25.障壁(37,62)
随分昔のこと、俺はある人と毎夜顔を合わせていた。いや、もう相貌も思い出せないから、顔なんか見たことは無かったのかもしれない。
亡霊のような彼女は、自らを失敗作だと言った。
慣れない仕事を終えて先輩に挨拶をし、曙の森で彼女に会う。これが日課だった。彼女が俺の話相手を続ける理由も、なぜ俺自身が森へ足を運び続けるのかも、全く分かってはいなかった。
「この前、初めて先輩と長く話したんだ」
あるとき俺は、何気なくこう話した。
「いいね、どんな人?」
当たり障りの無い紹介をしたとき、突如彼女の顔色が変わった。
「今、何て」
「え」
押し倒され、襟をきつく掴まれて息が苦しい。なのに目の前の顔から目が離せない。
先輩に執着する理由は、一つも思い当たらなかった。
「何を話したの。どこまで知ってるの」
気高い聖女のように。
死を待つ獣のように。
情に狂った彼女は、それでも尚美しかった。
真意などやはり分からないまま、屈折した感情を漱げないまま。
魅入られた俺は逃れられない。理解など到底できないというのに。俺は彼女から、離れられなかった。
「ねえ、」
「何をしている」
はっと振り向くと、先輩が立っていた。
「どうしてここに、」
答えずに音も無く近付いてくる。
彼女を見つめる顔は、厳しくも、辛く悲しそうだった。
「手を出さないで」
先輩の声に、彼女の姿は溶けるように掻き消えた。それから俺は、二度とあの人に会うことが無かった。
「先輩、あの人は」
問いかけて言葉に詰まる。纏う空気が、明確な拒絶を示していた。
「……きっと、相容れないものだよ」
寂しげにそう呟くと、俺を見詰めていつも通りに微笑んだ。
「さあ、戻ろうか」
「でも今日は」
仕事は終わった、と言いかけた俺を視線で黙らせ手を掴む。
「初めての残業といこう」
そのまま強引に小屋へと連れ戻され、目の前に書類の束をどさりと積まれる。
「お望みなら夜通し付いてあげようかな」
いや私たちの場合は昼通しか、と背中越しに聞こえる冗談めかした言葉に、心臓が引き絞られるような感覚。
ああ、と漸く気付いた。
彼女を喪った、深い喪失感。
同時に、傍で響く先輩の声に救われていること。
一体いつから気付いていたのか。あの人の存在の大きさを、先輩はきっと見抜いていた。俺には何も、分からなかったのに。
「……ありがとうございます」
背後の物音が止まり、笑い声が小さく響く。肩に置かれた優しい手に、俺は暫く甘えることしか出来なかった。
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