26.毒流(38,91)

 私がようやく大学生になってから大体3ヶ月。もう夏休み前の試験の時期だった。

 なぜかいつもとは違う教室が指定され、携帯を片手に少し迷いながら席に着く。周りは試験前のちょっとした緊張感からか、確認作業で騒がしい。

 開始10分前、先生が入室するまでそんな雰囲気だった。



 試験中、回ってきた出席票に記入しながら、私は1つ上の名前に目が止まった。

 斉藤優里。そう書きかけた欄の上。

 橘懐人。

 少し崩れた筆跡で、その名前が書いてあった。

 ちらりと横に座る男子学生の顔を見遣る。


 ああ、この人が懐人くんか。

 以前から何度か聞いている幼なじみ。実子と出会ったのは高校だから、家が近いという彼とは面識が無かった。

 まあ、私も同じ大学に進んだから、会う可能性は少なからずあると思っていたんだけど。同じ1年生だということもいつかに聞いていた。


 同姓同名の可能性もあったけど、私は不思議と彼があの懐人くんだと確信していた。


 突然、柄にもなく何かを話してみたくなり、自分に愕然とした。何かって、どうすればいいのか。名乗るつもりもないのに。



 試験が終わっても、結局私は口を開かなかった。いつも通りさっさと片付けて教室から立ち去る。

 実子の邪魔は、絶対しない。

 そう言い聞かせながら。



 あのとき、何故か向こうも一瞬私の名前を見た気がしていた。他人の視線を感じることなんか珍しくて、どうも気になった。

 でもそんな都合の良い解釈なんて、有り得るはず無い。私の感覚なんか信用できたものではないし。



 キャンパス内のバス停で列に並びながら、まだぐずぐずと、色んなことを思い返した。

 千聖、彼女のこともまた思い出していた。

 昔のことなんか、今更何だって言うんだろう。そう分かっていても湧き出てくる。

 それをどうにか、頭から追いやっていた。


 もう二度と振り返らない。馬鹿な真似は繰り返さないと決めたんだ。誰かの邪魔なんか、するものじゃない。



 それでもたまに、少し思うことがある。


 もっと振り回せば、心配してくれるだろうか。我儘で縛り付ければ、必要だと感じるだろうか。やり方なんか分からないけれど。


 だけど、文字でも声でも伝えることはない。ずっと、封じ込めてあげる。

 きっと貴女は、私の口数の多寡なんて気付かないでしょう。言及の深浅に気を払わないでしょう。

 それに、気付いてもいけないものだから。



 何もかも、後ろへぽろぽろと流れゆくだけ。

 どれほど大切であったとしても、止められはしない。

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