7/12 キス未遂

 やっぱり今朝はいつも起きている時間に起きられなかった。昨日、日記書きながら「あぁ明日は寝坊するかもな」と思ったし。オオタキと出会ってからこんな夜を過ごすのは、もう何度目だろう。

 怠い身体に鞭を打って上半身を起こして、としたとき。


「…………え?」

「ん?」

「……なんでいんの?」


 母さんが通したのかなんだか知らないけど、寝ている間にオオタキが部屋まで来てくれたみたいだった。

 さらっと書いているけど、マジで謎だよね。目覚めでそんなことが起きればそりゃ、クエスチョンマークが百個くらい頭の上を飛んでいた。


「おはよう、オガワ。まだ寝てても大丈夫だよ」


 目覚めた瞬間に、目と鼻の先でそんなことを言うもんだから。一瞬、何が起きてるのか分からなかった。夢かなって思った。オオタキを好きすぎるあまり、夢にまで出てきちゃったんだねもう可愛いなぁもう食べちゃおうかなって。いや、一瞬じゃないな。数分は「?」って顔をしていたと思う。

 まだ寝ててもって、大好きな人が目の前にいるのに「じゃあ、寝ます」って二度寝する奴なんか、この世にいるのかな。少なくとも、私にはできない。

 化粧もしないで髪も整えてない顔を見られるのって、初めてじゃないにしてもめちゃくちゃ恥ずかしかった。それ以前に、寝顔。寝顔だよ。自分の寝顔なんか見たことないから断言はできないけど、私のそれがオオタキみたいに可愛いはずが無い。あぁ。白目剥いてたりしたらどうしよう。


「あれ、もう起きるの?」

「いやだって、オオタキ来てるし」

「気にしなくてもいいのに」

「無茶言わないで」


 寝顔について聞いてみたら「可愛かったよ」って言われた。嘘でしょ。憐みならやめていただきたい。

 この前みたいにまた着替えるところを見られて、「相変わらず可愛いのつけてんね」や「えろいね」などとニヤニヤしながら言われた。そんな状況でオオタキの顔なんか直視できるはずも無いので、声色から表情を推察しただけなんだけど。でもきっとニヤニヤしてた。そういう声だった。やめてください、そういうのは、私の仕事です。

 そして毎度毎度、オオタキの下着姿の方が見たい。

 これはなんのプレイなんだろう、と着替え終わるまでずっと思ってた。顔が茹蛸みたいになっていたと思う。

 顔を洗って髪とか諸々整えて、既に焼いてあったパンを齧りながら二人で家を出る。オオタキと一緒に「いってきます」って言うのがなんだか新鮮で、気恥ずかしさと嬉しさが混じった不思議な感情が、胸の奥で沸いて立つようだった。


「いつも早起きなのに、珍しいね?」

「珍しいかな」

「うん。だってこないだ泊まりに行った時も、先に起きてた」


 最近起きるのが遅いのも、そのとき早く起きちゃったのも。どちらも、あなたが可愛すぎるせいですけどね。口にはしないで、まぁそうかもね、と薄く肯定する。


 学校の校門付近でアサハラが「うおおおお」とか女の子とは思えない雄叫びを上げながら横を駆け抜けていって、なんだなんだ、と思っていたら今度は少し遅れて「まてぇえええ、わははははあはは」と叫んで大爆笑しながら、フジワラが突っ走っていった。


「なにあれ」

「見ちゃいけないよ、オオタキ」


 あんなのと友達と思われたくないでしょ。

 フジワラが右手を高く掲げてて、その指先になにか黒いものが蠢いてた。遠ざかるそれを目を凝らして見つめてみると、クワガタムシだった。アサハラはこれに怯えて持ち前の脚力で逃げていたのか。そういえばあいつ、虫苦手だったっけ。

 しかしこいつら朝からなにやってんだ、高校生のくせに。


「わたしたちも、真似する?」

「勘弁して」


 オオタキが笑いながらそう言う。私、虫めっちゃ嫌いだし、と丁重にお断りする。


「いやいや、じゃなかったら逃げないから意味なくない?」


 それもそうだね。だからと言って、真似はしないけど。

 今日は二時間目の途中くらいで授業が終わり、その後に高校の野球部の応援があった。私は知らなかったのだけど、高校ではこの時期にどこも野球応援があるのがお決まりらしい。正直クソ暑いし野球部の友達なんかいるわけもないし、そんなわけで私は死ぬほど興味ない。そのくせ欠席日数にはきちんとカウントするとか、どうかしてる。

 学校から歩いて二十分くらいの場所に運動場があり、駅とは正反対の方向だ。そんな立地じゃあもう、皆の口からは文句しか出なかった。でもいざ実際にあの会場に着くとテンション上がって大声出したりするんだから、よくわからないね。

 私は早く終わらないかなぁとオオタキと二人で空なんか見てた。応援席は出席番号順で決まるので、当然オオタキとは隣同士だ。

 メガホンを激しく叩く音とわいわいきゃあきゃあと騒がしい生徒の歓声の中。


「ね、オガワ、オガワ」


 オオタキが横から、私のワイシャツの捲った袖を摘みながら言ってくる。ねぇ、その動作やばいから。くいくい、じゃないよ。悶え死ぬから。もっとやって。


「飲み物ほしいからさ、ついてきてよ」


 うるさい周囲を気にしてか、耳元でそう言ってくる。つまり、抜け出そうってこと? この学校全体が一つになっている、一年に一度の、一世一代の大イベントの中。たった二人で、球場の外に?

 飛んだり跳ねたりで忙しい生徒の隙間を縫って、幅の狭い階段を降りて会場を出る。もはやここまでとなると、暑いを通り越して熱い。きっと今応援に夢中になっている大多数は、この熱さえ盛り上がりを助長するエネルギーになっているんだろうな。

 熱中症には気を付けてね、私は外で想い人と甘いひと時を過ごすから。

 嫌味っぽく、心の中で唱えた。

 外の日陰は、人の密度の問題かあの場の熱気が嘘みたいに涼しかった。

 自販機でスポーツドリンクを買い、木陰のベンチに座る。かし、とキャップを開けて一口飲んでから「オガワ、もどりたい?」とオオタキが聞いてくる。


「ううん。全然」

「だよねぇ、わたしもしんどいや」


 スポーツドリンクをこく、と小さく飲み込んでから、はぁ、なんて疲れ混じりの息を吐く。


「……もっと外に人いると思ったけど、わたしたちしかいないね」


 きょろきょろと周囲を確認する、までもなく、頷く。

 見渡す限り、人の影は無かった。少し遠くから「二番、たなかくん」というアナウンスと生徒たちの大歓声が聞こえてくるだけで、球場の外は違う世界のように静まりかえっていた。木陰だからか、蝉の鳴き声が身体を覆うようだった。

 これまで蝉なんて鬱陶しい以外の気持ちを抱いたことはなかったけど、オオタキと一緒に聞く蝉の鳴き声だって思うと突然とてつもない価値のあるようなものに思えて。耳を傾ければ、小気味のいいバックグラウンドミュージックのようで。

 あぁ、やられているなって思う。

 夏の暑さにも、隣に座るオオタキにも。

 そうして日々おかしくなっていくのを実感しているとふと、座っていた頼りないベンチが僅かに軋んだ。ん? と思って横を見ると、オオタキが腰を動かして私に近づいていた。

 腰がぶつかっている。それくらい、近い。「そういう」ことを考えて物思いに耽っていたものだから、どき、と必要以上に胸が弾む。どうしたの、と思う。

 そして背中を少し丸めて、隠されたものを覗き込むみたいに悪戯っぽく、私の顔を見つめてくる。


「……髪、濡れてる」


 呟いて、さら、と彼女の細い指先が私の髪を梳く。そのまま、流れるような動きで手を頬にあてがってくる。オオタキの指先に、弱い電流でも流れていたんだろうか。

 触れられた頬から、痺れに似た感覚がぞわ、と身体を走り抜けた。待って、なに、なんなの、と言葉にならない困惑で、また心臓が跳ねる。


「いま、ドキッてしたでしょ」


 見透かされているみたいだった。

 他の人には分からない私のことが、彼女にはわかってしまうらしい。

 彼女の前だと、私がわかりやすくなってしまうだけかもしれない。

 どちらも、大して意味は変わらない。

 オオタキは一体、どういうつもりなんだろう。とぼけてみても、浮かんだ答えは消えてくれない。それはここ数日である程度見えてしまった、オオタキの心の深奥を「ほら、見て」と曝け出されているのと、似たようなもので。

 目と鼻の先にいるオオタキを、手で押し退けることなんかできるはずも無く。ただ、されるがまま髪やら肌やらを優しく触れられて、撫でられて。

 吐息の一つ一つが鮮明に耳に届いて、わぁあ、となる。願ってやまなかったような状況なのに、いざ与えられると、何もできなくなる。

 というより、しちゃいけない。この先に何が待ち受けているか、普段している良くない考えと似た予感がする。誤って表に出てきてはならない、私とオオタキとの彼是。それが今まさに、起きようとしている。

 だからこれ以上、歩を進めちゃダメだと、もう一人の私が後ろから腕を引く。

 日記に書いている内容からすれば嘘みたいな話だけど、そのときの私の頭にはまだ、理性が働いていた。

 そんな理性も、たった一言で、全部どこかへと吹っ飛んでいく。


「キスって、したことある?」


 蝉の声に掻き消されてしまいそうなほど、小さく、細い声で。

 表情を隠すように少しだけ俯き、汗で少し束になった前髪の隙間から赤い頬が覗く。

 なんで、だって、この年齢の友達になら別に、なんとなくで聞いたって、おかしく無いことじゃん。おかしくないよ、全然、恥ずかしくないでしょ。なんでそんなに、赤くなるの。なんで、照れるの。私じゃない人にも、そんな顔を見せてるの。絶対に嫌なことなのに、そうであってほしいと願ってしまう。

 そんな風に色々考えて、無意味だなって悟る。

 オオタキはもう、戻れないところまで来てしまったんだと思う。


 私の右手に、オオタキが手を重ねてくる。夏の空気よりずっと熱い肌が触れ合って、温度が私に伝播する。

 それに合わせて、俯いていたオオタキがゆっくりと、視線を上げる。


「わたしは、ないよ」


 潤んだ目が、じっと、私の目の奥を見据えるように。



「…………オガワと、したいな、って」



 そんな甘い言葉で、脳の回路が焼き切れた。

 ぱち、と火花が眼前で散るようだった。

 曖昧に暈し続けてきた、目を背けてきた現実が視界を覆う。

 言葉が出てこなくて、見つめ合う目を逸らせない。

 何も言わないのを了承ととったのか、ただでさえ近くにあったオオタキの顔が、さらに接近してくる。いつの間に、自分はこの想いを返したんだろう。自覚も無いまま、オオタキが重ねた手と私の指が絡まって。どこまでが私で、オオタキで、触れあう熱い肌の境目さえ曖昧になる。

 歓声が、さらに遠くから聞こえているような気がした。


「すごい顔。……オガワ、かわいい」


 ぎゅっ、と繋いだ指に力が篭もる。無意識、私も握り返す。

 暑くて開け放した第二ボタン、露わになってる首元。汗ばんで湿った白い肌。形の綺麗な顎に、小さい唇。赤くなった頬。閉じた瞼、前髪。オオタキの全てを、今までに無いくらいに、近くで感じている。

 拒まなければ、与えられる。今、私が見ている全部。いつ何時だって、愛しくて愛しくて堪らない、彼女の何もかもを。

 今なら、私だけのものに、出来てしまう。

 遠退きそうな意識の中。ショートした脳は、使い物にならなくて。

 あっ、待って。

 ぶつかる。ダメ、これ



 すんでのところで、彼女の肩を押し返すことができた。

 心臓が暴れすぎて、喉から出てきてしまいそうだった。口の中が渇いてからからだ。頭に血が昇って、何も考えられない。身体が熱くなって、息が荒れて。なんだ、今、何が起きたんだ、私はなにをしたんだ、オオタキは、何をしようとしてたんだ。


「こ、こういうの、ダメだと、思う、よ……」


 まともに息もできないなか、どうにか言葉を絞り出す。落ち着け落ち着け、と念仏みたいに胸で唱える。そう思えば思うほど、焦燥は増して心は乱される。気温も相まって、汗がどばどば溢れる。さっき飲んだスポーツドリンクは全部、汗になって外へ流れていった。


「…………ご、ごめん、……なにやってんだろ、わたし」


 オオタキも、冷静じゃなかったみたいで。

 言いながら、今にも泣いてしまいそうな顔で。私から、少しだけ距離をとる。繋いだ指は、いつの間にか解けて自由になっていた。オオタキの熱が残るように表面は熱く、でも奥は死んだように冷え切っていた


「そ、そうだよね、付き合って、無いんだもん、ね。あ、はは……わたしたち……なのに、なんで、……ほんとに、……あぁ、だめだ、なにしてんだろ、ほんと、」


 一生懸命、笑顔を作ろうとしているのが分かる。

 それでも、潤んだ瞳から大粒の雫が零れ落ちてしまっていた。

 泣きながら笑っているような、不思議な表情だった。それでも可愛いんだから、オオタキはすごい。なんて、感心してる場合じゃない。え、待って、これ私が泣かせたのか? いや、そうだよね。それ以外ないよね。えっ、どうしよう。


「あれ、なんで、泣いてんだろ、へへ、」


 ぐしぐしと手の甲でどれだけ拭っても、止め処なく溢れ続ける。

 あーもう、見てられない。ごめんごめん、マジでごめんオオタキ。だったら喜んでキスすればよかったな、って、いやそうじゃないんだけど。でもどうすれば泣き止んでくれるかな、いや、その前に喜ぶかどうか、キスの代わりになるようなことなんて、私はオオタキにしてあげられるのかな。考えろ、考えろ。オオタキが今、一番喜ぶこと。キスか。だからそうじゃないんだってば。今度は、焦りで思考能力が低下する。

 悩んだ末に、なんでそうしたのか全く理解できないけど、オオタキを抱き締めていた。

 オオタキの首に手を回して、左肩に顎を乗せる形になって。

「……ごめん、これなら」とか言ってしまった。

 いや、何が「これなら」だよ。

 お前、自分のことなんだと思ってんだ。有名人か何かか。偉そうにしやがって。

 と、今になってからは思う。

 でも、なんか、正解だったらしい。

 嗚咽交じりに、オオタキがゆっくりと腕を私の背中に回してくれた。身体をよじって、密着してくる。鼻を啜るたびに背中がぴく、と微動していた。


「……汗臭いかな、もしかして」


 恐る恐る、一応聞く。いや、多分、大丈夫だとは思うんだけどさ。一応ね。


「…………ううん、オガワのにおい。好き」


 どうしてこの子は、そんな歯が浮くような台詞を普通に言ってのけてしまうんだろう。いや、こんな状況だからこそ言えてしまうのかな。

 私の匂い、好き、かぁ。

 やばいなぁ。愛されてるなぁ。

 嬉しいけれど、それだけじゃない。

 背中に回した腕に、ぎゅっと力が入る。細い指が、私の肩をしっかり掴んでいて。まるで、もう離したくない、なんて言ってるようだった。


 三十秒くらいそのままでいたので「……あの、暑いから、もう、いいかな」って提案をしてしまうくらいには暑かった。

 だって、三十度越えの気温の中で抱き合っていたら、そりゃ暑いでしょ。風情が無いなんて言われてしまいそうだけど、羞恥でヤバいことになってる私の思考回路にそんな高度な要求はしないでほしい。

 でもオオタキは「やだ」と、それを拒否してくる。


「もすこし、だけ」


 言いながら、オオタキがまた腕の中で身をよじる。心臓がばっくんばっくんと鳴っていて、これ、聞かれていたら、いやだなと思った。

 ……誰かに見られてたいら、まずいよな。

 思いながら、だけど私から離れることもできないまま。

 オオタキと頼りない背中と髪とを、交互に撫でる。

 このまま、時間が止まっちゃえばいいのに、なんて。

 そんな漫画や小説みたいなことを、真面目に考えたりした。

 

 キスは、ダメで。

 抱き合うのは、許容できて。

 中途半端で、意気地なしで、度胸も無い。そんな私の姿が、より鮮明になる。

 心が締め付けられるように苦しくて、痛い。真っ黒い気持ちが、胸の中で渦を巻く。

 ねぇ、オオタキ。

 これ以上、私のことなんか、好きにならないで。

 オオタキのことを、好きにさせないで。

 誰に願ったって、叶いはしない。

 わかってるよ、そんなの。

 私が、一番。

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