28.境(40,49)

 暫く前のことだ。

 少し曇って、月の隠れた夜。俺は一人で夜空を飛び回っていた。


 気紛れに舞い降りた、路地裏の換気扇の陰。そこに、小さな影が蹲っていた。何となく気になって覗き込むと、黒い子猫がこちらを見ていた。


 傷付いた黒猫に手を伸ばす。何日こんな暮らしをしているのか、すっかり埃まみれだった。なのに不思議と、品の良さも漂っている。

 纏う空気に、つい声をかけていた。


「お前、こんなところで何してるんだ」


 猫は答えずに震えている。よく見れば首には鈴がついており、体の震えで弱々しく音が鳴っていた。



 ……こんなにも苦しんで傷付いているのに、俺はまだ現実だと思えない。小説でも読んでいるかのようだった。

 慈しむ言葉を紡ぎながら、本当に俺の言葉なのか信じられなくなる。どこか冷めた目で眺める俺が居る。まるで、自作の戯曲を演じているかのような。自分勝手な言動、それでさえ自分勝手を演じている気がした。



 にゃあ、と路地裏に小さな声が響く。屈み込んだ俺に、ふわりと柔らかい毛が触れた。


「……話してくれるのか」


 小さな迷い猫の身の上話。痛々しい感情の中には、恨みなんかひとつも混ざってはいなかった。

 連れて帰ろうか。俺はこの日、突然そう思ってしまった。



 たとえ手を差し伸べても、そこに心が介在しているかは分からない。行動に心が伴っていると、どうすれば思えるだろう。それに、馬鹿な自分の言葉なんかどうせ届かない。

 ……他人に怒りを感じないのは大抵本当だった。ただ、自分で優しいとは断言出来ない。自分の態度に愉悦を感じないか、完全には否定出来ないからだ。……だって、奥底は自分でも分からない。



 卑屈な傷みを欠片も見せず、俺は彼の手を引いた。昔から隠し事には自信があった。


「一緒に来ればいい、どうにかなるさ」


 先輩風を吹かせ、あっさり笑ってみせる。不安そうな顔を見つめて力強く頷いた。

 ……あの日、あの人に救われたように。俺だって少しくらいは、助けになれる。

 何を犠牲にしても、出来る限りの責任を。


「まあ、余り無責任なことは言いたくないけど。何なら兄とでも呼べばいい」


 ほんの少し、記憶が薄れるよう呪いをかける。暫く、辛さが紛れたらと願って。

 彼の影が伸び、消え去った鈴の音が微かに聞こえた。……彼が捨てた形は、二度と取り戻せない。


 これが、弟のような後輩のような、彼との生活の始まりだった。

 きっといつか、無能な俺より先輩の助けになれる。彼を見て、そう思っていた。

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