暁の出撃


「なに、もう出撃しただと!?」


 まだ太陽も上りきっていない払暁ふつぎょう、部下からの緊急連絡を受けたフェラーリ氏は、慌ててベッドから跳ね起きた。部下からの連絡は、彼にとってそれほどに驚くべきものだった。


 昨日結成されたばかりのジョン・ボタニカルシャンプー率いるニューヨーク防衛隊は、宵の内から遠征の準備を整え、フロートを使ってポットを強引に浮上させると、直ちに高速船に乗船して出撃した。

 たまたまその動向を目撃したフェラーリ氏の部下は、防衛隊の姿が泥の地平線へと消えるや否や、近くの通信管に飛びつき、件の報告を自分の主人に忠実に行ったのである。


 起きがけの粘つく唾液を口腔に感じながら、それを吐き出す時間すら惜しみ、フェラーリ氏は報告の真偽を部下に問うた。

 抗争の帰趨きすうを決する重要な分岐点。どれほど細部を聞いても聞きすぎることはないだろう。


「その報告は確かなのか?」


「はっ、間違いありません。先程、奴らは北門に繋がるポットをフロートで急浮上させ、全軍でもって出撃いたしました」


「・・・斥候部隊のみではないのか?」


「斥候にしては数が多過ぎます。あれは明らかに本隊でした」


 主人の問いに、部下は確信に満ちた声で応じた。だが、それとは対照的にフェラーリ氏の声には疑問の調子が含まれていた。


「・・・先程出撃したとなると、キングストン軍との遭遇はどこだと予想されるか?」


「進軍速度自体はゆっくりしたものでした。予想するに、2日後にテナフライ平原で相対するものと思われます」


「ニューヨーク寄りの平原か。・・・ますます考えられんことだ。籠城策を捨て,わざわざ平原に展開して、奴らにどんな道があると言うのだ?」


 キングストン氏は薄くなり始めた頭皮に手を当ててしばらく考え込んだ。

「After Earthquake」(地震の後)以前から他人を罠にはめ、追い落とすことにのみ捧げられてきたその陰々とした知力。それは今、サルベージ・グループの首魁たるボタニカルシャンプーの思考を読むこと一点に集中していた。


(小賢しいジョンのことだ。篭城策を取れば我々の妨害に遭うことは当然予想しただろう。だが、奴がそれに気が付いたところで、他に策が取れないようここまでの条件を整えたのだ。不利を承知で篭城策を取る以外、奴らが取りえる策など他にないはずだ。となると・・・)


「おい、他に気がついたことはないか?」


 フェラーリ氏はやや苛立った声で部下に再度質問した。

 主人が気分を害していることにようやく気が付いた部下は、慌てて出撃の様子を脳裏に浮かべ、やがて恐る恐るといった声色で答えた。


「・・・一点だけ気になることが」


「何だ?早く言え」


「防衛隊の人数は500人と承知しております。しかし、出撃の際の奴らの人数はそれに見合っていないように感じました。多めに言っても400人ほどではなかったかと・・・」


 なんら客観性のない情報を報告する部下は声は消え入らんばかりだった。会話を聞いた者がいれば、その様子に哀れさすら覚えただろう。

 部下は数瞬後に訪れるであろうフェラーリ氏の怒声を予想し身を固くしていた。だが、意外にも通信管から流れてきたのは、主人の愉快そうな呵々大笑であった。


「ふはははは!それを早く言わぬか!」


 部下の絞りださんばかりの答えはフェラーリ氏を満足させるに十分なものだった。その答えはまるでパズルの最後のピースのようにフェラーリ氏の脳内に見事な絵を完成させた。

 防衛隊結成時の人数は約500人。これは、集住地内でサルベージ・グループを構成する人数とほぼ一致する。だが出撃の際の防衛隊の人数はどれほど多く見積もってもこれには足りなかった。ここから導き出される答えは一つであった。


(おそらく絶望した兵たちが夜のうちに大量脱走したのだろう。誰も見ていない早朝に出撃したのは、それを我々の目から隠すために違いない。ジョンも所詮は急遽任命されたばかりの隊長だ。部下を統率するには時間が足りな過ぎたな)


「奴らは兵の大量脱走のため自棄になったということだろう。これで我々の勝利は盤石となった。それらの情報をまとめ、急ぎモーガン様に伝達せよ」


「ははっ!」


 ここに至って、フェラーリ氏は自らの勝利を確信した。彼の顔の脳裏にはすでにキングストン貴族としての華やかなる生活が映し出されており、その顔は喜悦に歪んでいた。

 しかし,それでもなお慎重の上に慎重を重ね,立ち去ろうとした部下に彼はさらなる指示を投げかけた。


「おい、待て。集住地が浮上し次第、サルベージ・ポットに何か変化がないかも確認しておけ。どんな小さなことでも構わん。変化があればすぐに知らせろ」


 長年にわたってフェラーリ氏がこのニューヨーク集住地で権力を握り得た理由の一つは,この慎重さに帰せられる。

 どのような社会であれ、地位が高まるにつれて座れる椅子の数は減っていく。故に、その椅子を確保するためには並々ならぬ努力が必要になる。

 その椅子を確保するための努力、言い換えれば丁寧な臆病さとも表現できる慎重さこそが、彼の持つ美徳であった。

 その慎重さが良い方向へと向かえば,他市からの侵略を自ら招来するようなことは実行しなかっただろう。また、才覚ある人物や集団をスポイルすることもなかっただろう。

 しかし、人格と才覚が良識において結ばれることは,歴史的にもごく僅かな例しか見られないものである。その例に漏れず、フェラーリ氏はこのニューヨーク集住地において、これまでに星の数ほど現れた国を売った漢奸の一人として、自らの名前を歴史に刻みこんだのである。


(ジョンめ、もう少し賢いやつかと思ったがな。籠城したところを背後から撃つ腹積もりだったが手間が省けたわ。だが、これで全てがうまくいく。後はモーガン様の宴の準備を進めるだけだ)


 光のささない濁った泥の中、汚れたあぶくのように浮上を続ける居住ポットの中で、フェラーリ氏は自分が仕組んだ陰謀の成功を確信し、独り歪んだ笑みを浮かべた。


 だが地上では、彼と敵対する若者が、彼が想像だにしない絵を脳裏に浮かべ、淡い朝日を身に受けながら泥の海を疾走していた。

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