川と滝の繋がる場所で 2

 その日のお風呂上り、脱衣所で。まだ髪も身体も濡れたままで、曇りかけた鏡をタオルで拭くと、すっ裸のみっともない根暗そうなびしょびしょの変な女と目が合った。わたしだ。


「…………」


 目を隠す前髪の中心に指を入れて、綺麗に横に分けて流す。濡れたそれはぴったりおでこにくっついて、前には戻ってこない。

 そうして自分の顔をまた見ると、目が丸出しで、落ち着かない。恥ずかしくなる。


 だけど。こんなやぼったい格好じゃ、第一印象は良くないに決まってる。それから、この喋り方。

 じめじめした性格だって、どうにか、直さなきゃいけない。というか、物心ついたときからこれなんだから、直すという表現は適当じゃない。強制だ。

 鏡を見ていると、数えきれないくらいに自分のダメな部分が見えてくる。落ち込みたくなるのをぐっと堪えて指折り数え、頑張れ、わたし、と意気込む。

 今のままじゃ、ダメなんだ。

 オガワさんと仲良くなるなら。少しでもオガワさんに近づきたいなら。

 かっこいい彼女の隣にいてもおかしくない、そんなわたしに、なりたい。

 変わりたい。

 鏡の中のわたしが、両手で濡れた頬に触れる。

 ……思えば化粧とか、ちゃんとしたことなかったっけ。外で顔出さないし、必要無かったもんな。わたしみたいなやつは、してる方が変だ。


「…………よし……まずは、見た目からだ」


 濡れた髪を指先で弄り、決意するみたいに口にする。

 ずっと裸でいたからか、いつの間にか体の水滴は乾き始めていた。

 意識すると急に寒くなり、くしゃみが漏れた。

 明日、アサハラさんとフジワラさんに、話しかけてみよう。



 気付けば、あの日の決意からほとんど一か月が経過していた。


「はぁ……」


 昼休み、教室を抜け出してトイレで鏡の前に立っている。

 高校に入学してから、なんだか鏡を見る時間が増えたように思う。

 今思えば鬱陶しいくらいに長かった前髪は短く揃えられ、視界は広くなった。髪色も、少しだけ明るくした。まだ目がゴロゴロして慣れないけど、メガネともお別れしてコンタクトに変えた。ついでに、パーカーともお別れした。化粧も教わって、どうにか、覚えた。

 自分で言うのも何だけど、わたし、けっこう可愛いんじゃないだろうか。……いや、いやいやいや、別に、そこはどうでもよくて。だって、女同士だし。関係ない。そういうのは。

 しかし。肝心の表情が、なにかこう、上手く言えないけど、終わってる。

 高級な食材を上手く料理できていないような……ううん、そう表現するとなんだか自分の顔のパーツが優れたものであるみたいで違う気もするけど、でも以前に比べれば、まだ、ましなんじゃないかなと思う。マイナスが、ゼロくらいにはなれたんじゃないかと思う。だから上手く表情を作れないことが、余計に悩ましくて。


「……うー、ああー」


 頬を手でこねくり回してみたり、目尻を指先で強制してみたり。色々試したけれど、正解がよく分からない。自分の顔面をどうすれば周囲に良く見せることができるのか、そもそもいい印象の顔面ってなんだ、努力でどうにかなるものなのか。大体楽しいことも無いのに人って笑えるものなのだろうか。

 疑問がどんどん、的外れな方向へ逸れていく。

 あぁ、だめだ。ダメダメ、全然ダメ。

 これじゃあ、オガワさんと仲良くなるなんて夢のまた夢じゃないか。しっかりしろ。せっかくあの二人に、あそこまで良くしてもらったんだから。

 自分を鼓舞するように頬をぱしんと叩いて、鏡の前から離れて教室に戻り。当然教室の中は騒がしくて、その声の隙間を掻い潜る様に肩を窄めて歩きそうになってしまって。


『姿勢。何回言わせんだ、しゃんとしろよ』

『せっかく可愛いんだから、もっと胸張って歩け』

『ちゃんと口開けて喋れって。ぼそぼそぼそぼそ、何言ってっか、ぜんぜんわかんねぇから』


 そんな風にアサハラに叱られたのを思い出して、姿勢と一緒に、意識も前を向く。

 ……ちょっと、言い過ぎな気がしないでもないんだけど。

 ひとまず自分の席まで向かい、机の木目を見下ろしながら唾を飲み込む。乾いた口の中で、散々練習した言葉を転がす。

 この一か月間。

 暖め続けた想い。願い。望み。

 たかが、お昼に誘うだけなのにこんな表現をするのは少し、大袈裟かもって思う。

 でもわたしにとっては、それくらい、重大なことなんだ。

 だって、ずっと一人で過ごしてきたんだから。

 大丈夫。きっと、上手くいく。

 わたしは、変わったんだ。

 今日のわたしは、かわいいんだ。

 心の中で自分に言い聞かせて、そうしてからようやく立ち上がり、振り返って。


「お、オガワ、」


 さん、と言いそうになるのを抑え込む。

 粘土でもこねるみたいに、鏡の前で弄繰り回した頬を緩ませながら声を出す。

 名前を呼ばれて少し上目遣いになるオガワさんは、あの日と同じようにすごく綺麗で。

 うっとりしそうになって、少し遅れて心臓がどきんと大きく跳ねて。

 それを制するように、用意していた言葉を引っ張り出す。


「…………一緒に、お昼食べない?」



「ん、」


 正午になってから、目が覚めた。

 暗闇の中で意識が覚醒してすぐ、ひどく不快な熱に身体が包まれていることに気付いた。

 頭まで布団を被って、そのままだったみたいだ。寝汗で下着も服も湿っていて、最悪な目覚めだった。布団を捲って起き上がると、なぜかすごく胸がどきどきして息苦しい。湿る寝間着越しに手を当てれば、肌が抑揚でもしているように感じた。


「……あぁ」


 すぐにその理由を理解して、納得した。

 納得して、赤面して、誰も見てなんかいないのに、手で顔を覆う。熱かった。

 昔から、見た夢ははっきりと覚えているタイプだった。


 まだ、わたしがわたしを見失う前。焦がれて、変わりたいって願って、全部が全部おかしくなってしまう前。

 今と比べると、まさに夢みたいって感じだ。あの頃は、オガワと顔を合わせて、一言二言交わすだけで嬉しい楽しいって、舞い上がっていたのに。

 今じゃ、こんなに近くに居るのに、満足できなくなった。

 日に日に熟れていく感情と、侵攻に伴う衝動。わたしからオガワへ向けられている、穢れた異質な望み。

 それらはもう叶わないって、痛いほど理解させられたのに、まだ心のどこかで願ってしまっていて。

 思い出したくもないあの日のことを無意識、想っているのも。


「…………」


 枕元に置いてある携帯電話。

 充電は、半分程度。

 電源を入れて映し出されるのは、メールの下書き画面。

 未送信のまま十数件溜まった、オガワ宛てのメールが並んでいた。

 新しいものも古いものも、内容は大して変わらない。上に行くにつれて文章が洗練されているとか、そんなわけない。

 昨晩から送信のボタンをタップできずに足踏みして留まって、今に至る。

 通知を覗けば、オガワからメールが来ていた。内容を読んで、でも、返信はしないままだ。

 まるで頭の中に、わたしが何人もいるみたいだった。

 考えていることがいっぱいあって、それぞれが矛盾し合って暴れている。

 一人のわたしは、好きだなんて伝えない方が、オガワと上手く付き合っていけると思ってる。

 そしてもう一人のわたしは、関係が壊れてしまうのを、怖がってる。

 なんだかんだ言ってオガワもわたしのことを好いてるんじゃないかって、そんなひどい自惚れに満ちたわたしもいる。おまけに、断られてしまうのを怯えてるときた。

 色んな思考が混ざり混ざって結局、これという答えを導き出せないでいる。

 そんな風に、どうしようもないほどに、わたしは、オガワのことが。

 本当に、心の底から。


「…………やっぱり、」


 ……このままじゃ、イヤだ。

 今まで通りなんて、できるわけない。夢に見るほどなんだ、無理に決まってる。例えオガワがこれから普通に振舞ってくれるとしたって、わたしがオガワを好きでいることには、変わりないんだから。自分の気持ちを抑え込んでってそんなの、ただの妥協、逃げじゃないか。頭の弱いわたしのことだ、どうせ我慢できない。きっと、この前の野球応援の日と同じことを繰り返すに決まってる。そうしてまた自己嫌悪に陥って、不登校にでもなる未来が見えてる。

 だから、ダメ。

 それならいっそ、オガワと離れて過ごすとか。

 ……それも、無理だ。自殺と同義でしょ、そんなの。ここまで依存してしまってるのはどうなんだろうと思わなくも無いけど、でも、好きになっちゃったものはなっちゃったのだから、もう、どうしようもない。大体、オガワもオガワなんだ。あんなに思わせぶりに、色々言ったりしてさ、あんな表情見せたりしてさ。いきなり手を繋いできたり、わたしの変なお願いも言葉も、無下にしないで聞いてくれたりして。終いには『付き合ってる』とか言い出すし、おかしいよ。そんなの意識するなって言う方が、無理な話だ。なのにここぞという時は風に攫われるみたいにひらりひらりと躱されてしまって、掴めなくて、でも気付いた時には、また傍までやってきていて、乱されて、惑わされて、もっともっと、好きになってしまう。ずっと友達すらいない日陰者だったわたしに、そんな攻防、上手く立ち回ることなんか、できるわけない。そうでしょ。求めないでよ、そんな高度なこと。そうだ。モミジもモミジなんだ。わざわざ教えに来なくたっていいのに。ていうかオガワはなんで、二人で話したってんなら、わたしにそれを教えてくれなかったのさ。絶対、わざと隠してたじゃん。別にちっとも怒ってなんかいないけど、そんなことされてしまったらさ、わたしと、同じだって思っちゃうでしょ。もし立場が逆だったら、そうするもん。そもそもわたしのこと何とも思ってないならさ、あんなことしないでほしい。言わないでほしい。距離だよ。距離、もっと考えてよ。そりゃわたしの勘違いだとか自惚れだとか自意識過剰だとかなんてことも、無きにしも非ずって言えば確かにそれはそうなんだけど……いや、そんなはずないよ、だって、オガワが他の子にあんなこと言ったりすると思う? 思わないでしょ? 言うワケないじゃん、オガワだよ? 仮にそうじゃなかったとして、勘違いしないでって言われたって、じゃあ勘違いさせないでよってなるよ。そうでしょ。そんな論だってまかり通る、かは、わかんないけど。でもだって、あんなの、絶対おかしい。そうだ、どうせもう、前のようには戻れないんだ。普通になんてできるはずないんだ。だったらいっそ、めちゃくちゃに暴れてやる。やってやる。やってやるんだ、リコ。わたしは、変わったんだ。こんなことだって、できちゃうんだ!


 そうして無理やりに納得して、送信ボタンを震える指先でタップした。

 送信完了のタブを閉じてから、やっぱり激しく後悔した。

 ……一喜すら無いのに、百憂くらいある感じだ。

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