祖父の誇り

祖父が亡くなってもうすぐ一年。

結婚して家は出たけれど、法事の準備やら手伝いやらで実家に戻ってる。

真新しい仏壇に、真新しい遺影。

その前を通るたび、まだ祖父がそこら辺にいそうな気がする。


両親が法事の準備で忙しくしてるので、わたしが家事全般を引き受けることに。

小さな頃から両親が共働きで、わたしの面倒は祖父母がよく見てくれた。

だから、今回の手伝いはその恩返し。


競馬の好きな祖父は、よくわたしを競馬場へ連れてってくれた。

それなのに、祖父と見たはずの競馬のことはほとんど覚えていない。

まだ小学生だったし、わからない事ばかりだったのかもしれない。

でも、大好きな祖父と過ごしたはずの記憶が残ってないのも、なんだか寂しい。


「ねえ、お母さん」

晩御飯の片付けをしながら、母に聞いてみた。

「おじいちゃんって、競馬好きだったよね?」

「ああ、そうだったわねぇ……。おばあちゃんなら覚えてるかな。わたしらはあまりよくわからないのよ」

母は少し困ったような顔をした。

無理もない。両親とも祖父とは折り合いが悪く、亡くなるまでは祖父の家にも滅多に寄り付かなかった。

葬式も墓も長女だからという理由だけで母が引き受けたが、そうでなければ投げ出していただろう。

わたしは祖父が大好きだったから、そんな両親をどこかで許せずにいる。

祖父母によく面倒を見てもらってたのは、小さなわたしがひとりで家にいるのはかわいそうだと、祖父が母を怒鳴りつけたかららしい。

それならあんたが見ればいいじゃないと母が返して、わたしは祖父母の家によく行くようになった。

「そうだよね。明日おばあちゃんのとこで聞いてくるよ」

「明日は何もないから、おばあちゃんとこでゆっくりして来たら?」

母はそう言って、自分の部屋に戻っていった。


次の日。

わたしは祖母が暮らす施設に向かった。

祖父が亡くなってすぐ、両親は祖母をこの施設に入れてしまった。

身体が弱く、脚も弱った祖母を自宅で面倒見きれないというのは表向きの話。

要は施設へ厄介払いしたようなものだ。

そのことも、わたしは両親を許せずにいる。


「ここで新しいお友達も出来たし、るいちゃんが気にすることもないのよ」

祖母はそう言ってニコニコしてる。

「そういえば、おじいちゃんって競馬好きだったよね?」

「ああ、るいちゃん覚えてたんだねえ。おじいさんとよく大井の競馬場に行ってたもんねぇ」

「でもね、そのときの事、全然覚えてないんだ。何かおばあちゃん覚えてる?」

祖母は思案げな顔をして、少し考えているようだ。

「あー、覚えてなきゃ仕方ないけどさ……」

わたしがそう言いかけたところで、祖母が思い出したと言い出した。


「そうそう、一度おじいさんとるいちゃんがすごくニコニコして帰ってきたことあったわよ。確かおじいさんの大好きな馬が大きなレースに勝ったとかで」

「えっ!?どんな馬だった?どのレースだった?」

「レースまではわからないけど、あの日おじいさんすごく上機嫌でねえ……」

祖母が当時のことを話し始めた。


「おじいさん、帰って来るなりボンが勝ったぞーって大きな声で叫んでねぇ。びっくりして何事ですかって聞いたの。そしたらね」

「うんうん、そしたら?」

「中央に行ったボンが大井に帰って来てでかいとこ勝ったんだ。こんな嬉しいことねぇじゃねえか。今日はお祝いだって言ってね。大きなお寿司を出前してもらったんだよ」

「そんなことが……あ!」

わたしも思い出した。

祖父が寿司屋に電話して、今まで見たこともないようなお寿司が家にやってきたんだった。

「それであんなご馳走だったんだね。思い出したよ」

「うんうん。おじいさんたら、ボンは俺たち大井の競馬者の誇りだよ。中央に行ってもこうして大井に戻ってでかいとこ勝ってくれた。こんなめでてぇ事ねぇや!ってそれはそれは嬉しそうでねぇ……」

祖母の思い出話は続く。わたしはそれを聞きながら、自分の中の記憶を探していた。


あの日、祖父はすごく嬉しそうにしてた。

競馬場からの帰り道、普段なら黙って通り過ぎる商店街で「何でも好きなの買っていいぞ。今日は気分いいからなぁ」って笑ってた。

わたしは何かおねだりをしてただろうか。そこまでは思い出せなかった。

その後、わたしの部活が忙しくなって、祖父と競馬場に行く機会がなかったからかもしれない。

大人になってからも競馬とは無縁だったから、なおさらなのかも。


施設を出るともう夕暮れ。

夫の仕事も終わった頃合い。

わたしは夫に電話をした。

夫も競馬好きで、どこか祖父に似た雰囲気をしてる。

祖母の思い出話をして、ボンという馬がどんな馬なのかを知りたかった。

「大井でボン……。それならボンネビルレコードのことじゃないかな」

「え?実さん知ってるの?」

あっけなく名前が出た事に驚く。

「さすがに現役は知らないけどね。ボンネビルレコードなら大井で誘導馬やってるよ」

「誘導馬?なにそれ」

「レースに出る馬を誘導する役目さ。今日は大井のナイターやってるから、一緒に行くかい?」

「うん、行こうよ。実さんと競馬場に行くの初めてだし」

「府中や中山じゃあ混んでて連れてけないなあって思ってたんだ。重賞のない今日の大井ならそこまで混まないだろうからね」

人混みの苦手なわたしを気遣って、夫は遠慮してくれてたみたい。

「じゃあ大井町の駅で待ち合わせな」

電話はそれで切れた。わたしは駅へ向かった。

祖父の大好きだった馬に会える。

それだけで、胸が高鳴った。


大井町で夫と合流して、競馬場行きのバスに乗る。

人混みが苦手になったのは、競馬場の大人たちが苦手になったから。

バスの中でそんな事も思い出していた。

でも、いくら人が多くても、今日は行かなきゃいけない。

そんな気持ちだった。


空はすっかり暗くなったが、大井競馬場はびっくりするほど明るい。

わたしが来ていた頃はこんなだったろうか。

すっかり変わってしまった気がして、なかなか昔の記憶が戻らない。

戸惑うわたしの手を夫が引いて歩く。

「もうすぐメインレースの本馬場入場だって。急ごう」

「う、うん」

わたしたちは小走りでスタンドの間を通り、ゴール板の前にたどり着いた。

「間に合った。もうすぐ出てくるよ」

夫はそう言って、わたしに左側を見ろと促す。

「あそこから出てくるからさ」

その途端、軽快なBGMに乗って、3頭の馬が現れた。


白い馬2頭を引き連れて、先頭を歩く大きな馬。

「あれがボンネビルレコードだよ。立派だねぇ」

夫が感心したような声で言う。

まばゆい照明に照らされたボンネビルレコードは、確かに立派に見える。

スタンドのあちこちから「ボンちゃーん」と声がかかる。

祖父の大好きだった馬。

祖父が誇りだと言った馬。

その馬が目の前を通り過ぎる。


その瞬間、祖父の笑顔が浮かんで来た。

涙が自然とこぼれる。

我慢できずに泣き出してしまった。

「え!?どうしたの?辛いことでも思い出した?」

夫がうろたえる。

「ううん、そうじゃない。そうじゃないの……」

わたしは顔を手で覆って、そう言うのが精一杯だった。

祖父に会えた気がした。

そして、祖父とここに来た記憶をなくしたことを、申し訳なく思ったから。

夫はそんなわたしを抱き寄せた。

誰にも見られないように。


……ようやく落ち着いて顔を上げたら、もうボンネビルレコードたちはいなくなってた。

「もう戻ったよ。これからレースだけど、見てく?」

「……うん。おじいちゃんが好きだった大井の競馬だもの、ちゃんと見ていく」

「それがいいよ。俺も付き合う」

そうして、わたしたちはレースを見た。


「……ねえ実さん」

最終レースが終わって帰る途中、夫に話しかけた。

「ん?」

「また連れてきてもらってもいい?」

「いいけど、るいは大丈夫なの?」

「うん。ここに来たらおじいちゃんに会える気がする。今日そう思ったの」

「それなら、今度は1レースから来よう。俺はおじいさんみたいに格好良く遊べないだろうけど」

「それでもいいよ。おじいちゃんだって格好良く遊んでたんじゃないだろうし」

「……そっか」

夫はそう言いながら、わたしの手を握った。

わたしも握り返して、こう言った。

「また、ボンに会いに来よう」


祖父の大好きな馬。

祖父の好きな競馬場。

わたしも好きになりそうな気がしてた。

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