29.作悟(42,53,85,98)
「……お前、名前は?」
何日か前、突如ベランダの物陰から、男の声がした。俺が丁度、妙な気配に窓を開けたところだった。
「……野上」
「野上。……ひとつ、昔話をしてあげよう」
……そしてその声は、そのまま訥々と語り始めたのだった。
◇◇◇◇
ずっと昔、1人の詩人がいた。心を慰めるのに長けていると、評判が良く慕われる男だった。
……だけど実は、詩人には理解したくとも出来なかった。寄り添いたくとも分からなかった。何故そのように擲とうとするのか。希望に満ち意欲を持ちながら、何故。
詩人は怖かった。自らの手に余り認識しきることの出来ないこの世界が。読み解くことの出来ない人間たちが。彼は堪えられなかった。
詩人にとっては何もかもがお伽噺だった。自らがそこに属すと捉えられなかった。全てが絵空事に見えた。目の前で村が焼けようと。知人が死のうと。出来事が凄惨であるほど、彼の心はそれを現実だと捉えてくれなかった。彼自身が幾ら望んでも、叶わなかった。
彼はせめてもの贖罪に、全てを唄にして克明に書き記した。その感情さえも信じられないままに。虚偽を紡ぐ大罪を気に病みながら。
幾ら清らかな言葉を紡いで、誰かの救いになるよう語りかけても、詩人は自分自身で信じることは出来なかった。
詩人が紡ぐ希望は全て、彼自身が欲しい言葉だった。誰かに納得させて欲しい理論だった。組み立てた本人は、ちっとも納得できていなかった。いつも何かに怯えていた。
それでも彼は、せめて相手にはと綺麗な世界を説き続けた。その度に、嘘を吐いている気がした。
彼にとって、創作は大罪だった。創作が、ただ己を鎮める為のものではないと彼は気付いていた。其処には確かに、微かな自己顕示欲も在った。其れが彼には又赦せなかった。
だが、彼は書き続けた。己の為、皆の為に。
詩人はやはり理解出来ない。愛に撰ばれ、愛を持ちながら、何故消えようというのか。
最早彼は、己の思考を詩にしているのか、詩のために思考を造り出しているのか分からなくなっていた。浮かぶ言葉は全て唄になった。
自分が造り出した以上他者のものでないことは明白だった。創作物という点では紛れもなくそれらは彼のものだった。しかし真実かという点に於いては彼のものではなかった。彼自身が産み出した幻想だった。
詩人は自身の感情そのものを文字に出来なかった。どこか他人事のような表現は淡々と世界を映した。
そんな彼の最期の言葉はこうだ。
……私が貴方を嫌うのではない。貴方が私に失望して、いなくなってしまうんですよ。私は、願いなどしないのに。
◇◇◇◇
「……そんなもの話して、どういうつもりだよ」
「何も無いな。……ただ、もし俺みたいな人がまた来たら、手を貸してやってよ」
突風が吹き、闇色の布が目の前ではためいた。視界が開けたとき、誰の姿もベランダには無かった。
何事も無かったかのように、月が出ているだけだった。
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