海の華
白藤 桜空
第1話
古びたアパートの階段を派手な柄のスーツを着た男が登っている。スキンヘッドにグラサンという風貌のその男は、武藤と表札がかかっている部屋のチャイムを鳴らす。それは人気のない廊下に耳障りな音を響かせた。
――――今思えば、それがすべての始まりだったのだろう。
武藤
だがひび割れたチャイムの音は耳をつんざくのを止めない。しまいには扉を強く叩く音まで加勢する。武藤は諦めて招かれざる客を迎えに行く。
扉を開けると明らかに堅気でない男が立っていた。警告音が頭に鳴った武藤は、急いで扉を閉める。しかしそれは、黒く尖った革靴に阻まれるのであった。
「武藤さぁん、ひどいじゃありませんか、いきなり閉めちゃうなんて。」
「あ、あなた方のようなのには関わりたくないんだ。それに僕には身に覚えがない。お引き取りください……!」
「いやぁ、武藤さんにはなくてもね、俺らの方にゃ用があるんですわ。」
そう言った男が一枚の紙を見せてきて、武藤は青ざめた。そこには母の名前と母の筆跡で書かれた自身の名前があった。
「一千万、用意してもらいましょうか。」
それからはただ忙しくてあまり覚えていなかった。ひとまず片方の腎臓を売って、残額は毎日寝る間も惜しんで働いて返し続けた。母を恨む気持ちがないわけではなかったが、そんなことを言っている暇があれば働いている方がマシだった。それに母は騙されやすくいつも男で失敗していた。いつかこんな日が来るだろうと多少は蓄えていたが、まさか焼け石に水にしかならない程の額を背負わされるとは思っていなかった。
夜の帳が降りた頃、武藤は次の仕事に向かっていた。まだ時間に余裕があり、とぼとぼと歩いていると一軒の宝くじ売り場が目に入る。
一等一億円!と書かれた目に痛い色ののぼりを見つめる。一億とまではいかなくても、せめて五百万くらい当たらないかな、とふらりと立ち寄り、売り場の不機嫌そうなおばさんから五口だけ購入する。
(明日の朝飯は抜きになるな……)
宝くじを鞄にしまいながら、そんなことが頭に浮かんだ。もはややけっぱちなのか、気分転換ができたというだけなのかは分からなかったが、不思議と足取りは軽く、明日からも頑張っていこう、という気持ちになる。
(今夜は月が綺麗だな)
久しぶりに見た夜空には満月が微笑んでいた。
二週間後。
「嘘だろ?」
武藤は信じられず、思わず呟く。だがその顔は喜びに満ち溢れていた。
今日は宝くじの当選発表の日だった。帰宅すると着替えもせずにいそいそと確認する。たった五口だ。当たってるわけはないと思いつつも、これを楽しみに二週間生きてきたのだ。
当選番号と自身のくじを見比べていたら、数字がみるみる当てはまる。何度見返しても完全に一致している。
「一等……一千万……これは、夢か?」
我ながら古典的だな、と思いながらも頬をつねる。だかそこにはたしかに痛みが走り、じんわりと温もりをもたらした。
「で、電話しなきゃ。返すあてが出来たのと……受け取り方も調べて……ハハ、足が震えてるや……。あッ!」
武藤はおぼつかない足で歩こうとして派手に転び、顔から突っ込んだ。だがそんなのは気にならなかった。そのまま仰向けに寝転がると、満月のような電灯を見上げる。腹の底から笑いが沸き起こる。こんなにも笑ったのはいつ以来だろうか。
人生捨てたもんじゃないな。そう、たしかに思っていたのに。
「先生、嘘ですよね?」
武藤は信じられず、思わず呟く。その顔には絶望と恐怖が駆け巡っていた。
「残念ですが、本当のことです。持ってあと二ヶ月かと……ご家族の方はいらっしゃいますか?」
「えっと……はは……いえ、自分一人です……。」
「そうですか。本当は入院していただく方がいいんですが……ここまで進行していると、ご自身のお好きなようにしていただく方がいいかと思います。どうされますか?」
「その……少し時間をいただけますか?」
「大丈夫ですよ。では、お大事になさってください。」
「ありがとう……ございました。」
挨拶を交わして武藤は診察室を出る。
これは本当に自分に起こったことなのだろうか。
つい数か月前に闇金から解放されたばかりなのに。ちょっと体調が悪いから来てみただけなのに。
頭の中をドタバタと思考が走り回る。会計を終えて外に出ても、目の前に靄がかかっているようだった。
(奇跡は一度しか起きないもんなんだなぁ……)
呆然としながら電車に乗る。平日昼間のほとんど人のいない座席で窓の外を眺める。地元の汚そうな川が太陽に照らされて目に染みた。
ぽろっと涙が一つ零れる。
(……海が、見たいな)
ふいにそんなことを思う。返済しただけで宝くじは消えてしまって、武藤は変わらず仕事に明け暮れる日々を送っていたし、海なんて子どもの頃に母の気まぐれに付き合わされて以来だった。
武藤はそのまま電車の温もりに包まれて、終点に向かうことにした。
……きっとこの時に引き返していれば良かったんだ。海なんて見たところでどうにもならないのに。でもこの時はそんなこと露程にも思えなかった。今もそれが、幸か、不幸か、分からないけれど。それだけは間違いなかった。
車内アナウンスが終点を告げる。がらんとした駅を抜けると、遠目に水平線が見えた。武藤は子どものような笑顔を浮かべ、海岸を求めて歩き始める。
潮風に包まれる頃には、目の前は一面の青の世界が広がっていた。海に揉まれて荒々しく削られた崖の上からは、突き抜けるような青空とどこまでも続くような海が見えた。息を呑むような美しい景色は、武藤の荒んだ心を癒してくれた。
だが、ふいに医者の言葉が頭に浮かんで苦虫を噛み潰したような顔になる。すると突然女の声が聞こえる。
「早まっちゃダメです!!」
そう聞こえたと思ったら、後ろから抱きつかれる。必死に武藤を引き留めるように抱きつく手は細かく震えていた。
「あの……?別に僕は自殺志願者じゃありませんよ?」
「え?……あッ、ご、ごめんなさい。私ったらすっかり早とちりして……!」
そう言って彼女は武藤の体から手を離す。武藤はなんとなく彼女の温もりを惜しく感じたが、気のせいと思って話し続ける。
「いえ、大丈夫ですよ。……あの、僕、そんな風に見えました?」
「ええっと、その……貴方あまりにも疲れた顔をしていらっしゃったから……。」
彼女は申し訳なさそうに話す。思わず武藤は苦笑いを浮かべる。
「そうですか。いえ、ちょっと気分転換に遠出しただけなんですよ。」
「なるほど、そうだったんですね。それならここはぴったりですよ!海は綺麗で、空気も澄んでいて……そうだ!良かったらあそこの海鮮丼食べてみてください!美味しいらしいですよ!」
そう言って彼女は海辺の食堂を指差す。
「へぇ……じゃあ行ってみます。ご親切にありがとうございました。」
武藤は促されるままに食堂へ向かう。女はそれを見送ったが、彼の重く切なげな背中がどうしても気になった。
女は意を決した顔で男を追いかけ、再び声をかける。
「あの!これも何かのご縁ですし、良かったら奢りますよ!」
彼女は満面の笑みで武藤を見上げる。武藤は、初めて向けられた心からの善意に心を撃ち抜かれる。
この笑顔をずっと見ていたい。この瞬間を永遠に閉じ込めておきたい。
彼女となら、残りの人生も輝けるのではないか。
――――ただ、そう思っていただけなのに。
武藤は目の前で手折られた美しい華を見つめながら思い出す。華の左手薬指には指輪が光り、その隣には同じデザインの指輪を嵌めた男が息絶えていた。
「君が、いけないんだよ。僕たちは結ばれる運命だったのに、君がそんな男を選ぶから。だからこれは仕方ないんだ。僕らが一緒になるためには、これしかなかったんだ。」
武藤は男の死体から指輪を抜き取って自身の薬指に嵌め、彼女を抱き上げる。そのまま二人が出会った崖に行き海を眺める。
「君に出会えたから、生きたいと思えたのに……。」
武藤は涙を流しながら彼女に口付けを落とすと、崖から飛び降りる。
武藤は荒波に翻弄されるが、決して彼女を離さなかった。彼女は青く澄んだ泡沫に飾られて、一際輝いている気がした。
(あぁ、君は、こんな時でさえ美しいんだね)
武藤は大量の水を飲み込みながら、華に見惚れる。そうして二人は、海の底で
海の華 白藤 桜空 @sakura_nekomusume
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