27.憎(39)

「ねえ、ちょっと」


 上の空だった僕は、先輩に呼ばれてばっと振り返る。気がつけば、勢い余って机の書類をばらまいてしまっていた。


「すみません……!」


 慌てる僕に、手をひらひらと振った先輩が突然言った。


「……昔の記憶が、気になるんでしょう」


 図星を突かれて、目が泳いでしまう。やっぱり、と先輩は苦笑して頭を撫でてくれた。


「仕方ないよ、きっと誰だってそうだ」


 そろそろだと思っていた、と僕の手に古びた万年筆を握らせる。


「何ですか、これ」

「ペン先に一滴、血を染み込ませなさい。その後は普通のインクを使えばいい。そうすれば、君の過去に応じて、誰かへの手紙が紡がれる」


 額が触れそうなほど顔を近づけ、先輩はそう囁いた。


「それは今の君自身かもしれない。もしくは、かつての家族や友人かもしれない。手紙をどうするかは君次第だ」


 それだけ言うと、先輩はさっさと立ち去ってしまった。取り残された僕は、ただ立ち竦むしかなかった。



 ◇◇◇◇



 数日後、結局僕はあの万年筆を使おうとしていた。指の腹を針で突き、膨れた血の滴にペン先を沿わせる。その上からインクを染み込ませた。

 羊皮紙にペン先をつけてからはあっという間だった。手が勝手に動き、文章を紡いでいく。読むことが怖くて目をぎゅっと瞑っている間に、全てが終わっていた。


「何書いてるんだ」

「……何でもない」


 呆然としているところを覗き込まれて、とっさに兄さんの頬を押しやる。


「何すんだよ」


 頬をきつめに抓り返され、うっと涙目になりつつ紙を隠した。


「何でもない」


 小さな瓶に羊皮紙を入れて、しっかりとコルクで栓をする。行き場の無い手紙は、これで誰にも読まれることは無い。


 結局、文章にきちんと目を通す勇気は出なかった。せっかく先輩が気を利かせてくれたのに。

 何故か、耳の奥で小さく鈴の音がした。懐かしい、優しい音色。


「――――!」


 何度も呼ばれたはずの名前。無意識に手が首をなぞる。

 あの日、兄さんの手を取ったことは後悔しないけれど。どうしてだろう、何も覚えていないのに、誰かへの後悔が消えてくれない。きっと僕は、かけがえのないものを棄ててしまったんだ。

 それに時々感じる、兄さんとの微妙な距離感。兄さんもたぶん、何かが不安なんだろう。



「気分はどう?」


 背後に佇む先輩に万年筆を手渡した。


「内容は、聞かないんですか」

「私には代償が無いからね」


 ふっと微笑む先輩を月が照らす。寂しげな顔にかける言葉は、何も見つからなかった。

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