幕間

心地よく二人だけの場所

 『9つの同じ外見の球があり、その内1つだけが他の球よりも重い。さて、上皿天秤だけを使って重い球がどれかを確実に当てるには、最低何回上皿天秤を使う必要があるでしょうか?』


「……だってさ、朱莉」

「え? うーん、ヤバい、全然分かんないよ!」


 あれから半年が過ぎた。

 その間俺は、朱莉と一緒に色々なことをした。

 朱莉は基本真面目なくせに体育や委員会を度々休んだり、学校にも来ない日があったりと自分勝手な面が多少あったけど、授業の合間の休み時間には一緒に本を読んだり、話をしたりしたし、放課後には一緒に喫茶店に行ったりもした。

 楽しかった。本当に楽しかった。

 『楽しい』という感覚を理解したのは、この時だったかもしれない。

 俺が楽しいと感じるときはいつも、隣に朱莉がいた。

 自分の世界に引きこもりがちな俺を、率先して連れ出してくれたのだ。

 そのおかげで俺は以前より社交的になり、性格もいくらかポジティブになった。

 身だしなみに一番気を使っていたのもこの時期だ。

 朱莉には『詳って明るくなったよね!』と言われていて、満更でもなかった。

 ――この日も、放課後になって急に振ってきた雨をしのぐため、近くの喫茶店で2人一緒にクイズの本を眺めていた。

 朱莉はミステリー好きを自称している通り、『謎』が大好きだった。

 だから、こういうクイズで遊ぶのも日常茶飯事。

 ……ただし、『謎』が好きなくせに自分では解けないから、結局いつも俺が解いていたのだが。


「――これは、『2回』じゃないかな?」

「え? どうして? 3回だと思ってたのに!」

「えっと……最初に球を3つずつ3グループに分けて考えれば良いんだよ」

「んん? どういうこと?」

「まず、2つのグループを上皿天秤に乗せて測る。そこでどちらかの皿が傾けば重い球はそのグループの中にある。傾かなければ残りの1グループの中にあるよね」

「あ! 分かった! それでそのあとは、重い球が入っているグループで同じように3つの内1つを除いて2つで測れば良いんだね!」

「うん。そこで皿が傾けばそれが重い球だし、傾かなければ除いた1つが重い球」

「うわぁ! 詳はやっぱ凄いね!」

「ううん、偶々だよ……」


 この問題は、小学生の時に偶然、算数の教科書のおまけページで見たことがあった。

 要するに知っていたのだ。

 だから答えられるのは当然なのだが、朱莉に褒められるといつも嬉しく感じた。


「はい、お2人さん。ご注文のロイヤルミルクティーとレモンティーよ」

「マスター、ありがとうございます」

「早速いただきますね!」


 マスターが持ってきたオシャレなカップに、口を付ける。


「やっぱりマスターの紅茶は最高ですね! ね? 詳!」

「うん。やっぱりここのロイヤルミルクティーが一番おいしい……」

「それは良かったわ。今後ともごひいきにね」


 ニッコリとほほ笑むと、マスターはキッチンへと戻っていく。

 思えば、この頃からマスターは変わらず美人だった。


「レモンティー美味しいなあ……妹もこの美味しさが分かると良いんだけどなぁ」

「へぇ、朱莉って妹居たんだ?」

「うん。偶にここにも一緒に来るよ! 最近は忙しいみたいで、あんまり来れてないけど」

「忙しい?」

「受験生なんだ。だから仕方ないよね」


 朱莉には似合わない沈んだ顔をすると、窓の外に視線を向ける。

 そして、ぱっと明るい表情に戻った。


「あ、詳、見て! 虹!」

「え?」


 言われて自分も窓の外を見ると、雨上がりの路地に綺麗な虹がかかっている。


「凄い……綺麗……」

「あぁ……綺麗だね」


 この時までの俺なら、この発言は嘘ということになっただろう。

 虹が見たいなら、ネットでプロが撮ったもっと綺麗な画像をいくらでも見れるし、そもそも七色のグラデーションなんて見たところで何の面白みもない。退屈な景色だ。

 まぁ、この時までは虹に限らずどんな景色も好きではなかったのだが。灰色に、濁って見えていたから。

 でも、この時は違った。


「ねぇ、詳、虹ってどうやって出来てるのかな?」


 朱莉の唐突な問いに、最近物理の授業で習ったことを思い出す。


「えっと、確か雨粒による光の散乱が原因だったかな。物理の先生が言ってた」

「へぇ……私は文系だから分からないけど、物理ってすごいんだね! もしかして空がなんで青いのかもわかったりする?」

「あぁ……空が青いのはレイリー散乱、雲が白いのはミー散乱だって聞いたよ」

「れ、れいり? みー?」

「太陽光は波長の短い紫外線から、波長の長い赤外線までが集まってできたもので、それが空気中の粒子にぶつかると、散乱するんだ」

「ほ、ほぉ?」

「それで、波長ごとに異なった分散の仕方をすることによってそれぞれの色に分かれるんだけど……」

「う、うん。それで?」

「ぶつかった粒子が光の波長より小さいものだった場合、例えば空気中の酸素分子とか窒素分子とかの場合、青い系統の光が拡散して青く見える。これがレイリー散乱」

「へぇー」

「光の波長と同じくらいの大きさの粒子にぶつかった場合、例えば空気中の水分の場合は、どの波長成分も同じくらい拡散して白く見える。これがミー散乱」

「よく分からないけど、やっぱ詳はすごいや」

「そうかな?」

「うん。詳ならもしかしたら、学者さんになって色々なことが解明できるかもね。それってとっても面白そう……」


 その時の朱莉の眩しい瞳に惹かれて、不思議なことにアリだと思えた。

 これまでは、自分の知らない世界がどうなっていても全く興味がなかったのに。

 知らない世界を解き明かすのは、もしかしたら楽しいかもしれないと、そう期待した。

 例えその結末が、「何の面白みもない景色」だったとしても。

 それすらも楽しいのかもと、そう思ってしまった。


「――俺、将来物理学者になろうかな」

「お、いいね! じゃあ詳は物理学者になって、私に色々解説してね! ……私には無理だから、期待してるね?」


 何故か、朱莉は一瞬悲しげな顔をしたのを覚えている。

 物理が苦手で自身が学者になれないことが、よほど悲しかったらしい。


「……解説したってどうせ分からないんじゃないの?」

「あ、酷い! 私にも分かるように説明するのが学者の仕事でしょ!」

「はいはい」


 俺がやれやれと首を振ると、朱莉は急に優しげな目を向けてきた。


「……でも、良かった。詳がこんなに明るくなって。出会った時は死んだような目をしてたもんね!」

「そういうこと言わないでよ……」

「ごめんごめん。……でも、これで私も何かを変えられたのかな」

「え?」

「ううん。何でもないよ! 雨も完全に上がったし、そろそろ帰ろっか」


 喫茶店から、2人で雨上がりの街に出る。

 いつも見ていた代り映えしない景色、空虚な日常、孤独な日々。

 縛られているわけではない。誰かに何かを強制されているわけでもない。

 俺は自由なはずだ。はずだった。

 それなのに、まるで透明な檻にでも入れられているかのように、窮屈で息苦しかった。

 生きる意味が、存在する理由が欲しかった。

 こんな日々を過ごしているのは、いつか何かのためだって。

 しかし、この日見た街の景色は、初めて輝いて見えた。以前に感じていた灰色など全く感じなかった。


「詳! 一緒に歩こう!」


 彼女はスカートを風にたなびかせながら、右手を差し出してきた。

 蜜を探し疲れた蜂の前で満開の花を咲かせてみせるように、魅惑的に微笑む。

 不覚にも、胸の高鳴りを覚えてしまった。頰が紅潮していくのを感じる。

 奇跡的なタイミングで雲間から光が漏れ出し、目の前の女性を輝かしくライトアップする。

 そして、彼女は、俺の脳裏に浮かんだその言葉を違わずに言い放った。


「何だか楽しいね、詳! 私今、『すっごい充実』してるよ」


 そう、俺はいつの間にか、充実していたのだ。

 ――誰のおかげなのか、そして彼女に感じているこの気持ちの正体も、もう分かっていた。


「……ねぇ、朱莉。今度の日曜日さ、2人で出かけない?」

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