二章 割引券盗難事件

2-1 既に匙は投げられた

 眩しい日差しが瞼を焦がす。

 それを感じ、朦朧とした意識のまま目を覚ました。


「あー……後3日だからか……」


 沢山の汗をかいてパジャマはビショビショ、喉も乾いてひりついていた。

 振られた日が近いこの時期は、いつもあの夢を見る。悪夢だ。


「クソ……」


 悪いことはさっさと忘れようと頭を振り、部屋を出た。

 必要なもの以外は何もない、テーブルとテレビのみが置かれた、いつもの殺風景なリビングに入る。


「……」


 挨拶をする相手は――いない。当然だ。一人暮らしなんだから。

 黙って朝食の準備をする。

 思えば、大学に入ってから4年になるまでの3年間は、ほとんど言葉を発していない気がした。

 ここ最近は、貴理のせいで多少騒がしくなっているが。


「……」


 冷蔵庫の中を覗いてみると、そのまま食べられるものは昨夜買った弁当の残りしかなかった。

 レンチンだけで食べられるものは便利だが、今日は気分じゃない。

 残飯は放置し、ハムエッグトーストとミルクティーを用意する。

 やはり朝はこれに限る。

 用意した飯をテーブルまで運び、席に着く。


『今日の天気についてお伝えします。東京では……』

『政治家、鳴近氏の汚職疑惑について……』


「……」


『ねぇ、何読んでるの?』

『……あんたは多分、パズルが解けることからくる全能感が好きなのよ。その時だけは、自分が優れている気がして。……違う?』


「……っ!」


 適当にテレビを流し見していたはずが、気が付くと別のことを考えていた。

 一度見た悪夢の残滓は、そう簡単には消えてくれないらしい。

 それに引きずられて、昨日の貴理の言葉まで思い出してしまった。気分が悪い。


「チッ……」


 ささくれだった気持ちを変えるべく色々とチャンネルを回してみるが、どこもかしこも退屈な番組しかやっていない。


「はぁ……」


 止めよう。不毛だ。

 チラリと壁にかかった時計を見る。講義まであと1時間。

 今日も、教授の退屈な講義を聞きに出かけないとならならない。

 朝から憂鬱で、とても大学に行く気になれないというのに。

 まぁ、行きたくないのはいつものことだが、部屋のベッドにもう一度ダイブして、気がすむまで眠りたい。

 ……本当に、どうして俺はこんなことをしているんだろうか?

 着替えをして出かける準備をしながら、いつも同じことを考える。

 頑張って勉強して理解したとしても、その先に待つのは何なんだろうか?

 今より幸せな未来が想像できない。

 頑張ることに意味なんてあるのか?

 俺は何がしたくて大学に入ったのか。

 大学に入って何か為すことが出来たんだろうか?

 ……いや、毎日毎日、この雑多な街で靴底と何かをすり減らしているだけだ。


「……」


 昨日も着た黒い薄手のカーディガンを羽織り、アパートを出ていつも通りの道を進む。

 閑静な住宅街を足早に歩き去って街の東側を抜け、大学のある西側、人の多い繁華街を歩き始めた。

 いつもと変わらぬ人の多さに、思わず顔を伏せる。

 それで不快なものを見ることは避けられたが、生憎と耳はふさげない。

 幾人もの声が混ざり合った『ざわざわ』という不協和音も、今ばかりは俺の心を激しく揺さぶった。


「クソ……」


 人が多いところは嫌いだ。

 なぜなら――いつもより、強く孤独を感じるから。

 1人でいることに孤独を感じるという奴もいるが、俺は違う。

 むしろ多くの他人の中にいる時こそ孤独を感じる。

 多くの人が行きかう繁華街、沢山の学生が集う大学、混雑時の飲食店……

 こんなに沢山人がいるのに、きっと、この中で俺と同じ人間はいないのだ。

 下らない。今の全てが下らない。

 退屈な講義はもちろん、孤独な一人暮らしも、この街での生活も。

 いつからこうなってしまったのか、原因は分かっている。

 ――そもそも俺の人生は元から、ほとんどが退屈に支配された灰色だった。

 ある、一時期を除いては。

 あの時期だけはそう、景色が色づいて見えていた。


「寒い……」


 周囲の建物の影響により局地的に吹く強風で感じた寒さに、もう一枚上着を着てくれば良かったと後悔する。

 今はもう初夏だ。だが寒い。通りに植えてある木々の葉が、灰色にくすんで見えるほどには。

 大学までの道はまだ遠い。

 道すがら軽く走れば、少しはあたたまるのだろうか?

 しかし、それは酷く億劫だ。

 あたたまったところで、代わりに疲れてしまうだけではないか。

 結局、寒さに耐えて普通に歩くことにする。


「……」


 もう何度も何度も考えて、堂々巡りの先に行きつく答えはいつも同じだ。

『あの時は、結局無駄だった』

 ――知らないということは、ないのと同じだ。

 それを、自分の知らない誰か、もっと言えば自分以外の全ての人が手にしていても、平静でいられる。

 だが、もし知ってしまったら? 理解してしまったら?

 ……絶対に手に入らないものを眼前にさらすことは、きっと何よりも残酷だ。

 今感じているこの感情は多分、羨望。そうに違いなかった。

 人の壁の前に、歩みはいつの間にか酷くゆっくりなものになっている。

 とぼとぼと形容するのが妥当なそれは、まるでずっと停滞しているかのようで。

 いつまで経っても、前に進める気がしなかった。

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