Chap.6-2

「みんな、ゴメン! 寝過ごした。すぐ夕飯つくるから」

 リリコさんとほぼ入れ替わりに、タカさんがリビングに飛び込んで来た。寝起きで髪もボサボサ。丸いメガネが顔の上で斜めに傾いてしまっている。

「今晩はピザでも頼もうかってみんなで話してたんですよ」

「そうそう。もうすっかりピザのお腹だから。ぼくチラシ取ってあるから、持ってくるね」

 鼻歌交じりにユウキが自分の部屋へチラシを取りに行った。

 タカさんは愛用している紺色のエプロンを片手に「ああ、ピザね」とつぶやくと、そのまま気が抜けたようにテーブルの椅子に腰を下ろした。

「たまにはゆっくりしてくださいよ。タカさんの夕飯が食べれないのは残念ですけど」

「残念かあ……残念なのかな。俺の作る料理、みんな本当に美味いと思ってくれてるかい?」

 タカさんは少し寂しそうな目をして、握り締めた手元のエプロンを見つめた。

「みんな喜んでるじゃないですか。チャビなんて毎日美味しい美味しいて食べてるし」

「はは、チャビは何を食べても、たいていは幸せそうな顔をしてるからなあ」

「まあ、そうですね」

「チャビが喜んでくれるのも、もちろん嬉しいよ。でも普段、なかなか言ってくれない人をたまには『美味しい』と言わせてみたいね。リリコとかさ」

 リリコさんは、タカさんにそういうことを伝えるのが恥ずかしいのだと思う。僕やユウキと出会うよりもずっと前から二人は友達だから。リリコさんは関係が深くなればなるほど相手に対して素直になれない。そういう人だと思う。

「タカさん」

 僕の声にタカさんが顔を上げる。

「ん?」 

「タカさんは、何で毎日みんなの夕飯を作ってくれるんですか? すっかりそれに僕らも甘えちゃってるけど」

 少し考えてから、タカさんは小さく笑った。

「時々、自分でも何でみんなのご飯を作ってるのかと思うことがあるよ。みんなのお母さんみたいだよなと」

「ですよね。やっぱり迷惑なんじゃ……」

 ゆっくり首を振るタカさん。

「いやいや、そんなことはないんだ。ちゃんとみんなから食費ももらってるだろ? いつか地元の沖縄で手作り料理の居酒屋をしたくてね。料理の腕を磨くには毎日作って、食べてくれた人の反応を見るのが一番。みんなに作るのも修行のつもりなんだ。だから美味しくない時は、ちゃんとマズイ! と言ってもらえると勉強になる。遠慮無しにな」

 立ち上がったタカさんが僕の肩をポンと叩いた。

「タカさんの料理が美味しくないときなんてないですから!」

「ごめん、ごめん。気をつかわせるようなことを言っちゃったな。こんなんじゃダメだなあ、今週末が周年の本番なのに」

「週末はみんなで手伝いますから、タカさんのお店の周年パーティー」

 元気を出してもらおうと、声のトーンを上げる。

 タカさんは笑顔で肯いてくれた。

「そう言えば、周年で何かしてくれるんだろう? ユウキとリリコの三人で」

「三人で?」

 何を? 聞いていない……不穏なものが胸をよぎる。

 思い当たることと言えば、夏にみんなで海に行ったとき、車の運転と引き替えにリリコさんとユウキが交わした約束だった。運転を面倒臭がっていたリリコさんが、ユウキに何かを耳打ちされた途端に一発で快諾した謎の取引。どんな密約をしたのか。ずっと嫌な予感がしたままだったのだ。

「まあ何となく、何をするつもりなのか検討はついているが」

「わー! タカさん、ちょっと待った!」

 ユウキが慌ててリビングに飛び込んで来た。両手を上げてワーワー言いながら、タカさんの声をかき消そうとしている。抱えて来た大量のチラシが手を振り上げた拍子に指をすり抜け、ユウキの足下に何枚か舞い落ちる。

「何だよ、何を企んでるのか教えろよ」

 僕の抗議にユウキがすっとぼけた顔をした。

「ダメ、ダメ。今言ったら一平くん、絶対拒否するに決まってるんだから」

 そう言い終わらないうち、ユウキが「わ!」と大声を上げた。床に落ちた広告チラシに足を乗せた途端、ユウキは豪快にすっ転んで、大量のチラシが紙吹雪のようにリビングに舞った。ドシン、と床を打ち鳴らす。

「ちょっと、大丈夫か?」

 尻餅をついたユウキに手を差し出す。トホホといった感じで、ユウキが手を取り立ち上がった。

「ちょっとこっちへおいで。尻餅をつくと腰をやることがあるから、前に立ってごらん」

 タカさんは自分の前にユウキを立たせると、ユウキの腰に手をあて「軽くひねって。はい、今度は逆。どうだい?」と尋ねた。「うん、大丈夫そう」とユウキが答える。

「そうやって、すーぐ甘やかすんですから、タカさんは」

「一平くん、それ嫉妬?」

「バカ違うよ。ユウキは甘やかすと、つけあがるだろ」

 と睨みつける。

「それにしても、うちの近くにこんなに沢山ピザ屋があるとは知らなかったな」

 散らばったチラシにタカさんが目を点にする。

「ピザ屋のチラシだけじゃない……二足で五十パーセントオフとか。これ靴屋のチラシじゃん」

 一枚、拾って読み上げる。

「探すの面倒くさくて、全部持って来ちゃった」

 ユウキがテヘと舌を出した。

「まったく」と文句を言いかけたとき、「ただいま~」とチャビの声がリビングの戸口から聞こえた。

「ちょっと待った! チャビあぶない!」

 と僕らは全員で叫んでいた。

「エ?」

 宙に声を残して、小柄で丸っとしたチャビの身体が、ユウキと同じように、すてーんと回転していた。ツルツルの広告用紙の上を靴下で不用意に乗ったら、こうなることは目に見えている。ユウキより大きな音を立てて床に打ちつけられた。

 急いでみんなで取り囲む。肘を何処かに擦りつけてしまったようで、押さえた指の隙間から血が滲んでいた。タカさんがすぐに救急箱を持って来てくれた。体重が重い分、ユウキに比べて被害が大きくなってしまった。

「これ二次災害だぞ」

 僕の言葉にユウキはバツが悪そうにした。

 傷口は浅いが、広範囲にすりむけてしまったので念のため消毒をした。マキロンのアワがプシュと赤い擦りむけ痕に滲んでいく。

「チャビが足下を気をつけてないのが悪いんだからね」

 ユウキはどこかの国会議員のような答弁をしながら、しおしおと身を縮ませる。

 タカさんがやれやれと息をついた。

 ソファに移動させて、すりむいた肘にでっかいバンソウコウを貼る。傷口がヒリヒリしているはずなのに、チャビはずっとニコニコしていた。

「なんか最近、食べてるとき以外にもよく笑うようになった気がするなあチャビ」

 タカさんが首を傾げる。

「一平くんが手なずけたんですよ」

 ユウキの言葉に、タカさんが「へ?」て声を漏らす。

「手なずけたとか、そんな言い方やめろよ。ちょっと仲良くなっただけだって」

 一緒に上野動物園に行ってから、チャビは僕を慕うようになっていた。それも、家にいるときはほとんど僕にベッタリくっついている状態。別に嫌ではないのだが。このところ忙しくしているタカさんは気がつかなかったのかもしれない。

「いつの間にそん仲になったんだ? なんかヤケちゃうなあ、ラブラブで」

 タカさんが微笑ましそうに僕らを見てくる。

「だから、そんなんじゃないんですよ。弟みたいな感じというか」

「ボク、いっぺいくんのこと大好きだよ!」

 チャビがまたややこしいことをチョコンとした目で言う。

「フーーーン」

 冷ややかな目で僕とチャビを見比べるユウキ。

「まあ、前みたいにマイペースで他人に関心がないよりは、よっぽどいいけど」

 ボソボソと言いながら、ユウキはチャビから目をそらした。

 バンソウコウを貼り終わると、チャビはソファに腰を下ろした僕の足の間に座ってきた。ペンギンマークのリュックからゲーム機をいそいそと取り出している。頭に手を置いて撫でてやると、チャビはくすぐったそうにして僕を見上げた。

 夏に一緒に動物園に行ったあの日から、チャビは少し変わったと思う。新しいアルバイトを始めたようで、最近は遅く帰ってくることも多い。一日中家に居てゲームばかりに没頭することも少なくなった。ストーカーに狙われるような危ないバイトは辞めてくれたのだろう。ただ、これで良かったのか? という思いもあった。何かをチャビに押しつけた結果になっていなければいいのだが……。

「やだ、もしかしてまだピザ頼んでないの?」

 リビングの戸口から、リリコさんの声が聞こえた。

「ちょっと待った!」と僕らの声が重なる。

「え?」とリリコさんは微妙な体勢で固まってくれた。

「足下。あぶないんで気をつけてください」

 リリコさんはそっとチラシをよけてリビングに入ってくる。風呂上りのシャンプーの香りが漂った。リリコさんお気に入りのボタニカルシャンプーで、勝手に使うと怒られるヤツだ。

「なにやってんのよ、あんたたち。こんな散らかして」

 広告チラシが散らばる部屋の惨状を見てリリコさんが呆れる。湯上がりの肌が上気していた。

「まあ、ちょっといろいろあってね」

 チラシを片付け始めるタカさん。

「ボク、おなかすいたー」

 チャビが股の間からこちらを見上げた。

 ユウキも途方に暮れた表情で辺りを見渡した。

「うーん、これだけあると選ぶのにも迷っちゃうね」

「新宿はオフィス街が多いからなあ。出前が発達しているんだろう。それにしてもいろんな宅配があるもんだ」

 タカさんは片付けながら一枚一枚のチラシに目を通して感心をしている。カレーにハンバーガー、パスタに蕎麦や釜飯。自炊派のタカさんにとって、宅配のチラシは利用頻度も低いだろうから物珍しく映るのかもしれない。僕もひとり暮らしだったときはときどき利用していたけど、ここに住むようになってからは、とんとご無沙汰していた。

「目移りしているとキリがないですね。今日のところはピザにしぼって厳選しましょう」

「何でもいいわよ。パパッと目についたやつで。ハイ、これにしましょ」

 リリコさんが適当に足元にあったピザ屋のチラシを拾い上げた。

「えーと……ピザ・ボンジュール?」

 みんなでリリコさんが手にしたチラシを覗き込む。

「聞いたことある?」

「ううん、ない。あ、でもけっこう安いよ。見た目はどうかなあ。白黒印刷の写真じゃよくわかんない」

 ユウキはモノクロ印刷のチラシに目を凝らした。今どき一色刷りの折り込み広告というのも珍しい。

「ピザって基本イタリア料理だろ? なのにフランス語でボンジュールというところに雲行きの怪しさを感じるのだが、どうだろうか」

 タカさんはラウンドひげに手をあてて唸っている。

「あ、ここ、エリア内三十分以内にお届けできなかった場合は、料金半額にしますだって。うちのマンションぎりぎりエリア内だよ、これ」

 ユウキがチラシに書かれたうたい文句を読み上げる。

「じゃあ、決まりね。面白そうじゃない。もしかしたら半額になるかもしれないし」

 みんなあえて「ダメ」と言う要素もなく「うーん」と曖昧な返事になる。

「このエスカルゴのグラタンピザと、ラタトゥイユソースのピザのハーフ&ハーフなんて美味しそうじゃない。ハイ、一平、注文してちょーだい」

 とリリコさんからチラシを押し付けられた。

「まあ、おいしそうかなあ。うーん」

 ユウキはまだ眉をピクピクと動かしている。

「ピザにエスカルゴか……」

 タカさんはそこに何か深い意味が込められているかのように渋い顔つきだ。だけど、まあさすがにそろそろ注文しないとみんなのハラペコも限界だろう。

「いいですか? じゃあ注文しちゃいますよ?」

 リリコさん以外のみんなの途切れることのない「ウーン」という唸り声を背に、チラシに書かれた番号をスマホでプッシュした。


Chap.6-3へ続く

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