EPISODE3 ビギナー・夜桜苺
『「
無機質な機械音声が、危機的状況を伝える。だが今聞きたいのは、粋羨寺の声だ。
しかし、向かい側からは悲鳴すら聞こえない。まさか、彼女の身に何かあったのか。
「粋羨寺さん! 大丈夫ですか⁉」
心臓がひとりでに暴走し、背筋を何者かの手によって撫でられている気味が悪い感覚。
一週間前の、『剣星団』を前にした時と似ている。しかし、これはまた違った恐怖だ。本当に命の危機を感じている、『死』を垣間見るような圧倒的恐怖。
やがて、微かに霧が晴れる。
校庭から聞こえていた声の重奏は、ぴたりと止んでいた。それもきっと、この訳の分からない魔剣の仕業なのだろう。
「問題、ありませんわ。こんな下衆如きを相手に、このわたくしが後れを取るとでもお思いで?」
刹那に放たれた、炎舞。
それは轟々と霧を振り払い、粋羨寺の姿を晒した。
「粋羨寺さ——」
「しゃがんで!」
苺は無意識にその通りにした。次の瞬間に苺を襲ったのは、頭部で荒れ狂う強烈なまでの爆風と、肌を焦がす程に猛る熱波だった。
そして背後、ゆっくりと振り向けば、粋羨寺と得体の知れない黒ローブの襲撃者が刀身を交錯させていた。
「キヒッ! 元気ハツラツな女の子! 俺の有り余る欲の餌食になりやがれ!」
「下衆がッ!」
はだけたローブから覗かせた傷だらけの顔は、左右非対称に蠢く瞳と口裂け女の如く頬まで開けられた口腔が相まって、思わず生理的嫌悪を引き起こさせた。
「——『炎剣・フェニックス』!」
粋羨寺が交錯の反動で背後へ跳躍し、その刹那、広々と広げられた二本の剣は煌々と紅く燃える炎翼となり、男を穿つ。
「『
——筈だったが、男は不快な声音で唱えると、再び黒紫の霧を発生させて炎撃を相殺させた。
これが、魔剣同士の戦い。これが、この世界で起こる、日常の風景。
「逃がしませんわ!」
「逃げてないケドね!」
男は、粋羨寺の背後に居た。
「……!」
そして、彼女が振り返る直前、男は『ナイトメア』を振りかざす。
瞬きよりも速く、切っ先同士が激突した。間一髪、粋羨寺は『フェニックス』で自らを防いだのだ。
粋羨寺は頬に冷や汗を滴らせ、唇の端を釣り上げる。
対して、男は剣を持つもう片方の腕を苺の方に向け、人差し指で示して言った。
「ヒ、ト、ジ、チ」
「——ッ!」
息を飲んだのは、苺だった。
——足手まとい。
苺は今、粋羨寺色舞の足枷でしかない。
「そんなの、まだ分かりませんことよ?」
彼女はそれを否定する。彼女の心情が、戦わずして相手の力量を図るなどという愚行を許さないのだろう。
しかし苺は既に、その愚行を、他でもない自分自身でしてしまっている。
この場に、自分は居てはならない。場違いも甚だしいと。
「キヒッ、どうやら自分でも認めてしまっているようで。ま、いいケド。俺は『レーティング:β《ベータ》』の『紅蓮の剣姫』の首を『奴』に見せることが出来たら……それでッ!」
苺の方は見向きもせずに、男は剣の柄に力を込めて粋羨寺を圧し潰さんと迫る。
「あらあら、わたくしの首も、随分と安く見られたようですわねぇッ!」
『フェニックス』の切っ先が火を吹き、男を弾き飛ばす。
男は「うひゃああっ」と気の抜けた悲鳴を上げて宙を舞い、どういう訳か、そのまま空中で静止した。
「俺の『ナイトメア』。あの『剣星団』ですら、相当厄介に捉えているらしいゼェ?」
「確かに厄介ですわね。この霧……推測するに、『当事者』しか認識出来ない作用でも働いているのかしら」
「左様、左様。俺はコイツのお蔭で、今まで沢山の『ゲーム』を楽しむことが出来た。だが、そのままでは今俺はここには居ねえ。……『奴』のお蔭だ。あいつが俺に『法の外の
「随分と御親切な罪人ですわね。そのままその汚らわしい首を自分で斬り落としてくれれば、わたくしもいちいち愛剣を血で汚さずに済むのだけれど」
「因みに聞くが、その血は誰の血だ?」
「下賤な咎人の下品な血ですわ」
両者がひとつ、笑みを作る。
やがて瞬きの直後、その場に各々の残像が波動。直後、一際大きな剣戟の音が鳴り響き、それがゴングとなった。
互いの魔剣の切っ先が、無数の音を奏でていく。
「キヒッ、キヒヒヒ! やっぱりやり合うのは舌でなく剣だよなァッ!」
「微かに同意出来てしまっているという事実に、吐き気を催しますわ」
「そいつぁいけねえな! 俺がテメエの首を持ち帰る時、手が汚れちまう!」
「ならせめて、自分の血肉でその救いようがない顔を彩りなさいな」
外部からの一切の介入を許さない、文言と剣戟の応酬。猛る炎と静寂に揺れ動く霧。
苺にとって、その場面は異次元に等しい。
追いつけるとは思えないし、追いつこうという気にもならない。
「『ナイトメア』ァァッ! この活きがいいお嬢様に目にもの見せてやろうぜェッ!」
「その猪口才なままごと、『フェニックス』で迎え撃つ!」
二人の口上に応じ、大気は躍動して超常たる衝動を歓迎する。
粋羨寺は大きく跳躍し、対して男は地で足を踏みしめる。
『フェニックス』は、その名の通りに双剣の切っ先から柄までを、煌々と朱く燃える翼で照り輝かせ、粋羨寺色舞という絶対なる主に応じて最大の剣術を発動せんと瞬く。
間近に太陽が迫る感覚。
粋羨寺が紅梅色の双眸を見開き、静かに口火を切る。
「『紅蓮の剣姫』、粋羨寺色舞」
そのまま、炎の精は身を回転させ、炎翼で万象を斬り刻むが如く男に迫った。
「——バァカ。誰が応じるかよ」
だが、男が粋羨寺の昇華された魂を迎え入れることは無く、顔を残忍に歪めると、構えていた魔剣を釣り竿の要領で引っ張り、振り回した。
「な——⁉」
それに伴い、粋羨寺の身体も同時に宙を激しく漂う。
苺は厭な予感を覚え、すぐさまそれは確信へと変わった。
——切っ先と粋羨寺の間を、糸を模した黒紫の霧が結んでいたのだ。
「ヒャッホォォオオッ! 気高き『剣姫』様一匹ゲットォォ! そしてぇ、そのままぁぁ?」
男は今一度、今度は縦に剣をフルスイングした。
「叩き込むんだよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ‼」
黒紫の糸が男の背後に舞い、一拍後、粋羨寺の身体は地面に引き寄せられるようにして叩き込まれた。
「——が、はぁ……ッ⁉」
粋羨寺の顔が苦痛に歪み、その艶やかな桃色の唇から鮮血が吐き出される。
「ンギ、ギ、気持ちいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいッ‼」
男は背筋を派手にのけぞらせ、天を仰いで快哉を叫んだ。
苺は、その光景を黙って見ているしか出来なかった。
「あ~、タバスコ……この感覚、マジ、ノーマルで辛いものに敢えてタバスコを振りかけた時と似てやがる……! 非常にいってヤツだぁぁぁぁぁッ!」
地に伏した粋羨寺を認めた男は、「なあ、そうダロ?」と苺を振り向いて問いかける。
「……化け、物……」
苺は震える身体で後ずさりし、怯えた顔をゆるゆると振って恐怖を言葉にする。
「化け物……!」
「良い表情。そしてよくぞ、そのベリーグッドな褒め言葉でこの場にさらなるムードを添えてくれたね。感謝、感謝」
男は踵を返すと、ゆっくり苺の方へ歩を進めていく。まるで獲物を前にほくそ笑む狩人のように。
「あの光はブラフで、本命は『当事者以外不可視』の霧だった。あのお姫様が俺の気迫と切っ先から放つ光に気を取られてくれたからこそ、あのフィッシングは成り立ったんだ。……と、こんなところで解説オケ?」
強者にして狂者。だからこその圧倒的余裕。己の命を勘定に入れてこそ、その血濡れた駆け引きに生き甲斐を見出す、狂った病。
苺は、殺される。
この狂人に。この世界に。
「い、や——」
声を上げて逃げようとした、まさにその瞬間。
苺の瞳に、顔を上げて手を伸ばす、粋羨寺の表情が映った。
高慢で高飛車だった彼女。しかし、人一倍他人のことを見ていて、自分が掲げる心情に嘘はつかない気高き人。
そんな彼女が、涙を流していた。血を出す程に唇を噛み、肩を震わせ、とても悔しそうな表情をして。
何かを求めるようにして伸ばされたと思っていた手は、きっと、苺に『逃げろ』と伝えるためのものだろう。絶対の自信と信頼を向けていた己の魔剣の柄すら、再び掴み取ることが出来ないのなら、せめて、なけなしの力を振り絞って苺だけでも助けようと。
それが、クラスの委員長であり、『紅蓮の剣姫』としての当然の務めであるのだから、と。
粋羨寺色舞が瞳に宿している強い光は、そう、叫んでいた。
「……なに、よ……」
「あィ?」
苺は粋羨寺を見据えて、叫ぶ。
「なによ……! 勝手な自己満足に、私を巻き込まないでよ! さっきまで……あんなに私を貶める気満々だったのに! どうして、そんなに気高く、勇敢に戦えるの……⁉」
どうしてそんな簡単に、迷わず、一歩を踏み出せるのか。苺が何度も足踏みして、その度に俯いて佇んでいた地点を、粋羨寺はとっくのとうに後にしている。
この『差』が、苺はそうしても許せなかった。
そして、粋羨寺色舞という『憧憬』の像が、いとも容易く貶されたことに、どうしようもない怒りを覚えていた。
「なァ、そろそろいいか? ついでと言っちゃあなんだが、オメさんの首もきちんとお姫様の隣に並んで飾ってやるからよォ。だからァ、そろそろ——」
「——きっかけが、あれば……」
「あン?」
自然、苺は立ち上がっていた。
糸義倫語が言っていた言葉が、苺の脳内で反芻される。
「人間、自然と初めの一歩を踏み出せる……」
腰が低く、膝はみっともなく笑い、無様この上ない恰好。最も震えている手で剣を握れば、今にも死にそうな剣士の完成だ。
しかし。
(だからどうした……ダサくて何が悪い!)
苺は己の軟弱で醜い心を、怒りで押し殺そうとしていた。
「なんだ、ただみっともなく怖気づくだけのモブAかと思っていたけど、実はあのお姫様のお友達Bくらいの実力はあったってところかァ?」
「冗談、じゃないわ。あんなトップカーストのお姫様のお友達が、私に務まる訳が無いじゃない」
きっかけは成された。その先も成された。
一歩はもう、踏み出した。
「じゃァ、なんでオメエは剣を握った?」
苺は胸に秘めた決意を滾らせて、毅然とした表情で男を見据える。
——震えは怒りで押し殺す。
もう、迷いなど、微塵も無かった。
「——理想の自分に……近付くためだ!」
その瞬間、苺の脳裏にある一つの情景が浮かんだ。まるで見慣れた映画のワンシーンを再生したかのような、鮮明な記憶。
フラッシュバックにも似たようなその現象が、夜桜苺の、『魔剣術士』としての蕾を息吹かせた。
自分の身に浸透した魔剣の記憶は、握った掌を介して苺に注がれる。
「——『閃剣・スキップアウト』……」
震えが失せた苺は、ギリギリまで腰を低く落とし、右足を後方へ、左足を大きく前へ、右手を胸に付け、左手の指先を切っ先に添えた。
「なァんだよ……血沸き肉躍るとはまさにこのことかァッ!」
男の雰囲気も豹変する。苺のただならぬ気配を感じ、男も『余興』から『本番』へと意識を切り替えたのだろう。
しかし、もしこの場に裁定者が居たとするならば、『遅すぎた』と評価せざるを得ないだろう。何せ、夜桜苺の反撃は、この時既に終わっているのだから。
正確に言えば、決着が約束されているという状態。
そうとも知らずに、男は『ナイトメア』を構えて苺の剣術に備える。
それと呼応し、『スキップアウト』は苺の周囲で一際強い白光を波紋させ、衝撃波を撒き散らす。
苺は、揺るがない瞳でそれを捉えながらも、呼吸すらも忘れた極限の集中状態の中で、密かに感慨に耽っていた。
不思議だ。あれだけ怖気づいていた『一歩』が、こんなに軽く感じられるなど。
不思議だ。今なら何でも出来そうな気がする。
不思議だ。だって、今、苺は。
「——一ッッッ閃——ッ‼」
「な……」
誰よりも速く、音を、光さえも置き去りにした。
男の瞼が下がりかけた時、『スキップアウト』の切っ先は既に、『ナイトメア』の切っ先を穿っていた。
そこからの記憶は、男の頭の中には無い。
——『レーティング:α+《アルファプラス》』。
規模にして『
このコンマ数秒。秒針が一刻先へ進むまでの間のみ。
夜桜苺は、この世の誰よりも、何よりも速く、剣を振るった。
音が消え、色が消え、恐らく刺突の先にあったあらゆるものを貫き、もはや速さや時間という概念すら置き去りにして。
遠く、遠く、遠くへと消えていった。
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