もうひとりの自分

「千里、そろそろ行くよ」

うん……って、あれ、どこ行くんだっけ。

「お義父さんたちにこっちのおいしいもの送るって言ってたじゃん」

あー、そうだった。

でも、どっかいいとこあるの?

「あるんだなぁこれが。さあ行こう」

夫の孝太さんはわたしの手を引いて車に連れて行く。


結婚を機に帯広に越してきた。

そう言うと、友達は「帯広の人とどこで出会いがあったのよ」なんて言うけれど。

ホントはちょっと違うんだ。

孝太さんが結婚と同時に、こっちに家を買っちゃって。

仕事もこっちで決めちゃって。

わたしはついて行くしかなかったんだもの。

ホントは東京にいた方が良かったんだけどなぁ。

12月でも雪が少ないのはありがたいんだけど、寒さにはまだ慣れない……。


「さあここだ。着いたよ」

車から降りると、そこは帯広競馬場。

「競馬場でおいしいもの売ってるの?お野菜とかあるのかしら」

孝太さんはニッと笑うと、「あるんだなぁこれが」と言う。

結婚する前から孝太さんはよくこっちに旅行してたみたいだし、こっち来てからも時々競馬をしに行ってるのは知ってたけど。

だからってうちの親に送るものまで競馬場で買うかなぁ。

競馬やらないわたしからしたら、ちょっと信じられない。

「さあさ、行くよ」

孝太さんはそう言ってわたしの手を引く。


少し歩いた先に『とかちむら』と大きく書いてある建物が見える。

「あそこだよ。いいものあるんだから」

そう言うと、孝太さんはどんどん歩いていく。

「ちょ、ちょっと待ってよぉ」

わたしは少し駆け足でついて行く。


中に入ったら。大きな産直市場がそこにあった。

さすがに冬だからお野菜は少なめだけど、お菓子なんかもたくさんある。

「お義父さん、ヨーグルトとか好きだって言ってたよね」

そう言いながら、孝太さんは買い物かごにどんどん品物を入れていく。

「そんなに買って、車に置いておくの?すぐには帰らないでしょ?」

「大丈夫だよ。ここからお義父さんとこに送るから」

あ、そういうことなんだ。

でも、いっぱい送っても食べ切れるかなぁ……。


買い物が済んだ。

でも、孝太さんは帰るつもりなさそう。

きっと、買い物は口実でわたしを競馬場に連れてきたかったんだろう。

今までひとりで行ってたみたいだし、わたしも干渉しなかったからなぁ。

「……ねぇ、このまま競馬して行くんでしょ?」

「ま、そういうことです。一緒に見てってよ」

こっちに引っ越しを決めたときもそうだった。

孝太さんが全部段取りつけて、わたしはうんって言うしかなくて。

自分で決めなくていいのはいいけど、なんだかなぁ。

「……しょうがないなぁ……」

でも、孝太さんが好きなものを知るのも大事だもんね。

「晩ごはん代くらいは稼いでよね」

「承知しました、奥様」

孝太さんは恭しくわたしに頭を下げる。

わたしはため息をひとつついた。


「パドックで馬を見てからじゃないと馬券は買えないからなぁ」

孝太さんはそんなことを言いながら、わたしをスタンドのそばに連れて行く。

そこには大きな大きな馬たちがいる。

「すごく大きいね。テレビで見るのと全然違うねぇ」

わたしが言うと、孝太さんはうんうんと頷いてこう答える。

「サラブレッドとは別物だからねえ。この馬たちは体重1トンくらいあるんだよ」

「そんなにあるの!?」

「うん。サラブレッドは500キロもあれば大きい方だけど、この馬からすれば半分くらいだもんな。そりゃ大きく見えるわけだ」

「すごいなぁ……」

わたしは圧倒されてた。

こんな大きな馬が走るんだもんなぁ。

「はは、走るんじゃないよ。重りを積んだそりを曳いて歩くんだ」

孝太さんが教えてくれる。

「そりを?」

「うん。ほら、向こうが馬場なんだけどさ。見てみ?」

孝太さんが指差す方を見る。

砂を敷き詰めたコースに大きな砂山が見える。

「奥からこっちに向かって、そりを曳いて歩くんだ。もちろんあの山も越えてね」

「わぁ……」

言葉が出ない。

テレビで見たのは芝生の上を走るだけだったけど、こんな競馬もあるんだ。

そうしてるうちに音楽が流れて、馬たちは通路を通って奥へと歩いていく。

「スタートまでに馬券仕込まなくちゃだ。こっちこっち」

孝太さんはわたしをスタンドの中へと連れて行く。


孝太さんが馬券を買ってるのを横目に、わたしは周りを見回す。

お土産にキャップとか手ぬぐいとかあるみたい。

かわいらしいぬいぐるみとかもあって、少し目移りしてしまう。

「あ、ここにいたのか。なんか買ってくの?」

いつの間にか、孝太さんが後ろにいた。

「ううん。孝太さん頑張ったら買ってくれるでしょ?」

「はは、じゃあ頑張らないとだ。これ食べながら見よう」

手に持ってるのはお砂糖がたっぷりかかったアメリカンドッグ。

それを持って、ふたりでスタンドへ腰掛ける。

寒いのにもいくらか慣れてきたかな。


レースが始まった。

大きなそりを曳いた大きな馬たちが、大きな砂山に挑んでる。

ひと息で登る馬もいれば、膝をついてしまう馬もいる。

最後まで登れずにいる馬もいる。

砂山を越えてゴールまで歩いてる間にも止まってしまう馬もいて。

そうした馬たちに、いつの間にかわたしも「がんばれー」って声が出てた。


「もうすぐメインレースのパドックだよ。見に行こうか」

孝太さんに言われて、わたしも席を立つ。

「ところで、儲かった?」

孝太さんに聞くと、小鼻のあたりをかきながら「うん、まぁね」と返ってくる。

たぶん、あんまり当たってないんだろうな。

お土産は自分で買うしかないかな……。


「よう少年、今日は来てたのかい?」

孝太さんが呼び止められてる。

「少年じゃないですよ。てかシゲさんも久しぶりですね」

孝太さんの顔なじみらしい。初老のおじさんと話が弾んでる。

「ところで少年、後ろの人は彼女かい?」

「嫁の千里です。千里、この方は競馬仲間のシゲさん」

紹介されたんでお辞儀をする。

「千里さん……そうかぁ。うんうん」

シゲさんは頷き、孝太さんにこう言った。

「メインのレディースカップな、7番から買おうや」

孝太さんはびっくりしたようで、「ええ!?ブービー人気じゃないですか。本命党のシゲさんらしくない」って言ってる。

「たまにゃあロマンも必要だべさ。それに、嫁さんの名前で買ったらいいことあるんでないかい?」

シゲさんはそう言ってニヤッと笑う。

「ま、馬見て来たらいいしょ。見たらわかるってばさ」

シゲさんはそれだけ言って、どこかへと行ってしまった。


パドックに来た。もう馬たちが集まって来てる。

「ねぇ、さっきの方が言ってた、わたしの名前ってどういうこと?」

孝太さんに聞いてみる。

「7番の馬ね、名前がサカノチサトって言うんだよ」

「サカノチサト……、わたしとおんなじ名前ってことね」

「うん、ほら出てきた。あの馬だよ」

言われる方を見ると、たてがみに白い髪飾りをつけた馬がいた。

ふんふんと鼻を鳴らし、紺色の服の騎手を背中に乗せて歩いてる。

「……なんだかロバみたいな顔ね、かわいい」

つい口に出てしまう。

「出来はいいんだろうけど相手強いもんなぁ。どうかなぁ」

孝太さんは馬を見ながら悩んでるみたい。

同じ名前ってだけなのに、なんだか自分がパドックで歩いてるような気になってきた。

音楽が鳴って、馬たちがスタート地点へ歩いていく。

もうひとりの自分が競馬に出る、そんな気持ち。

なんだか、ドキドキしてきた。


「……孝太さん」

「ん?どした?」

「わたしの、ううんサカノチサトの馬券買って」

「ええっ!?」

「わたしが出るんだと思って買って。お願い」

「それなら単勝一本だな。わかった」

孝太さん、そう言って馬券を買いに行こうとして、立ち止まった。

「そしたらさ、第一障害の前にいて。買ってくるから」

「小さな砂山のとこだよね、わかった」

言われたとおり、わたしは砂山の前まで歩いていく。

すぐ横をサカノチサトが歩いてる。

「……チサト、がんばれ」

後ろ姿に声をかける。

サカノチサトは尻尾をぶんっと振って歩き続けた。


砂山を越したところに立ってると、孝太さんが馬券を買って来た。

「言われた通りに買ってきたよ。でもどうしたの、急にあんな事言うって思わなかったよ」

「……わからない。わからないけど、なんだかもうひとりの自分が出てるような気がしたんだ」

「そっかぁ。じゃあ千里がそり曳いてるつもりで応援しなきゃだな」

「うん。……頑張ってくれるよね」

「そりゃあ間違いない。あの馬は頑張り屋さんだから……って、そこも千里だな」

「わたしそんなに頑張ってるかな」

「そりゃもう、俺が認めるくらいだもん……。お、そろそろスタートだよ」

ファンファーレが鳴って、馬たちがゲートに入る。


ガシャン。

ゲートが開いて、馬たちが歩き出す。

小さな砂山を越えると、止まったり歩いたり。

わたしと孝太さんも一緒に馬たちを追いかけて歩く。

そうして、大きな砂山の前にみんな集まった。

馬たちの鼻息がナイター照明で光って見える。


「問題はここから、第二障害!」

場内放送の実況の声が聞こえる。

馬たちの集まりの中から、一頭また一頭と砂山に挑んでいく。

サカノチサトはまだ動かない。

「チサト、行けっ」

つい声が出る。

寒さなんか、もう忘れてた。


その途端、サカノチサトが猛然と砂山に挑んでった。

力強く、一歩ずつ砂の山を登っていく。

砂山のてっぺんでは4番目。

「チサト、チサト!!」

ひたすら声を出して応援する。


サカノチサトは砂山を降りると、重たいそりをつけたまま駆け出した。

わたしたちも小走りでついて行く。

一頭、また一頭と前を行く馬を抜いて、先頭を追い詰めて行く。

「チサト行けええええええええ」

孝太さんも大声で応援してる。


サカノチサトが先頭を捉えて交わす。

そのまま突き抜けた先がゴール。

「勝っちゃったよ……。チサト頑張ったなぁ……」

孝太さんは半分呆然としながらこっちを振り返る。

わたしは、なんだか嬉しかった。

自分が頑張ったのが認められたみたいで。

なにより、もうひとりの自分が頑張ったのが嬉しくて。

「チサト頑張ったよね……」

それだけ言ったら、涙が止まらなくなった。

「頑張ったよね、頑張ったよね……」

もう、それしか言えない。

孝太さんは、そんなわたしの頭を撫でてくれた。


最終レースの前にお土産コーナーに連れてきてもらう。

「何買ってもいいよ。チサトのおかげで晩ごはんどころか贅沢していいくらい儲かったからね」

孝太さんはニコニコしてる。

「じゃあ……、これにする」

わたしが手にとったのは小さな馬のマスコット。

なんだか、チサトに似てる気がしたから。

そうして、最終レースまで見たわたしたちは家路についた。


あれから何ヶ月か経った。

サカノチサトはあの後お嫁に行ったと、孝太さんから聞かされた。

もう一度会ってお礼を言いたかったけど、どうやら無理みたい。

でも、わたしもチサトだけじゃなく、他の馬にも会いたくなってる。

だから、この間からパートを始めた。

いつも孝太さんに馬券買ってもらうばかりじゃ、悪いから。

それに、この街にも早く慣れたいし。


玄関にはあの日買ってもらったマスコット。

「じゃあ、行ってくる。頑張ってくるからね」

孝太さんは先に仕事に出たけど、一声かけて玄関を出る。

今日も頑張らなくちゃ。

気合を入れてバス停までの道を急ぐ。


あの日見たチサトの頑張りに負けないように。

もうひとりの自分に、負けないように。

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