10.不追(12,28)

 いつもの時刻に、古い鳩時計が軋んだ音を立てた。宵の街明かりで埃が煌めくのを眺めて、私はゆっくりと書斎に移動する。



 もう何十年と使用した扉を慎重に開けると、見慣れた雑多な部屋が見える。壁一面に薬品や器具を並べた、自慢の実験室。

 採光用の窓を閉めて念入りにカーテンも引くと、部屋は完全な暗闇に染まる。数秒空けて、蛍光性のものが一斉に瞬き始める。

 部屋中を埋め尽くす棚のそれぞれに、ホルマリンの瓶が大小様々並んでいる。中身の有無に関わらず怪しげに発光する眺めは、名状しがたく好ましい。


 薄闇の中、私は慣れた手つきで椅子を引いて適当に今日の仕事を見繕う。何本か試験管を掴み取り、乱雑に机に並べてみた。薬莢から粉末を取り出して水に溶かし、ガラス器具を淡々と扱う。

 ふうっ、と深呼吸をして、淡く輝く試験管を見詰める。青緑に光るそれは蛍のようだ。そこに、ピペットで一滴、紅色の薬品を落とす。刹那、閃光がふっと瞬き、夕闇色の光に変わる。

 真っ暗な部屋の中、小さな夕焼けだけが美しく浮かび上がった。


 一粒一粒砂を集めて、薬品で染めていく。単調な作業の中、考え事は止めどなく流れ続ける。

 初めは現実味の無かった思いは、いつしか痛みを主張し始める。見たくないはずの事象は幾らでも見えてくる。


 時間が掛かり過ぎてどうにもならなくなった頃、私は漸くそれに気付いた。今更変わる訳にいかない。変わることも出来ない。

 夜毎墜ちながらも、私は何一つ手を下さない。独りでに変化する砂粒を追うことは出来ないのだから。

 それでもどこか、滲んでいく後悔に溺れて、何も考えられないままに掌を見つめた。行いを購う手段は自分ではどうしても分からない。

 気がつけば手は紅に染まって、罅の入った試験管からは薬が流れ出して、緩慢に血液のように光っていた。



 凝り固まった首を回しながら、壁の掛け時計に目をやった。もう、あの子たちが帰ってくる時間だ。物思いに耽って霞んだ脳が、少しずつ覚醒してきた。


 溢れそうだった澱みはすうっと沈みこんでいく。 まるで何一つ憂えていないかのような、穏やかな雰囲気を身に纏う。仮初めの軽い胸を抱えて、私は腰を上げた。明日もきっと、この時間には檻を作り上げるのだろうけど。

 嘆息しつつ窓に手をかける。カーテンの向こうには、薄く白んだ朝焼けが広がっていた。


 沈みかけの満月が私には似合いだった。

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