少年と消しゴム

秋田健次郎

少年と消しゴム

 手提げカバンの中に筆箱と教科書とそれからノートが入っていることをしっかり確かめる。


「いってきまーす 」


 と僕が玄関から叫ぶと台所にいるお母さんも


「いってらっしゃーい 」


 と同じくらいの声の大きさで返してくれる。


 今年の春から小学4年生になった僕は土曜日と日曜日に塾に通い始めた。塾というと高学年って感じがして僕は少し誇らしく思っていた。


 塾に通い始めて2か月くらいが過ぎた頃、つまりちょうどセミが泣き始めた時期にもなると僕は一人で塾へ向かうのにも慣れて次第に寄り道をするようになった。


 最初はいつも通る道の一つ向こうを通ってみたり、大きく遠回りして川沿いの道を歩いたりもしてみた。そんなことをしていたある日、僕は見たことのない公園を発見した。


 滑り台とジャングルジムとそれから砂場まであってこれほど大きい公園が近所にあったことに気づかなかったなんてと少しショックを受けたりもした。


 僕はなんとなくその公園に入って、ボロボロの木のベンチに座った。とは言っても所詮ただの公園でしかないのですぐに飽きて立とうとした時、僕の隣に知らないお姉さんが座った。


 お姉さんは僕の持ってる手提げカバンと似たようなものからスケッチブックと鉛筆を取り出して、絵を描き始めた。


 なぜだかその様子に気を取られてぼーっと眺めていると僕に気がついたのかお姉さんは


「どうしたの? 」


 と聞いてきた。僕は高学年で知らない人に話しかけられてもちゃんとお話することができるので


「えーと、お姉さんは絵を描くのが好きなんですか? 」


 と答えた。我ながらいい返事だったと思う。


「そうだね、絵はいいよー。君はどう?お絵かき好き? 」


「ええと、まあまあです 」


「あはは、まあまあか。まあ、嫌いじゃないだけいっか 」


 お姉さんの笑った顔は担任の先生とかお母さんとか同じクラスの女子より可愛く見えた。そう思った瞬間になんだか急に暑くなってきた。太陽がちょうど真上に登る時間帯が一番暑いのだと理科の授業で習ったのできっとそのせいだと思う。


「図工の時間に描いたりはするけど 」


「おっ、図工、懐かしいねー。あったあった 」


 お姉さんはそう言いながらも手に持つ鉛筆をさらさら動かしながら向かい側にあるジャングルジムと大きな木を描いていく。でもそれは普段僕たちが描くような絵とは違っていて、薄くて雑な感じの、プロっぽい絵だった。


「なんか、プロみたい 」


 僕は思ったことを思わず口に出していた。


「あはは、プロなんかじゃないよ。ただの絵が好きなフリーターだよ 」


「フリーターってなんですか? 」


 僕は聞いたことのない単語だったのですぐに聞き返した。分からない事はその場ですぐに聞くのがテストでいい点を取るコツだ。


「ええっとね、フリーターっていうのはこう、あんまりちゃんとしてない人というかねー。ああ、もちろんそうじゃない人もいるんだけどね。難しいなー 」


 お姉さんの説明でフリーターについて分かった事は説明が難しいということだけだった。あとで塾の先生に聞こう。


「お姉さんはいつもここで絵を描いてるの? 」


「いつもじゃないけど最近は結構この公園で描いてるね。遊具とかあと植物も結構あるからいい感じに練習できるんだ 」


 お姉さんは消しゴムでジャングルジムの一番上の段を消した。


「へー 」


 僕はそう言いながらお姉さんの絵をじっと見ていた。この細い線がぐちゃぐちゃに混ざった絵がこれからどうなるのか気になったからだ。


「君こそそんなカバン持って、これからどっか行くの? 」


「このあと塾があるので 」


「そうなんだ、こんなとこで油売ってる時間あるの? 」


「油? 」


 お姉さんは僕が油を売っているように見えたのかな。確かに今日の夕飯は天ぷらだけど。


「あはは、まだ知らないか。まあ、これから知ればいいよ 」


 お姉さんは僕の知らない言葉をずいぶんと知ってるので賢い人なのかなと思った。フリーターというのも、もしかするとすごい何かなのかもしれない。


 細くてぐちゃぐちゃな線は少しづつ確かな線になって、目に前の光景が一枚の紙の中に出来上がっていった。そんな中でも時間は過ぎてしまうもので、気がつくと塾の時間になっていた。


「もうすぐ塾の時間だ 」


「ならお別れだねー。頑張れよー若者 」


 お姉さんは濃い鉛筆の線でジャングルジムの一番下の段を創った。


「はーい 」


 僕は手を振って駆け足でその場を去った。公園から出るときにお姉さんの方を見たけどお姉さんは真剣な顔でスケッチブックを睨んでいた。


 しばらく歩いて、大通りに出ると信号が赤だったので僕は立ち止まって、手提げカバンの中をもう一度確認した。忘れ物をしないというのが4年生の目標だったからだ。


 筆箱と教科書とそれからノート、あとこれは……


 手提げカバンの底に見覚えのない消しゴムがあった。いや、多分見覚えはある。お姉さんが使っていた消しゴムだ。間違えて入ってしまったのだろう。


 僕は今来た道をUターンして、走った。公園に戻れば絶対に遅刻してしまうというのに僕はなぜだか少し笑っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

少年と消しゴム 秋田健次郎 @akitakenzirou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ