第5話 先輩として


「ただいま…」


学校から駅までの道、電車の中、家までの道のり。そのすべてをワープしてしまったのかと思うくらい気が付いたら家に到着していた。しっかり体に残った疲労だけが実感として残っている。


「あ、葵。今日も勉強するんでしょ?部屋にご飯持っていくから」


母親の言葉に”うん”と返事をして部屋に入る。ほとんど肩に掛けたまま動かしていないカバンを降ろして自室の机に座る。


一度整理する。


舞ちゃんが私のことを好き。


そのままの意味でもう”先輩として”という言い訳は使えない。舞ちゃんは決して上手くない言葉だが私の逃げ道を消していた。


キスしたくなるって…。


私には分からない。今までも誰かに告白するまで好きになったことなんて無いし、自分には遠い未来の話だと無意識に思っていたから。


合唱部は女の社会みたいになっていて男子はいない。それが油断を生んだのかも知れない。仮に告白してきたのが男子でも同じ反応になっていただろうか。


平常心を取り戻したくて机に置かれていた問題集を開く。私の頭では合唱部を引退してから勉強してるのでは間に合わないのだ。


宮野葵、模擬試験の解答用紙には見慣れた私の名前が書かれている。しかしもう私だけの名前のような気がしない。


舞ちゃんはどこに書かれた私の名前を指でなぞったのだろう。自分で書いたのか。


告白された時に近い感覚に戻っていることに気が付いてからは勉強どころではなくなる。ペンを置いてベットに腰掛ける。


舞ちゃんの熱を持った瞳を思い出す。


手がかかる程かわいい部活の後輩だった舞ちゃんは恐ろしい熱い気持ちを内に秘めていた。私なんかでは対処できない感情をコントロールして私にぶつけてくる。どちらが先輩なのか分からない。


舞ちゃんはいつから私に特別に好きという感情を抱いたのだろう。女の子に特別な好きという感情を抱いたのは私が初めてなのか?初めてだったら私は嬉しいのか?


退部届を出した時も私のことを特別な好きという気持ちを持っていたからあそこまで考えていたのか。


とにかく分からないことと初めてのことが多すぎて頭が混乱する。そもそも私はこういう相手の気持ちを考えたりするのが苦手なのだ。


カレンダーを眺める今日は金曜日。


良かった…。


制服を脱ぐと私服に着替えて再び考え始める。


次の日は早めに起こされた。昨日はそのまま寝てしまったのでお風呂にも入っていない。シャワーだけ浴びて朝ご飯を食べる。


トーストの簡素な朝食。食べ終わると体に栄養を含んだ血液が回る気がして目が覚める。目が覚めると同時に舞ちゃんのことも全身を回り始める。



今日も勉強どころではない…。


そうさっして再び部屋に戻ってボンヤリと考え始める。ふと振動をしたスマホを眺める。


先輩かな…先輩ならば恋愛も経験しているかも…。


だめだ。舞ちゃんがあんな瞳をして強張って告白してくれたのに他の人に答えを求めるなんてとても不真面目な気がする。それに他人には知られたく気持ちだろうから。



スマホにケーブルをさしてヘッドホンを頭に乗せる。音楽を聞こう。合唱部だからということもないが音楽を聞くのも好き。


ランキングというものはあまり見ない。皆が好きなものが私の好きなものでは無いことが多いから。しかし今だけは大勢の好きなものが見てみたい。


ランキングに入っている楽曲のレビューには”初恋を思い出した”と書かれている。無意識に曲を選択していた。


歌詞は恋愛の気持ちを綴ったものだった。


”お前を見ていると何も考えられなくなる”


舞ちゃんもそうなのだろうか。確かにいつもより言葉が整理されていなかった。


”意味なんてない恋心”


そうなのか考えるだけ無駄なのか…。


だんだん分からなくなっていく。とにかく好きかどうかは理屈ではないのは分かった。


私と舞ちゃんが恋人になるのか…。想像してみる大学に進学しても舞ちゃんは当分は高校生だろう。遠距離恋愛みたいなところだろう。


告白してきたのは舞ちゃんだからデートとかも前を歩いてくれるのは舞ちゃんなのだろうか。何だかそれは嫌な気がする。私は舞ちゃんの先輩でありたい。先を歩いていたい。


何だか答えは決まったようだ気がする。




・ ・ ・




返事を先延ばしにしていることは出来ない。私も舞ちゃんのツライ気持ちが少しは分かった気がしたから。


舞ちゃんはいつもの空き教室に呼び出している。何度も頭の中でリハーサルしても緊張はする。


教室に後からやってきた舞ちゃんはいつも通りの瞳をして動作をしている。私は落ち着きがないと思われていないだろうか。


「舞ちゃん、あの時の返事をするね…」


舞ちゃんは緊張しながらゆっくり頷く。


瞬きのタイミングを見て一歩近づく。そして舞ちゃんの目線に合わせる位置に体を落として唇と唇を触れる。


熱い、柔らかい…。


一瞬動きが止まるがぎこちない動きで少し顔を離す。


「先輩!っ?」


驚いた舞ちゃんの顔を確かめる。



「返事は、こういうこと」


私はキスをすることで返事とした。色々と言葉を並べると先輩としての威厳のようなものが根こそぎ失われてしまう気がしたので行動で封じ込めた。


舞ちゃんの瞳は再び熱を持っている。私の瞳も熱を持っているのだろうか。発熱する全身と同じように熱も持っているのか、それは舞ちゃんにしか分からないのだが。


「先輩、慣れない事してますね」


すると今度は舞ちゃんがこちらに踏み込んできて私の髪の内側のうなじに手を回して自分の体に引き寄せる。


「先輩、大好き!」


顔から火が出るのでは無いかと思う。心臓の鼓動が間違いなく舞ちゃんに伝わっている。


慣れないことをするものではないな。そう思いながらこれから慣れないことを体験する予感がする。  

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先輩の唇 おじん @ozin

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