その夜が明ける時

 北を向く船の舳先へさきは、澱んだ泥の海を勢い良く切り裂きながら進み続ける。

 時折、はねた泥が身体を汚すが、居並ぶ兵士たちに頓着する様子はない。

 ニューヨーク守備隊。

 来寇するキングストン軍を迎え撃つべく編成された彼らは、拙速とも言えるほど速やかに防備を整えると、まだ日も昇らぬ払暁ふつぎょう、北門に繋がるフロートを急上昇させ、誰にも見送られぬままニューヨーク集住地を後にした。


 それから1時間。


 出発時にまだ残っていた闇夜は、東の地平線から登り始めた陽光によって消え始めていた。新しい朝に照らされ、次第に兵士たちの姿があざやかに浮かび上がった。


 盾、剣、弓矢。それが彼らが身にまとう武器であった。およそ、戦闘を行うために必要最低限の装備である。銃を装備した兵士がいるものの、十分な数が揃っているとはとても言えない。

 あたかも中世に逆戻りしたかのような軍備の数々は、巨大地震の爪痕の深さをありありと示していた。軍需産業だけではない。民需でさえ、いまだ巨大地震発生前の1割にも満たない生産能力しか有していない。


 もともと商業主義的性格の色濃いニューヨーク集住地では、民需産業の回復は軍需に優先されているという事情があり、他の集住地と比較しても貧弱な軍しか編成できなかった。

 だが、キングストン軍の兵力は、守備隊のおよそ2倍。しかも幼少期より兵士としての教育のみを受けてきた精兵で構成されている。

 数においても、兵の質においても、ニューヨーク守備隊の劣勢は覆い隠しようがなかった。

 「死地に飛び込む」という言葉が、客観的に見てこれほどまでに当てはまる戦場はまれだっただろう。無論、彼らが死地に飛び来まなければならなかったという違いはあったにせよ。


 しかし、だからと言って自暴自棄になっている兵士は、乗合船の甲板の上にはいなかった。

 武具を研ぐ者。瞑想にふける者。思い思いに時を過ごす彼らからは、これから始まる戦いを心待ちにしている様子さえ見て取れた。

 これは決して、恐怖のあまり気がふれてしまったしまったのではない。

 彼らは信じていたのである。彼らを率いるただ一人の人物に従えば、必ず生きて帰れることを。必ずこの閉塞した状況を好転させてくれるであろうことを。

 彼らが全幅の信頼を置くその人物は、凸形陣をとって進む乗合船団ので髪に風をまとい、敵が待つであろう北の方角を静かに見据えていた。

 ジョン・ボタニカルシャンプー

 ニューヨーク集住地でサルベージ・グループのまとめ役を務める彼の眼前には、どこまでも続くハドソン川の泥流があった。


「ニューヨーク集住地からどのくらい離れた?」


 ジョンはハドソン川の泥流から、傍に立つ副官へと視線を移しつつ、そう尋ねた。声を張ったはずだが、強風がたちまちその声をかき消していく。

 尋ねられた副官ライアン・リボルバーライフルは、声が風を縫って届くよう、口に手を当てながらジョンの質問に答えた。


「まだ20キロと言ったところでしょうな。この速度では仕方がない」


「周辺に”敵”の斥候部隊はいるのか?」


「キングストン軍の斥候部隊は影も形もありません。同じく”ニューヨーク集住地”の斥候部隊の姿も見えません」


「キングストン軍との接触予定地点に変わりはないか?」


「敵さんの進軍速度がはっきりしないので何とも言えませんが、隊長の進軍計画であれば十分前乗りできるでしょう」


 ライアンは、ジョンの質問の意図を正確に理解し、自分の生まれ故郷を“敵”と表現した。

 ジョンは自分の意を十分に汲んだライアンの答えに苦笑いを返しながら、ここ両日で激変した自らの立場に思いを馳せた。


 今回の戦いで名士層が立場と正当性を得るためには、あるストーリーが必要になる。

 それは、血気にはやった守備隊が、キングストンとの間に"無意味な”戦端を開いて全滅し、名士層が外交交渉によってキングストンへの無血降伏を”何とか勝ち取った”というものだ。

 さぞ、今頃は、ニューヨーク中で守備隊の出撃に対する讒言がばらまかれていることだろう。


曰く、「キングストン軍を撤退させるための名士層の外交努力を無為に帰す暴挙」


曰く、「守備隊を構成するサルベージ・グループは、ニューヨーク集住地の寡頭独裁を狙っている」


曰く、「恐怖のあまり気がふれたジョンに先導された、無秩序な暴力集団」


 讒言というものは、作ろうと思えば無からも作り出すことが可能であり、どれほど無垢な者であっても逃れることは難しい。

 すでに名士層によるプロパガンダが始まっているであろうニューヨークの状況を考えると、たとえ戦いに勝って帰ったとしても、今までと同様の生活を続けることは、もはやできないだろう。


「考えるべきことは多く、守るべき仲間もまた多い、か」


 ジョンは少しばかり心労を覚えたが、それをおくびにも出さず、副官に新たな指示を与えた。


「これより進軍速度を上げる。全軍に最大船速を取るよう伝達」


「了解しました!」


 ジョンの命令に応じてライアンがその太い腕を振り上げると、兵士たちは甲板上で一斉に加速に耐える姿勢を取った。そして、兵士たちが体勢を整えた数瞬後、全ての乗合船の動力機はフル回転を始めた。

 そうして最大船速を得た乗合船団は、僅かな間に、さらに北へ北へ、ジョンが設定した戦場へと進出していった。


 船のきっさきは先ほどにも増して鋭く泥を切り裂き、強風は身体を叩いてあっという間に後方へと流れ去っていく。


「美しい朝日ですな。闇夜が逃げていくようだ」


 ライアンは右手に昇る陽光を眺めながら、新しい朝をそう表現した。

 詩人の心というのは、宿り先に頓着しないのだなと可笑しく思いながらも、ジョンは別の言葉を口にした。


「ただの朝日でも、こんな状況なら心に染みるものだね」


「ガラにもないことを言ってしまったものです。これが最後の朝日かもしれないと思うと、つい」


「・・・負けると思ってるのかい?」


 守備隊の敗北は誰が見ても必至であり、ジョンの質問は、その意味で不遜とも言えるものだった。

 ライアンはしばらく言葉を選んでいるようだったが、やがてゆっくりと口を開いた。


「死ぬとは思っていませんよ。ただ、そうですな、出来ることならこんな時代に生まれたくなかった。土の匂いを知らず、土の固さを知らず、草の柔らかさを知らず、春の、夏の、秋の、冬の大地の実りを知らない、こんな時代にね」


「・・・・・」


「もっと言えば、別の形で自分の名前を社会に広めたかった。こんな泥に覆われた世界の片隅の、ちっぽけな集住地に住む蛮族などではなく、もっと正道を行く者として」


「・・・ライアン、君は」


「・・・すみません、感傷が過ぎたようですな。自分はもう少し逆境に強いと思っていましたが、なかなかどうして、これも新しい発見ですな」


「こんな状況さ。仕方がない」


「隊長はあまり変わった様子が見えませんな」


「そうでもないよ。本当は全てを捨てて、どこかに逃げ出したいとさえ思っているよ」


「逃げる先があれば、ですかな」


ジョンは、ライアンの質問には答えず、代わりにポツリとつぶやいた。


「いずれにせよ、大なり小なり血は流れてしまうようだ」


「・・・これからの戦いの話ではなさそうですな」


「・・・・・」


「隊長、この際だから聞いてみたいのですが、あなたは戦いの後で名士層をどうするつもりなのですか」


「どうもこうもないさ。実際のところ、名士層がキングストンと密約を結んでいるという物理的な証拠は何もない。だから、我々には彼らをどうすることもできない」


「そんな馬鹿な」


「仕方のないことさ。第一、彼らがラフプレーをしたからといって、我々までラフプレーを始めたら、一番困るのは一般のニューヨーク市民だ。市民に実害を与えてまで復讐を行う権利は、我々にはない」


「だとすると、また同じような企てがなされるのでは」


「その時はその時さ」


「本気ですか?」


「本気さ。何か賭けようか?」


「・・・いえ、それには及びません。しかし、あまりに甘すぎる気がして」


「甘すぎることはないさ。それに、言っただろう? "我々は”彼らをどうすることもできない、と」


 ジョンは、一つの単語をことさらに強調しながら、再度同じ言葉を繰り返した。

 ライアンは、禅問答のようなジョンの返答にしばらく首を捻っていたが、悩むことは気質に合わないのか、やがてくるりと向き直ると、力強く言葉を足した。


「まあ、いずれ分かることですな。今は深くは聞きません。ただ何が起ころうと、私はあなたに全てを託し、ついて行くだけです。たとえ、敵が誰であろうとも。それだけは覚えておいてください」


 ライアンが身体に相応しい豪快な笑い声を残して甲板を去ると、後には暖かな朝日とジョンだけが残された。


「・・・自分たちの故郷を”敵”と呼ばなければならないとはな。これが運命というなら、我々は前世でよほどの悪事を働いたのだろう」


 ライアンの述べたとおり、確かにジョンは普段と変わった様子があるようには見えなかった。しかし、その瞳をのぞき込めば、青い怒りの炎が燃え盛っていることに気が付いただろう。あたかも平静を保っているような彼の態度は、高度な自己統制の結果であった。

 独り残った甲板上で、ジョンは流れ去る泥を睨めつけると、だが、と一人言葉を継いだ。誰に聞かせるでもない、彼自身の誓いとして。


「だが、運命など知ったことか。緩やかな社会の変革を望んでいたが、“敵”がそう来るなら、我々も望んで“敵”となろう。たとえ急進的な革命になろうとも、今さら命乞いする暇は与えんぞ」


 ニューヨーク集住地において、これまでのジョンの評価はそれほどきらびやかなものではなかった。両親はともにただの一市民であったし、ジョン自身、出世や名誉とは無縁であった。

 強いて上げれば、調整能力を買われてサルベージ・グループの代表を担うようになったことが、唯一目を引く経歴ではあったが、名士層による実質的な寡頭体制が敷かれるニューヨークでは、それはむしろ立身に不利な経歴であると言えた。


 だが、ニューヨークの永遠の支配を夢見る名士層の狂乱は、キングストン軍の来寇を招き、結果的にジョンを弱兵とは言え一部隊の指揮官へと押し上げた。

 そして、その立場の変化は、ニューヨーク集住地の体制を変革しうる可能性と選択肢を彼に与えた。名士層は、自分たちに敵対する新興勢力をパージするという極めて合理的な判断に基づいて、結果的に自分たちの足元を崩す事態を引き寄せたことになる。


 朝日はすでに地平線を過ぎ、闇夜はいずこかへ霧散した。中天へと昇り始めた太陽から届く日の光は、暗く冷たい宇宙空間を経て、暖かな熱を地表に伝え始めている。

 やがて日の光は泥を温め、泥流を大きくした。夜間に泥中へと引きずり込まれていた漂流物は、ゆっくりと撹拌され、ぷかりぷかりと泥中から浮かび上がり始めた。

 遥か先、いつか来るであろう泥が固まるその日まで、人の営みに関係なく地表で繰り返される、無感情な連鎖反応。人類に新たな文明形態を選ばせた、巨大地震の忌み子。

 誰もが心の底から憎む無機質な運動を睨めつけながら、しかし、ジョンは一人密かにこの戦いの勝利を確信した。

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