第3話月夜の惨劇
永遠に続くかと思われた階段を、何度ぐるぐる回っただろう。回りすぎて頭がくらくらする
どうやって石かび臭い地下牢までたどり着いたのかよく覚えていない
鉄柵と夜の石の匂い
群衆の中にウィドーを探す
月の底にウィドーがべそをかいている。パン屋の娘さんに慰められている
「ウィドー!!!」
思わずリマは叫んだ
「姉ちゃん!」
跳ね起きたウィドーの顔が輝く
鉄柵へとウィドーが走り寄る。
「ウィドー、無事でよかった。あんたは泣き虫だから、首を撥ねられていないか心配したのよ……」
柵に指を通して弟の涙を拭おうと身を屈めようとして
その顎ががくんとのけ反る
「おっと、いけねえなあ。こんなところに一匹逃げてたのか」
酒やけした男の声
髪を掴んで引っ張り上げられる
「へへ、美しき姉弟愛ってやつう? 妬けるね 抱き合うなら牢に入ってからにしな。……でも、牢に返す前にちょっと躾けてやらないとなあ。いいよなあ。見つけたやつがちょっといい思いをしたってさあ。ちゃんと返すから」
「いや……っ!」
「すぐによくなるんだこれが」
鉄柵に身体を叩き付けられる
酒臭い。下卑た口臭が漂う。手首を捩じりあげられて、頬をべっとり舐められる
零れたラズベリータルトが踏みつぶされる
「姉ちゃん! 姉ちゃんに触れるな!」
「触れるどころかもっと深い仲になるんだぜ、へはは」
あまりの不快感にぎゅっと目をつぶる。
次には喉から悲鳴が漏れるだろう
ぎゃあ……っ!
だが、その悲鳴を上げたのは男の方だった。
ふっと体が軽くなる
恐る恐る目を開ける
開けなければよかった。
もっと恐ろしいものが映って居たのだから
月が床に長い二つの影を映し出す
魔王と哀れな生贄
マトーが賊の頭を片手で掴みあげて、高く掲げていた
ぞっとするほど冷たい声が響く
「俺のものに触れるな」
ずぐっ……
聞いたこともない異様な音が響く
マトーの右腕が……。男の胸を貫いた音
肘までざっくりと胸に埋まって
その手のひらには……赤子の頭の様な物を握っている
男の心臓
マトーが素早く腕を引き抜く
血管が引きちぎれる
「あ……」
男の喉が勝手に絞れて音が鳴る
うつろな瞳が己の心臓を初めて見る
まだ鼓動を打っている心臓を
眉も動かさずにマトーが手を握り潰す
血飛沫が真っ白な月を汚す
牢に捕らえられた人の誰もが……息をするのも忘れた
村長さんのお話など足元にも及ばない
肉塊と化した男が床にはぜる
思い出したかのように、マトーがリマを一瞥する
震えるのも忘れたリマへ……
闇の中で瞳が燃える
「あ……」
こんな時はなんていえばいいの? 助けてくれてありがとう? 次に殺されるのは私かもしれないのに
なんて間の抜けたことを考えているのかしら。
けれど、咄嗟に口から出たのは隠しようもない本音
「嫌……! 来ないで……!」
一瞬、マトーの顔が苦悶に歪んだような気がした。月の影が見せた幻だろう。あのマトーに苦悶など! その証拠に、リマの悲鳴などお構いなしでマトーは歩をすすめる。
獲物をしとめる獣の瞳
キラキラと血の匂いに酔って闇の中で輝く
リマを追い詰めて覆いかぶさる
小男に脅された時よりもずっとずっと怖い
本能から沸き上がる根源的な恐れ
血まみれの手がリマのこめかみから顎を撫でた
五筋の血の跡がひかれる
「なぜ俺から逃げた」
微かに震える低い声。怒りを押し殺した声
「ひっ……」
「……なぜ逃げたと聞いている!」
「ひっ、ごめ、んな、さ…い…っ」
「謝罪などいらない」
獣が怒りをあらわにする
「わかっていないようだな。戯れに優しくしてやれば、すぐつけあがる! 立場というものを教えなければいけないようだな。……お前は俺の奴隷になったんだ! 家畜以下の奴隷に! 俺の気まぐれでいつでも殺せる! …わかったか? わかったなら返事ををしろ!」
返事はなかった
マトーの肩越しに、凍える様な月を仰ぎ見る。それが最後に瞳に映ったもの。
リマは失神した
どさりと、足元から崩れる
マトーの腕に抱きとめられたことなど知る由もない
***
「ん……」
ゆらゆらとまぶたの裏を焼く光でリマは目を覚ました
柔らかな朝の光
ゆっくりと瞼を開けてしばし呆ける
ドーム状のガラス天井から、青い空が広がっている
落ちてきそうな青天
しばらく見とれて、ぼんやりと視線を落とす
上質な絹の肌触り
リマは途方もなく大きなベッドの上に寝ていた
ぐるりと部屋を見渡す。よく見れば昨夜と同じマトーの居室
美しくて豪奢な部屋
真っ白な部屋
ピカピカに磨き上げられた大理石の暖炉。円柱に品よくあしらわれた金の細工
床に落ちたソファだけが、ミルクに浮かべた花びらのように深紅
ぼんやりと青い月の記憶がよみがえる
そうだ、
わたし昨日恐ろしい目にあったのだわ
マトーは?
目元をやっと己の御許に落とす
瞬間すくみあがった
「ひっ」
ベッドのヘリに身を寄せて、マトーが眠っている
リマの身体に寄り添うように腰を折って
水辺で息絶えた獣のように
その手の先はリマへと伸ばして……
そこで初めてリマは、手首を包む熱がマトーに掴まれたものだと気付いた
ーーっ!
ざあっと血の気が引く
言葉にならない悲鳴が漏れて、とっさに手首を引き抜いた
手の枷がリネンにおちて弾む
反射的な行動だったが、幸いにもマトーは目を覚まさなかった
眉をしかめ、唇をわずかにもぐもぐ動かしただけ
とにかくこの恐ろしい人から離れたい……!
そうっと、そうっと、身をベッドから下ろすと、とにかく離れたくてよろめき駆ける。部屋の中央のソファへと崩れる。
ソファの背に身を乗り出して、はあっと嘆息する。図らずも目の前には窓があった
昨夜は闇に閉ざされていた景色。
逃げる気などもうわかなかったが、単純に己の居場所を把握しようと、無意識に身を乗り出す
小さな留め具を外してギイッと斜め窓を回す
「あ……」
ざあっと、冷たい風がリマの頬をぶった
ひょう
天鵞絨ビロードのカーテンがはたりと揺れる
断崖の頂かと思えるほどの絶景。
雲の匂いが肺の底まで染み込む
木々は点
大地の底に苔のような森が張り付いて、地平の彼方に山嶺が連なっている
なんという標高!
気が遠くなりそうなきがして、リマは慌てて頭を引っ込める
人の手でこんなものを建てられるとは思えない。きっと太古の神がお造りになられたのだわ
なんて現実感のない光景だろう
森の上に白い雲が綿菓子の様に乗っている。
玩具のよう
私たちあの雲を霧だと思っていたのね
城の中は雲をも貫いて晴れ渡っているとも知らず
朝日をよぎって小鳥の群れが飛んでいる
鳥はのんきね。どこへでも飛んでいけるもの
こっちに来ないかなあ
テーブルの上には、冷え切ったご馳走が並んでいる
リマは何にも思わずに、ただいつもの習慣として窓辺にパンくずを砕いて撒いた
なんにもすることがなくなった
窓辺に肘をつき、絶景を見下ろしながらだらだらと考える
奴隷
獣のような瞳に見据えられて、お前は奴隷だと言われたわ。
家畜以下の奴隷だと
家畜は冬に殺されてベーコンになるわ
ならば私の身はいつまで生かされるのかしら
マトーの城へ囚われたものは三月の命……
あの伝説の通りなら……
重だるい絶望が身体を満たす
それでもなんとか生きなければならない
岩にかじりついてでも生きのびるのがバール教の信条だ
バールの民でなくたって必死で生きようとするのは当たり前だわ
目ざとい一羽が餌を見つけた。一羽がいい思いをすると後はもう我先にとつつき合って、小規模ながらも骨肉の争いが繰り広げられる。愛らしい上に面白い。あまりの現実感のなさに、一周回っていつもの窓辺のような錯覚を覚える
そんなに急がなくてもたくさんあるのに
無遠慮な一羽がリマの手のひらまで上って、菓子をせわしなくついばんだ
こしょばったい
ふふ
思わず笑みがこぼれる
が、次の瞬間凍りついた
すぐ隣の恐ろしい黒塊に気付いたのだ
マトー! いつの間にこんなに近くへ!?
視線がぶつかる
爛々と獣の瞳を輝かせて。
太陽の元でもこの男の火は翳らない
マトーがゆっくり手を伸ばす
だが、リマがぴりっと後ずさったのを見て、止まった
半歩退いて見つめ合う
真一文字に引き結ばれた唇が開いた
「鳥が好きなのか」
「ごめんなさい……っ」
リマは質問の意味もわからずにとにかく謝った
恐ろしくてたまらない
たちまちのうちに喉が熱くなって、涙がポロポロこぼれでる
「好きなのかと聞いている」
もう一度マトーが聞いた
怒気と焦燥を孕んだ声
「ごめ、なさ……」
息が詰まって、声すら発せなくなる。ただただ大きな目を見開いて、しゃくりあげながらマトーを見つめる。獣の双眸に怯えきった娘が映った
長い沈黙
最初にマトーが目をそらした
「…まともに喋れ」
忌々しげに踵を返す
ドスドスと大股で歩いて
ばたん!
乱暴に扉を叩きつける
がちゃん!
続いて錠の落ちる音がした
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます