第2話逃亡

本文


「食べないのか」

地底を揺らすかのような低い声


何が起こっているのかわからない


ふかふかの深紅のソファ


真昼のように輝く鈴蘭のシャンデリア


その下には、ごちそうごちそう、金貨、御馳走。


大理石のテーブル一杯、こぼれんばかりに御馳走がひしめき合っている。

ありとあらゆる肉料理から、宝石のような焼き菓子、大陸中の果実


子豚の丸焼きには、この季節にどうやって手に入れたのだろう、貴重なレモンまでこんもり添えられて!


「腹がすいていないのか? そんなはずはないだろう。食欲がないなら、甘い果実はどうだ? ほら、苺は?」


隆々とした腕が、金の器に盛られた真っ赤な苺を差し出す


食事は朝パンを食べたきりである。

けれども今は胃に鉛を流し込まれたような心持がして、とても食事にありつこうなどという気にはならなかった


けれど……


(おとなしく勧められたものを食べなければ、たちまち機嫌をそこねて首を撥ね飛ばされるかもしれないわ)


震える指先で果実を一つ摘まんでいただく


じゅわり


甘い果実が舌の上で溶ける

こんな大きくて甘い苺は食べたことがない


もぐもぐ。


無心で何とか噛み下す

なんだか一心に見つめられている気がするが怖いので決して顔は上げない。

あの瞳は恐ろしすぎる


マトーは暫くリマを見つめていたが、やがてわずかに微笑んで、自身も苺を一つ摘まんで含む。


真っ白な歯が果肉に食い込む

果肉から汁が垂れる


真っ赤な臓物の様な苺


(処女の心臓を食べると言う噂は本当かしら)


指についた果汁を舐めとるマトーを盗み見る


伸び放題のざんばらの赤銅色の髪。

すっと高い鼻筋

気難しそうな眉間。皺がいくつもよっている。きっと人殺しのたびに深くなったのね

漆黒の衣でも隠しきれない。はち切れそうな筋肉

ぶっとい首。絞首台に上っても縄の方が切れてしまうわ。


すべて伝説の通り


ふいにマトーがリマを見たので視線がかち合った

キラキラ煌めく瞳

きっと世界中の灯が落ちてもこの瞳だけは輝くだろう

覗きこまれれば息もできない


「年はいくつだ」


不意にマトーが尋ねた


「じ、14です」

何とか息を吸い込んで、吐く


「……男は……恋人はいるのか」

マトーが大きな手のひらで苺を弄びながら問う


「い、いません」

「いたことは」

「あ、ありません。恋をしたこともないです」

何とか受け答えする


マトーは口を引き結んで黙り込んだ


……?


どうしてそんなことを聞くのかしら?

ああ! 何を言っているの。


処女かどうか確認されたんだわ!

やっぱり、処女の心臓を食べると言う伝説は本当なんだわ。ああしまった、恋人がいると答えればよかった!


「名前は?」


マトーが尋ねる。心臓を抉りだすのはまだ先にしようと思ったらしい


「リ…リマと申します」

「リマ……。遊牧の民の響きだな。それに、そのほりの浅い顔立ち……」


「クオーターです。母が混血でした」

「でした?」

「戦で亡くなりました。」

「……。では教会で育ったのか」

「いえ、信徒の家族に引き取られて、実の親子の様に育てていただきました。」

「だから遊牧の民なのにバール教の文様を纏っているのだな」

マトーがショールにあしらわれた文様をあごでやる


「はい」

獣の瞳に暗い膜が落ちる


「戦で親が死んだのは俺と同じだな」


「マトー様も?」


あのマトーでも親を偲んだり、敬ったりするのだろうか


「母親がやられた。記憶にも残っとらん」

「お父様は?」

「ろくでなしの親父は先代の首領に殺された。しいて言えばその先代の首領が親父みたいなものだったな。」

「で、では先代の首領様がお父様だったのですね」


「俺が殺したがな」

何でもない事の様に言葉がほうられる


リマの口角が引きつった


しーん


沈黙が支配する


今度こそリマは何も言えなくなってしまった

ひたすら煌めく銀器に世界一興味のあるふりをする


私、もしかしてマトーの地雷を踏みぬいてしまったのかしら。眉間の皺が一つ増えたような気がするもの。すごく痛いやり方で殺す算段をしているのかもしれないわ。神様お助け下さい……。神様の慈悲はこの城まで届くのかしら。怖い怖い、怖い、


「マトー様、こちらにいらしたのですか。」


沈黙を打ち破って、しんと雪夜の様な声が響いた

一人の男が扉から滑り込んできてマトーへ傅く。腰に下げられた剣がしゃらしゃらと鳴った


本当に盗賊の一味だろうか、女のように整った顔だわ。村中探したってこんな綺麗な人はいない……。それに振る舞いもどこか育ちの良い気品を感じさせる


マトーの横で縮こまって、ぼんやりリマは見定める


湖底の藍の瞳。長い黒髪をてっぺんで結わえてさらりと流している

スッと天からつりさげられたように姿勢が良かった。すぐに腰を折り、マトーへと傅いてしまったが。


男はちらとリマを見て、ほんのわずかに眉をひそめたが、すぐに主へ頭を垂れた



「お楽しみの所まことに申し訳ありません。奪った金品と分類した捕虜の勘定書きにお目通し願えますか。下の者がくすねてしまいますので。それから右の国との売買契約書にサインを。それだけは主様の直筆でしていただく必要がございます」


「わかった。下がれスライ」

「こちらにお持ちいたしましょう」


「いや、俺が行く」


ばふっとソファがたわんでリマの小さな体が浮く


マトーが身を起こしたのだ


真っ赤なマントが翻って扉の向こうへ消える

よろめくリマには一瞥もくれずに


ばたん


黄金の縁の扉が閉まった



***



小さな蝋燭なら燃え尽きるほどの時間が過ぎた


(ウィドーは、おじ様たちは無事かしら……。)


捕虜を分類したと言っていたわ。

分類した捕虜! なんて嫌な言葉なの!


きっと牢の底は冷たくて寒くて、ひもじい思いをしてるわ。もう寄り添ってあげることもできない。とっさにショールを持ってきてしまった。せめてこのショールだけでも巻いてきてあげればよかった……。


ぼんやりテーブルに並んだ御馳走を眺めながら思案する。冷めてしまったがそれでも彩り豊かで、こんな時でなければこの世の極楽、見てもおいしいと言うやつだ。ぶっささった真っ赤な大海老の頭など特に。


意外にもマトーは甘党なのだろうか、デザートも豊富だ。キラキラ宝石のように輝くスイーツに果物……。


――お姉ちゃん、お腹減った。ラズベリーのタルト、最後に食べたかったなあ……


ウィドーの言葉が蘇る


もちろん当たり前の様にラズベリーのタルトもあった。


(食べさせてあげないと……)


ほぼ反射的に手が伸びる


滅裂に混乱しきった頭ではじき出した答え


極限の状況下では人は正常な判断を下せず、突飛な行動に走る。リマもそれであった。自分は冷静である、そう思いながら…。


リマがドアノブに触れると、待っていたかのように簡単に扉は開いた。


真っ赤な絨毯が回廊に敷き詰められている


さくり、と小さなリマの足が踏みしめた



なぜ逃げ出したかと言えば、逃げるなと言われなかったから。




もし、この時リマが逃げ出さなければ……。この物語はお話にもならずに幕を閉じただろう。



くるくると灯し火の灯る螺旋階段を、白い娘が落ちていく

光も届かぬ闇の底へ……。


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