5 川と滝の繋がる場所で

川と滝の繋がる場所で 1

 真面目か不真面目かの二極で言うのならわたしはきっと、不真面目に分類されてしまうのだろう。その境界線と言うか判断基準の上を、今までは曖昧にうろついていたのが、今日。

 はっきり、不真面目ちゃん側へと染まってしまったように思う。


 言うほど勉強は嫌いじゃないけど、授業中に寝ている時間や遅刻した回数は、恐らく他の子より多い方だし。

 まだ一年生、それも夏休み前だってのに。思い返せばそれだけでも充分、真面目な生徒からすれば不良認定されてもなんらおかしくない気もする。


 今日、生まれてはじめて、体調不良以外の理由で学校を休んだ。

 サボタージュ、ってやつだ。

 両親には熱があると嘘をつき、特にあれこれ言及されるということも無く。いつもなら教室で机に向かっている時間を、自室のベッドに寝転がって過ごしていた。誰も気にしないと頭ではわかっているのに、身を固くするような緊張と罪悪感でそわそわする。ただ部屋に居て何もせず過ごすのは、長らく無趣味な日陰者だった自分には慣れたことのはずなのに、やけに時計の進みが遅く感じた。今は金曜日の二時限目だから、現国かな。あの先生は私がいないことについて、何か言うだろうか。言わないだろうな。夏休みが近いから、もしかすれば課題が出されているかも。月曜日、オガワに聞いておかなきゃいけないな。今からメールしておこうか。優しいオガワのことだ、ノートなんか取っておいてくれるかもしれない。この瞬間だって、頭の片隅にはわたしの姿を思い浮かべているかも、なんて。なんだか、ちょっと恥ずかしいな、今の。そうだ、来週、どんな風に話しかけるか考えておかなきゃ。どのタイミングで聞くのがいいかな。やっぱり、朝、一緒に登校するときかな。おはよう、から入って、きっとすぐに『先週はどうしたの?』と聞かれるはず。そしたら、なんて答えようかな。風邪が、妥当かな。本当のことなんて、言えるはずないし。


「…………」


 一旦、思考を打ち切って。

 布団の中に、深々と潜り込む。

 あんなことをしてしまった、その翌日に。

 オガワと平気な顔で話せるはず、なかった。


 じめじめした室温を吸うように、身体が不快な熱を持つ。

 わたしの部屋には冷房が無いから、ただ寝転がっているだけでも肌には汗が滲む。なのに布団に包まって暗闇の中に居るのだから、それはもうサウナみたいなものだった。


 熱で感じる怠さとは違う違和感、息苦しさが、喉を詰まらせて空気を堰き止めた。

 胸の奥の大事な器官を、ぎゅっと麻縄かなにかで縛られているようだった。ここまで来れば、もう体調不良としても良いんじゃないだろうかとさえ思う。

 それくらい、困窮している。


 もう、後戻りできない場所まで、来てしまった。

 オガワがわたしの想いに答えてくれるって、心のどこかで期待していた。

 相手の気持ちも推し量らないままに、自分勝手に歩み寄って、当然のように拒まれた。

 慰みを与えるみたいに抱き締められて、情けないけど、そんなことで、とても嬉しくなってしまって。

 そうして昨日の失態を思えば、布団の中で目頭が湿って熱くなる。


「ほんとに、バカ、リコ」


 呟く声は、みっともなく涙で濡れていた。

 泣きながら、眠っていた。





 入学式から一週間も経てば、ある程度のグループがクラスに形成される。

 騒がしい子は騒がしい子同士で集まって、そうじゃない子はそうじゃない子と集まって。それぞれがそれなりに気の合う相手を見つけて、わいわいがやがやと楽しそうにしている。

 そんな、四月半ばの昼休みのこと。


 賑やかな教室の隅、窓際。午後になれば太陽の光が差し込み、ぽかぽかした気温にあてられて眠くなる席。名前の順の問題で、わたしの席はそこだった。

 昼休みになっても、わたしだけは授業中と何にも変わらない。俯いて、一人何もせずに座っているだけ。騒がしい人にも、そうじゃない人にもなれない。独りぼっちの、寂しい人だ。


 楽しい時間のはずの昼休みも、わたしにとっては孤立が浮き彫りになる時間でしか無い。

 はやく終われ、と祈りながら時計と机を幾度も視線を往復させて、大して好きでも無い夏の歌を聴きながら四十分待っている。そんな毎日だ。


「…………」


 振り向きはしないまま、窓に向けた顔を動かさずに、視線だけで後ろを見やる。

 すぐ後ろの席の人も、わたしと似たように入学式の翌日から今まで、いつも一人で過ごしていた。

 気怠そうな表情で文庫本を机に置き、それに目を落としながらいちごオレのストローを咥えている。

 わたしと同じに見えて、実際は、大きく異なる。


 授業の合間の休み時間や移動教室のとき、あとは朝と放課後。そういった時間には、普通に友達と話しているのをよく目にするから。

 きっと気が楽だからとか、一人が好きだとか。そういう理由で、自ら孤高を選んでいるんだ。

 欠伸しながら、絡んでくるクラスメートをしっしとあしらったり。一人で静かに本を読んでいたり。

 そんな彼女の姿を目にするたび、ああ、かっこいい人だなって、そう思う。


 ……嫌でも一人になっちゃうのが、わたしだから。

 憧れるのも、当然だった。

 はぁ、とため息を吐きながら、鞄から安物のイヤホンと携帯電話を取り出す。耳に装着してから画面を操作して、夏の歌を流す。

 演奏と甘ったるい女性ボーカルの隙間から教室の雑音が沁みこむように聞こえてきて、それを遮るように、耳が痛くなるまで音量を上げた。

 そうでもしなきゃ、周囲の雑音は消えてくれそうになかった。


 頬杖をついて、窓の外を眺める。小学校でも中学校でも似たように過ごしていたのを思い出して、無意識、その景観と比べてしまう。建物の背が低くて、空色と緑色が多い印象。

 この辺は田舎だなぁって思いながら、コンビニで買ったおにぎりを齧った。家で食べるようなお米とは随分違う味がして、具の焼きたらこまでは一口で届かなくて、……なんか、一口で充分だった。

 何も口にしたくない。理由も無いのにお腹が痛くって、涙が出てしまいそうだった。


 ほんの少し前までは一人で居るのだって、そこまで苦じゃなかったのに。

 むしろ知らない人ばかりのこの環境なら、もっと楽になるだろうって思ってたのに。そのためにわざわざ、中学校からは遠い高校を選んで受験したのに。

 原因の分からない正体不明の居心地の悪さで、息が詰まる。

 もう、今すぐにでも帰りたい。

 帰って、寝たい。

 そんな思いが、一日中、わたしの思考を埋め尽くしている。


 そうして自室の布団に思いを馳せながら、意識を何処か遠くに向けていると。

 突然、耳に違和感を感じた。うるさい音楽が止むと、教室の喧噪がはっきりと聞こえてくる。それに合わせて視界が明るくなって、何、と思いながら目線を上げると、クラスメートの女の子がわたしのイヤホンを摘んで意地悪そうに笑ってわたしを見下ろしていた。その横にはもう一人女子生徒が立っていて、申し訳なさそうに苦笑いしていた。

 また、この人たちだ。心の中で、舌打ちする。


「イヤホンなんかして」


 クラスでは割と目立つ方の人たち(わたしからすれば全員がそうなるけど)が、わたしの一人の世界に土足でずけずけ上がり込んでくる。

 普通に肩叩くとか、出来ないのかな。

 胸の内で毒づいてから、はぎ取られたフードを目深に被りなおす。前髪の下から窺うように顔を見やると、さっきと変わらない様子でへらへら笑っていて、苛立つ。


「なに聞いてんの?」


 安物のイヤホンを耳にあててから「……うわ、うるっさ! 耳おかしくなるぞお前!」なんて勢いよく耳から離してる。

 うるさいのは、お前の方だ。とは言わずにイヤホンを奪い返して軽く結んでから、鞄にしまう。


「さっきの歌、なんていうやつ?」

「……どうせ、言ってもわかんないでしょ」


 言うほど、マイナーなバンドでもないけどさ。でもどうせ興味ないでしょ。

 分かりきってるのに、わざわざ教える理由も無い。「何の用なの」と話題を打ち切るように言う。


「用事がなきゃ、昼休みに話しかけちゃいけないっての?」

「そうだよ。用がないなら、あっちいって」

「やだ」


 目線を合わせるみたいに腰を落として、机に腕を乗せる。

 その上に少し目つきの悪い顔が乗っかって、それが歯を見せてニヤニヤと笑う。小中と経験した嫌がらせの中では類を見ないもので、こういう絡み方は慣れない。

 だから色々深読みしてしまって、居心地が悪くなる。


「ミオ、強引だと嫌われちゃうよ」

「既に嫌われてるからいーんじゃね?」

「いいってことないでしょ、……なんか、ごめんね?」


 隣でずっと静かに様子を見守っていたフジワラさんが、漸く口を開いてアサハラさんのことを言葉で制する。

 苦笑い交じりの、穏やかな笑みを向けてくる。所作がいちいち上品で、育ちの良さが滲むような振舞い。

 アサハラさん含めて、美人だなと評する。

 そんなことで、余計にわたしなんかの相手をしたがる理由が、わからなくなって。

 罪悪感を示されてしまえば、冷たく突っぱねることもしにくくなって。


「…………別に、気にしてないけどさ」

「ほらな? なんだかんだ嬉しいんだろ、オオタキ」

「やめなさいって。だいたい、なんでミオが偉そうなのよ」


 呆れながら、軽くアサハラさんの後頭部を小突く。しかも加減があるように見えなくて、それなりに痛そうだった。

 叩かれたアサハラさんが「いで」と短く漏らして、でも笑顔は崩さないまま。

 マゾなんだろうなって思う。ここで黙っていたら、嬉しいことを肯定するようなものだ。


「……そんなんじゃ、ないってば」

「またまたぁ」


 たしかに彼女の言う通り、一人でいたいわけじゃあない。本当は、好きな歌の話だってしたい。二人の会話に交じって、笑ったりなんかしたい。初めから、嫌ってなんかいない。

 でも、できないんだ。

 嬉しいだとか楽しいだとかって言いたいのに。それらの明るい気持ちは、喉に痞えたみたいにわたしの外へは出てきてくれなくって。いくつになっても、この出来の悪い口から出てくるのは、不愛想な否定と拒否の言葉ばかりで。

 アサハラさん、フジワラさん、ごめん。

 こんなにつまんないヤツなのに、相手してくれて。でもね。


「……関わんないでよ、もう」


 じゃなきゃきっと、仲間だと思われちゃうからさ。



「はぁ」


 その日の帰り道。昇降口から既に当然、一人ぼっち。

 部活に行く人、帰りに遊ぶ予定を話し合う人、意味も無く駐輪場で話し込んでは笑う人。

 色んな人の群れからはぐれるように一人で歩いていると、なんだか自分が人ではない生き物のように感じて、泣けてくる。

 この感覚は初めてじゃない。なれっこだ。そのはずなのに、つらい。

 胸が潰れるみたいに息苦しくて、こめかみの辺りから熱い液体が滲むような痛みがある。

 ぎゅっとショルダーバッグの持ち手を握って、そんな気持ちを押し殺す。肩を窄めるように少し急いで歩くと、周囲の視線が痛かった。こっち見ないでよ、なんて祈るように思う。

 今日も、つまんなかった。

 明日もその次も、きっと同じなんだろう。


 暗い先行きを思いながら、とぼとぼと商店街を歩いていく。群青の迫りかける空模様をぼんやり見つめると、夏はまだまだ先だな、と思う。

 昔からだ。一年中、夏のことばかり考えている気がする。

 夏は好きだ。別に海に行くとか親戚に会うとかお祭りがあるとか、そういうのは全く好きじゃない。むしろ、泳げないし他人と上手く喋れないしで、嫌なことの方が多い。

 じゃあなんでって言われると、悩んでしまう。

 夏に生まれたからかもしれない。

 まだ遠い夏に憧憬を感じながら空を眺めると、カラスが一、二、三、と飛んでいた。カラスでさえ仲間と一緒にいるのに、わたしはどうしてこ「うわぁ」何、となる。


 突然のことだった。

 背後から右腕を掴まれたかと思えば、勢いよく後ろに引かれて重心が背中側に偏って、え、なんで、何事、と動揺する。体制を崩して倒れそうになるところを、柔らかい壁のようなものに寄りかかる形でなんとか耐える。

 それから一秒と待たずに、わたしの目と鼻の先を、とんでもないスピードで乗用車が通過していった。

 あと一歩でも前に出ていたら、さっきまでわたしだったものが辺り一面に転がっていたことだろう。

 赤い色を想像して、それとは反対に、青ざめる。さーっと、体温が何度か下がる。


「危なかったね」


 車が来ていることに、気付けなかった。明らかに、わたしの不注意だった。


「ここさ、ほんと危ないんだよね。車から見えにくいし、信号ないし。だってのに、あのプリウス、飛ばしすぎでしょ。通報してやろうかな」


 とても近くで、女の子の声がした。

 すんでのところで、誰かが後ろから腕を引いてくれたらしい。その後、転びそうになるのを優しく受け止めてくれた。

 運動神経の悪いわたしは、一度崩れた体勢をすぐに直す技術なんか持ち合わせておらず、恐怖とか、そういうのでしばらく体の自由を奪われる。

 ただでさえ弱い頭も、思うように稼働してくれない。


「おーい、大丈夫かー」


 そうしてしばらく魂を飛ばしていると、顔の前で手を振られて、ハッとする。


「だ、だいじょうぶ、でしぃ」


 噛んだ。


「あ、よかった。気絶でもしちゃったのかと思ったよ。立てる?」


 整った顔の女の子が、フードの下を覗き込むようにわたしの顔を見ていた。特に噛んだことには触れられず、羞恥が募る。

 少し冷静になって、今の状況を鑑みる。右腕を掴まれて、体がすっぽりとその女の子の胸に抱き留められている感じだった。

 でも身長が同じくらいなので、いまいち収まりが悪い。

 完全に寄りかかっているのに、受け止められている。え、待って、身長同じくらいなのに、重くないのかな、ていうかなんか、いい匂いするかも、ってところでようやく、とてつもなく恥ずかしいことをしている(されている?)ことに気付く。


「ご、ごめんなさ、わた、わたし」

「ははは、落ち着きなよ。フード、とった方が良いんじゃない?」


 慌てて女の子から離れると、掴んでいた手を離して薄く笑いながら言う。離れてから改めて女の子を見てみると、妙な既視感があるのと同時に、さっきまでの距離感の近さを今更になってから恥じる。

 落ち着かない思考でゆっくり情報を整理していくと、その女の子が誰なのか見当がついて。

 だけどそれはそれとして、なんだかいてもたっても、いられなくなって。


「あ、あの、えと、……す、すみません、でした」


 頷くくらいに小さな礼をしてから、走り出す。


「あ、ちょっと」


 走り去る背中に、女の子の声。

 でも振り返らないし、立ち止まらない。

 前ではなく進行方向からは右側に逸れる。こっちから駅に行けるかどうかは、知らない。でもそんなことを気にしている余裕も無く、何よりあの女の子と方向が同じだったらと危惧するともう、あのまま道路を横断することもできなかった。


「はっ、はっ、はぁっ、はっ、はぁっ、」


 息を切らしながら、知らない道を駆け抜ける。すれ違う人にちらちらと見られているような気がした。

 なんで走ってるんだろう? 何度も疑問に思ったけど、急く身体と足は止まらない。

 初めて感じる、心臓を激しく揺するような気持ち。心だけが先行して、それを追いかけているような心地だった。


 鞄と、フードから垂れるように前に出た髪が揺れる。走っているうちにフードが捲れ上がって、伸ばしっぱなしの髪がぶわっと春の夕暮れの空気に溶けるみたいに広がって舞った。

 でもそんなことも、気にしない。頭皮を引っ張られるような重さも、気にならない。


 とにかく体を動かさないと。熱に突き動かされて、じっとしていたら腕やら脚やらを接着している部品が焼き切れでもして、体から離れていってしまいそうな気がした。


 あの子の言葉を、胸の中で何度も繰り返した。

 少し低めで、なんていうか、かっこいい声だった。普段クラスメートに溢す気だるげな声とは少しだけ違って、あの、余所行きの声なんだろうなと思う。肩ほどまで伸びて毛先が少し丸まった、僅かに赤の混じる綺麗な黒い髪。抱き留められたときに香ったのは、シャンプーの匂いかな。甘かったり柑橘系だったりというよりかは、落ち着く香りだったと思う。服の匂いだったかも。まさに眼前で見つめた、形のいい目や鼻、口、長い睫毛。それらがバランスよく収まった、綺麗な顔。細めなのに、少しがっしりした身体つき。同じくらいの身長のわたしを平気な顔で受け止めている辺り、きっと中学では運動部だったに違いない。


 いつも、あんなに近くにいたのに。

 こんなにまじまじと、後ろの席に座る彼女のことを見たのは、初めてだった。

 総じて、すっごく、綺麗な子。


 わたしは、今日、あの時、あの瞬間。

 生まれてはじめて、自分じゃない誰かと、仲良くなりたいって。

 お友達になりたいって、そう、思った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る