ネイビーの膝下まであるチュールスカートをふわふわ揺らして、おずおず、と擬音が見えるような歩き方で部屋に入ってくる。
指先で摘むみたいにして、いつもの白い帽子を持っていた。
「……お、おじゃまし、ましゅ、す」
明らかに暑さのせいじゃない汗を飛ばしながら、少し下向きに視線を泳がせて言う。腕が細いからかまくった袖がもとに戻ってしまうようで、それを何度も直してる。
やっぱり今日も、最高にかわいい。
いつまでも部屋に入らないで廊下で突っ立っているものだから「あの、とりあえず、座ったら?」と促した。ちなみに、いつもならベッドにダイブしてくる。ほんと、必ずやる。どんなに綺麗に敷いてても、問答無用で飛び込んでくる。
「……」
「…………」
しかし、今日はなぜかお互い正座で無言で向き合う形となった。勉強もしないしあの座卓はは片付けてしまったから、私たちの間には何もない。静謐な空気に安定感は無くて、滲むような緊張に身体が重くなる。
オオタキが来て戸を閉めた瞬間に部屋がいい匂いで満たされたような気がして、いや、変態みたいだな。実際、変態だったわ。時々、足を動かすのが気になった。そんな風に目の前の美少女の動向を観察して一日過ごすのも、私としては構わないのだけど。
「…………話あるんじゃ、なかったっけ」
私からそう切り出さないと、日が暮れてしまいそうだった。
そ、そうだね、そうだったね、などと言いながらわちゃわちゃと手を動かすが、何を言いたかったのかは伝わってこない。広義ではもう理解しているようなものだけれど、多分、彼女が話したいことは、それだけじゃないから。
「……じ、じゃあ、あ、あの……アサハラに聞いた、ってのは、どこまで……」
それかよ。ひねり出した言葉に、笑いそうになる。
絶対、メールした当初は違うこと話すつもりだったでしょ。
それでも、答えない理由はない。
「多分、全部」
「そ……そっか……ぜんぶ、か……」
聞くと下唇を噛むみたいな顔になり、目がぐるぐるしてるのが逸らしててもよく分かる。
一緒に頭の中も回ってるんじゃないかな。私も、一緒だ。
「じゃ、あの、えっと、なんか、話すこと、ないかな、そしたら」
すると、もう言葉が出てこないみたいだった。
頭の中が真っ白なんだろうな、と手に取るように分かる。なので。
「オオタキ」
「ふぁい」
「オオタキの言葉で、聞きたいよ」
導いてあげることにした。
「……ひ、引かない?」
「引かない」
「…………嫌いに、ならない?」
「なるわけない」
段でも設けるように前置きしてくる。それを乗り越えるみたいに、強い口調で言い切る。
数秒の沈黙を挟んでから、オオタキが少しだけ視線を私に向ける。顔は動かさないまま、上目遣いで私の表情を窺うように、こっそり盗み見ているみたいだった。かわいい。
「……に、入学してすぐに、商店街で、助けてくれたこと……覚えてる?」
「え、あったっけ、そんなこと」
全く、身に覚えがなかった。
「やっぱ、覚えてないよね。そっちのほうが、いいんだけど、えと……そんとき、わたしね、ちょっと、ぼーっとしてて。それで車が来てるの、気付かなくて……手、引っ張ってくれたんだ、オガワが。ほら、あの見通し悪い、交差点」
あっち、と示すようにオオタキが人差し指で部屋の壁を差した。あぁ、あそこか。とすぐに理解して、指で示すなら正確には私の背中側だ、と不要なことを思ったりした。
ただ、その場所のことはわかっても。オオタキを助けた、という覚えがいまいち、無かった。
「ごめん、ほんとに思い出せないや」
「そんときは、髪も染めてないし、ていうか、ちゃんと喋れてないし……むしろ、覚えてたら、はずいから、いい」
記憶してなかったことを恥じて申し訳なくなったけど、いいらしい。
もう私に顔を見られていることに耐えられなくなってしまったのか、背中に垂れていたフードを目深に被り、下を向いてしまう。
なんとなく、その姿に見覚えがあるような気がして。
「あっ」
高校に入学して、すぐ。
商店街の入り口前、信号のない交差点。何回かそこで事故が起きたのを、小さい頃から目にしてた。だから、校門からずっとふらふらと前を歩いていた子が気になっていて。そこで危ない、と声をかける前に、知らない女の子の手を引いたことがあった。
白いパーカーを着た、無口で、髪の長い女の子。短くお礼をして、全く関係ない方向へ走っていってしまった女の子の後ろ姿を、思い出した。
「…………あれ、オオタキだったの?」
「……」
頷きもせず、でも、違うとも言わず。触れて欲しくない理由を察しているのだから、それ以上言及する必要はなかった。
「……それで……そのときはじめて気になって、それから、ずっと」
こく、と唾液を飲み込む音。続いて、はぁあ、と長めに息を吐く。
「……ずっと、オガワばっか、目で、追っちゃって……それで、あの、仲良くっ、なりたくって、……い、色々、アサハラたちに、聞いてね、……わたし、すっごい根暗だった、から……だった、ってのも、ちょっと、今は違うみたいだけど……じゃなくて、あのね、オガワの、前では……明るく、なりなりたくって……喋り方とか、色々、ね、変えようって、ちょっとだけ、頑張って、か。髪とか、染めて、……化粧とか、服とか……あ、あの、きもいよね、ほんと、……ごめんね……で、すごい、その。ね、今も、オガワが、のことが、……す、好き、……なのかな……たぶん、そうだと、思うんだ、けど……どうしたいとか、は、よく、わかんなくて、…………ただ、好き、って、ずっと言いたかった、の」
三点リーダーと句読点をフル活用して、オオタキの告白を文字で再現した。
思い返すだけでも身体中の血が沸騰するくらい恥ずかしいのに、そこからさらに一文字一文字噛み締めて綴らなきゃいけないなんて。頭から蒸気でも出てるんじゃないだろうか、今。
「あぁぁあ……やだ、ほんとやだ、もう、何言ってんだろ…………死にたい、うぁああ」
恐らく、これで言いたいことは全てだったんだろう。オオタキのフードを掴んでいた指に力が入って、伏せていた顔をもっと俯かせて、激しく足をバタつかせる。どんどん丸くなるオオタキ。心の焦りを、これでもかと言うほど示している。あなたね、もしも膝丈じゃなかったらパンツ見えちゃってるからね。
「……こ、こんどは、オガワのばん」
「え?」
「話すって、昨日、言った」
「あー、……まぁ、うん、そだね」
こんな流れになったとき、何を言うかを前以て考えておいたとは言っても。
いざときが来れば当然、羞恥が膨れて言葉に詰まる。別に痒くもない頭を手で擦って、オオタキから少しだけ目を逸らす。逸らして、言われたことを反芻する。
私のことが、好きで。
でも、どうしたいとかはわかんない、と言われてしまって。
心の中で、苦笑いする。
私はてっきり、オオタキの方から手を差し出してくれると思っていたから。
情けないことではあるけど、私の受動的な性質が二日や三日で変わるはず、なかった。
まだ何も言ってないのに、これから言わなきゃいけないこと、それを発してからこの部屋がどういう空気になるのかを想像して、胸が早鐘を打つ。
邪魔する鼓動を押し退けて、言え、言えよ、言うんだ、と自分を鼓舞する。そうでもしなきゃこんなセリフ、くすぐったくて日が暮れても言えやしない。
「オオタキさん」
「は、はい」
「ぎゅって、していいですか」
「へ」
「いいよね」
答えも待たずに開き直って、膝を擦ってオオタキに近づく。フードを掴んで丸くなったオオタキを覆うように、肩から背中へ腕を回した。電気でも流されたみたいにオオタキの肩がびく、と跳ねて、それを抑え込むように身体を押し当てる。薄くって、柔らかい。
それから、いい匂いがする。
「……嫌だったら、言ってね」
「だ、だい、じょぶ、です」
「なんで敬語なのさ」
落ち着いているフリをしながら短く笑って、オオタキの口調を真似してみる。
白い布地の上から手で背を撫でれば、肉付きの薄さを強調するように肩甲骨が指に引っ掛かる。
固いはずの骨も、ぬるま湯でふやけたみたいに柔らかく濡れているように感じる。
指先から伝わる体温が、そうして悟るオオタキの焦燥が、私に伝染して頬に違和感を覚えた。顎の関節が痛くって、言いたいこともスッと出てきてくれそうにない。
簡単に壊れてしまいそうな頼りなさも、脆さも、危うさも。
こうしてくっついていると、彼女の全部が、愛しくなった。そんな気持ちが、器からどんどん溢れていく。
頭で思うより早く、身体の各部位が彼女に反応して熱を持つ。
そうやってただ火照っていても、前進はできない。
心の準備は、もう、できている。
「ごめんね、オオタキ」
白いフードに顔をくっつけて、そう呟く。
まず初めに言うのはこれだと、昨晩から決めていた。
「本当は、気付いてたの。オオタキが、私を好きだってこと」
脳裏に二人で過ごした景色が、フラッシュバックする。そこかしこに見え隠れしていた、オオタキからの想い。察してほしいって他動的な態度も、内気な彼女ならば、そうなってしまうのも仕方なかった。沢山のことを見て見ぬふりして、無下に突っぱねて、恍けて、洒落のめして。そうやっていくら後悔したって、意味はない。
「本当に、ごめん」
二回目の謝罪。
オオタキから、声は無い。
怒っているとかでは、無いと思うんだけど。思いながら、続ける。
「……私、こんなだから……や、オオタキが、かな。……オオタキ、すごい可愛いから」
「っそ、んなこと、ない」
「ううん。そんなことあるって」
面と向かって、こんなことを言ったのは初めてかもしれない。
いつ何時だって、オオタキと一緒に居ればそんなことばかり考えてた。
それを伝えてしまったら、内に留めず吐き出せば、後戻りは出来ないような気がして。
ずっと言えなかったそれを、線をなぞるみたいにひとつひとつ、丁寧に口にする。
「オオタキの、声が好き」
いちばん初めに話しかけてくれたのを想起して。
まずオオタキに対して抱いた感情は、それだった。
「柔らかくって、聞いてて心地よくって。お昼誘ってくれたときから、ずっと。歌も、上手だよね。カラオケ、また一緒に行きたい。あとはね、笑った顔も好き。ちょっとだけ情けない目尻が、すごく可愛い。長い髪も綺麗だよ。さらさらで、ほら、泊まりに来てくれたとき。乾かしてあげたでしょ? ずっと触ってたいって、思ってた。気持ち悪いね。でも、それくらい好きなんだ。私服も好きだな。毎回、写真撮っておきたいって思うくらい。浴衣も、すっごく似合ってたよ。本当はもっと褒めたかったんだけどさ、恥ずかしくて、言えなかったんだ。浴衣着てる子、いっぱいいたけど、オオタキがいちばん可愛かったよ。それからね、ちょっとだけ抜けてるとこも好きだよ。なんかね、守ってあげたいなって気持ちになるんだ。だから頼ってもらえたりすると嬉しいし、泣き顔が好きだなんて言ったら、意地悪に思われちゃうかもしれないけど、」
「も、もう、いいよ、いいから」
腕の中で、ずっと黙っていたオオタキがくぐもった声で言う。
「どうして?」
「はずい、から、うう」
可愛いが過ぎる。私を殺す気か。
顔は見えないけれど、きっと耳まで真っ赤になっているんだろうな。想像するだけで、頬が緩んで胸が熱いもので満たされる。
まだ半分も伝えられた気はしないけど、やめてと言われたら続ける気もなくなって。
これから二人で過ごす中で、ゆっくり伝えていければいいな、と考える。
そのためには、もう少し、言わなきゃならないことがあった。
「……まぁ、だから、ね。オオタキの隣にいるのは、私じゃあ、ダメなんだよ」
「…………え」
「釣り合わないの、私なんかじゃ。だってこんなに可愛くって、優しい子なんだよ。きっと、私よりも良い相手がいるはずなんだ。それに、女同士なんて、普通じゃないよ。おかしいよね。変なのは私だけで、オオタキにそれを押し付ける訳には、いかないから」
言い切ると、ずっと撫でていたオオタキの肩の震え方が変わるのがわかった。
そりゃそうだ。ごめんなさいのサインと取られてしまっても無理はないことを言っている自覚はあった。
ずっと、悩んでいた。こんなこと、言う必要は無いかなって。もう好き合っていることの確認は十分できているのだから、それでいいんじゃないかなって、及び腰になっていた。
そういうわけにも、いかないんだよ。
「……私はさ、そうやって言い訳して、逃げてたんだ。オオタキからも、自分の気持ちからも」
これは、決別だ。
臆病で弱虫で卑屈で狡悪な、どうしようもないバカ者だった、私との。
「もう、やめる」
重ねた前置きを、取っ払う。
「私、バカだから。オオタキが、オオタキがってのは、もう、おしまいにするよ」
古びた皮を脱ぎ去るような錯覚をする。
「たくさん、後悔させちゃうかもしれない」
何が正解かなんてことは、分からない。
「泣かせることだって、きっとある」
ともすれば、人と人との関わりに、正解なんてものは無いのかもしれない。
「だから、今から言うのは全部、私のわがまま」
自分がしたいことと相手の求めること、合致するなら。
「……もう、逃げないから」
確かなものが、私たちの中にあれば、それでいいじゃないか。
「見ないふりも、しないから」
何度も遠回りを繰り返した。
「これからは、私が、私のためだけに、オオタキと一緒に居たいんだ」
ほんの少しでも選択肢を違えていたなら、このお話は存在すらしなかったかもしれない。
「……オオタキ、私は、」
大きく息を吸って。
背に回した手に、力を入れて。
さぁ、言うぞ。
言うんだ。
言え。
「私は、オオタキのことが、誰より、何より、大好きだよ」
小さい頃、少女漫画か何かで見た気がする。
主人公の女の子が勇気を出して、意中の相手に想いを伝えるシーン。それと今の私を重ねるのは、聊か恥ずかしいような気もするけど。背景が妙にきらきらしていて、二人そろって時間が止まったみたいな表情をしていて。
色恋沙汰に無縁な私は、それを何か違う世界で起きていることのように思ってた。セリフの言葉の意味は理解できても、それだけだった。
素直に好きと口にする、それだけで視界の明度が何段階か上がったような心地があって。
あぁ。こういうことなんだなって。漠然と、考えたりした。
「さっき。どうしたいかわかんないって、言ったよね。私に、決めさせてくれる?」
問うと、蚊の鳴くような声で、弱々しく「うん」と聞こえてくる。
「……私ね、オオタキと、付き合いたいな。今度はフリじゃなくて、ちゃんとね」
昨晩。寝る前、たくさん考えた。
このままオオタキと友達同士でいることだって、できなくはない。今までを振り返って、これからを思う。目に見える違いはきっと、そこまで無い。
昼休みは一緒に過ごして、放課後は一緒に帰って、たまに休みの日に会ったりして。結局、やることはきっと、友達のままでもそんなに変わらない。
周囲からの視線とか言葉を気にかけるなら、絶対に、そっちの方がよかった。
前述した通り、このお誘いをする上で、オオタキの気持ちは二の次だ。
あくまで、私が、そうしたいから。
二人の関係が特別な物だって、実感できる確かな証が欲しいから。
「……もう」
腕の中でオオタキの身体が僅かに動く。それでも、手はフードを掴んだままだ。むしろさっきより深く被ってる。相当、顔を見られたくないんだろう。この前抱き合った時のように、身体をぴた、と寄せてくる。
「遅いんだよ、ばか」
笑みを混ぜたような、湿った声だった。
それは、いいよ、ってことだろうか。推察するのに少し時間を要して、自分が言ったことも振り返って。分かり切ってる答えを確認して、それでも高鳴る胸のリズムは際限なく激しさを増して。勇気を出せて良かったという安堵と、本当に現実なのかなって疑念が混ざって心境がややこしい。
そんなことを経て、私とオオタキは、今日。
めでたく、恋人同士となった。
夢だろうか?
「こないだのキス、本当は、めっちゃしたかった」
オオタキを抱きしめたまま、口にする。
「い、言わないでよ、恥ずかしいから」
「オオタキは?」
「そりゃ、誘ったのわたしだし……」
「じゃあ」とオオタキの細い両手首を掴む。手で触れて、やっぱり細いなと再確認する。
可愛い顔が見えるように、それを覆い隠していたフードを捲る。
長い髪がふわ、と舞う。いい匂いが粒子みたいに、髪と髪の隙間から漏れ出るようだ。
嗅覚のつぎは、視覚でオオタキを感じる。頬も目も、真っ赤だった。
汗か涙でかわからないけど、前髪がぺたっとしておでこに張り付いている。
突然のことで理解が遅れたのか、少し遅れてハッとする。身をよじって、私から顔を逸らそうとする。その前に、手首を掴んでない方の手でオオタキの後頭部を捕まえてやる。
さら、と綺麗な長髪が指先に絡む。流れる水みたいに、手から滑り落ちていく。
「ちょ、やだ、見ないで、やだよ」
「かわいいよ」
「うぅう」
後ろに仰け反ろうとするオオタキ。涙が滲んで充血した目は、私の顔を捉えてはいない。斜めに逸らした視線。小さな口が、弱々しく拒否を譫言みたいに呟いていた。
一生懸命、抵抗している。でも、手も頭も押さえられて身動きなんか取れるわけない。
そもそも、力は私の方が強い。
自由を奪ったまま一歩、オオタキに歩み寄る。
正座が崩れて、足の間に腰を落とした座り方になった。鳶座って言ったか、たしか。
「迫ったのは、そっちじゃん」
「ねぇ、ま、まって、いや、まってまって、まってってば、心の、じゅんびが」
その両脚の間に右ひざを突っ込み、背を反らせるオオタキを無視して、近づく。口ではやだとかまってとか言うけれど、もう抵抗しても意味はないと悟ったのか。目を閉じて、ほんの少しぷるぷる震えている。
随分、衝動的だったと思う。もっとムードとか、溜めとかが必要だったような気もする。でも、今までずっと我慢していたんだから、こういうこたをしたってなんの問題ない関係になれたのだから。
真っ赤になって目を伏せるオオタキを見つめながら、理由を考えてどこかで躊躇っている理性を、ゆっくりと殺していく。
この前と、逆だ。
思いながら、ゆっくり。抱き合うよりも強く、深く密着する。
柔らかいものが、唇に触れる。
目はつぶっていたから、オオタキの表情は分からなかった。もう一個目が欲しくなった。
私のことだから昂っちゃって我を失うまであるなぁとか考えていたけど、そんなこともなかった。してみると、案外、冷静だった。
冷静な奴は、第三の目が欲しいとか真面目に考えたりしないかもしれない。
顏を離して目を開けると、私は今、オオタキと「した」んだなって強く実感する。
恥ずかしがって顔を俯かせるオオタキを眺めていると、身体の中心から四肢に向かって熱いものがこみ上げてくる。息苦しい。心臓がうるさい。喉の真下で何かが暴れている。
やばい、やばい、って言語化できない気持ちでいっぱいになる。こんな短時間で顔なんか変わるはずないのに、さっきの何十倍もオオタキが愛らしく見える。してる最中よりも、した後の方が忙しい。中学で長距離走を走ったあと、似たような感じだったっけと思ったりした。
「もっと、優しく、できないの、ばか、ばか」
目を合わせないまま、口を手の甲で押さえながら言う。荒れた息が漏れて、頬がさっきの三倍くらい赤くなっているような気がする。潤んだ目が、四方八方にきろきろ動いてる。乱れた髪がえろい。絡まった指と指が溶けるように感覚が曖昧になる。何か言いたいのに、頭も口も何もかも、滅茶苦茶に乱れて壊されてる。
こうして見てみるともう、彼女の全身。
かわいい以外、ない。
こんな子の恋人が、私って。本当に、いいんだろうか。
その答えはこれから二人で見つけていけばいいよな、と思考を打ち切った。
私たちの関係に名前がついたと言っても、たった数分で何かが劇的に変わるということは当然、無い。というより、周囲から散々言われたようにこうして休日に会ったり放課後に遊んだりと、カップルらしいと言えばらしいこともしていたから。
「今夜、泊まっていってもいい?」
「ん、いいよ」
告白に伴うほとぼりが冷めてみれば、存外、いつも通りだった。
穏やかで、安らぐ時間を過ごすことができた。
二人並んでベッドに腰を掛けて、本のページを捲る。
ただいつもよりもほんの少しだけ距離が近くて、聞こえる声やちょっとした身動ぎの一つ一つが、より一層深く脳に刻まれるようで。傷にも似たそこから、血液みたいに温かいものが沁みるように溢れる。
緩やかに全身に行き渡って、いつしか言葉に変わり、漏れ出ていく。
「……大好き、オオタキ」
「うん。わたしも」
包み隠さず外へと吐き出せば、優しくオオタキも想いを返してくれる。なんだか未体験のことで浮かれている初心なバカップルみたいで、いや事実そうでもあるのだろうけど、こうして日記に綴って自分を客観視すると、言いようのない気恥ずかしさに苛まれる。
「ふふ」
手を握って、互いの瞳を見つめ合う。愛い笑みを向けてきて、それが、あぁ、もう。
本当に、あり得ないくらいに可愛くって。人間と天使が何かの手違いで結婚したら、多分こういう子が生まれるのだと思う。そういう、ちょっと人類のそれとは一線を画する魅力を内在している。かわいすぎて、好き過ぎて。もう、おかしくなってしまいそうだった。もとよりおかしくはあるんだけど。
「ねぇ、オガワ。……これからさ、ナツメ、って呼んでも、いい?」
そうやって一人、悶々としているときだった。
「イヤなら、このままでも、いいんだけどさ」
夏を愛でる、と書いて、
だけど私は昔から、夏は好きじゃなくて。
暑いし、蝉はうるさいし、肌は焼けるし、お盆に親戚と会うのも面倒で。
そんな季節なんか、暗い性格の私が愛せるはずもなく。
名前で呼んでくれるような友達もおらず、この名前も同じように、好きにはなれなかった。
だけど。
「……いいよ、好きに呼んで」
これからの夏は。
彼女と過ごす夏ならば。
こんな私にも、ようやく、愛することができそうだと思った。
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