第26話 二人の決意
空気が緊張し、弛緩する様子はない。
空からはまだ星光がこちらを覗いていた。
「ばか!おにいちゃんはルクスの人たちも魔人の人たちも、何も知らないくせに!ルクスの人たちはみんな怖がりで、マオちゃんたちを頼りきってるけど、みんなね、マオちゃんたちが邪神を倒してくれるって信じてるの!だから、……どうやってるのかよくわかんないけど、その血を預けてるんでしょ!――」
「――マオちゃんは、魔人は、みんなその思いに応えようと必死なの!……取り消して!魔人に悪魔なんていない!!」
ちよはルクスに生きる人をみた。ブリタンで戦う魔人をみた。
そしてそのどちらにも、悪い人はいなかった。
みんな彼女を助けてくれた。
「……でも、ウーは俺たちに、戦争をさせようとしてるんだぞ。この世界を、支配させようとしてる。俺たちの知らない所で、俺たちのせいで多くの人が死ぬ。それにそもそも邪神だっていつ倒せるか」
「――そんなの!みんな死なないようにやればいいんだよ!!」
もちろんそれは不可能である。
これは無謀な、ちよのワガママ。
「んなむちゃな……。こいつ、こいつを殺すだけでいいんだ。それで、ちよの足は治って、……二人で、生きていける。こんな世界なんて、どうでもいいじゃないか!!」
孝太郎にとって、この世界で唯一大事なもの。
彼はそれを守るのに必死で、それでいて聖人などではなかった。
そもそも、邪神に襲われながらまとまらない人間たちにも、血液をすする魔人たちにも、嫌悪感があった。
それでいて彼は、この世界に生きる人を見ていない。まだ知らない。
「ばか!!わたしは、……わたしはっ!誰かを犠牲にして、自分だけ救われる気なんかない!!――」
「――それに!その足が治るって話!かんたんに信じないでよ!……わたしが絡むとすぐいろんなこと見失って!!……もっと自分のこと大事にしてよ!おにいちゃん震えて動けてないじゃん!!」
孝太郎は、ちよのためにヴィルヘルムを殺す、と覚悟したものの、やはり直前になって怖気づいていた。
そして、そんな自分を情けなく思った。
「っ……俺は……ちよの為なら、何でもできる!――そんな男にならなきゃ、そこまで頑張らなきゃ、俺はちよを守れないんだ。……だから、これは武者震いだ!」
「ウソつき!ばかばか!そんなのいらない!――いい!?聞いて!わたしは!邪神を倒して世界を救う!!――それで!足を治して!……おにいちゃん離れするの!!」
ちよは最愛の兄をまっすぐに見て決意を伝えた。
妹のために、自分を追い込んでいくばかりの兄に向けて、高らかに宣言した。
「っえ!?そんな!?……ちよ!?俺から離れないでくれ!!一緒にいてくれ!!」
「ばか!!ずっと一緒にいるよ!!――そういうことじゃない!……おにいちゃんはわたしに、自分を全部渡してる。わたしはそれが、イヤなの」
******
――交通事故から、半年――
孝太郎、大学二年生。経済学部。
将来の夢は、世界を飛び回る貿易商。
彼は人とつながることが好きだった。
人と人がつくる巨大なつながり、そしてその流れ。そのうねりにどこか神秘的な魅力を感じていた。そしてその中に、自分を投じて、世界に貢献ができたら、人の幸せを形作る一部分になれたら。
そう、考えていた。
「やめる……そうか。うん」
「はい。……教授、今までありがとうございました」
研究室の中で、孝太郎と彼のチューターの大学教授が机を挟んで会話している。
部屋の壁には多種多様な本が並んでおり、一角にはファイリングされた書類が一部はみ出した状態で収納されていた。
教授は机の上に置かれたノートパソコンの画面を見つめる。画面には各アプリケーションやHTMLが並ぶ、つまりはデスクトップ画面を彼は見つめていた。
「うん……。仕方ないね。妹さんの介護もしないとだし、ご両親も亡くなってお金もないだろう。……頼れる親戚はいないのかね」
「それが、両親とも実家を飛び出して結婚してて……いません」
「そうか……。仕事は決めているのかね?妹さんの退院まではまだ半年ほどあると聞いたが」
「はい。父の道場を継ごうと思います。師範にもご了承いただきました」
病院に入ると消毒アルコールの臭いが顔に当たる。強制的にかがされるその臭いが、孝太郎は嫌いだった。
何度来ても慣れない。
しかし外の暑さに茹で上がりそうだった体を、程よく冷やされて少し心地よい。
そして目的の病室のドアをそっと開けると、最愛の妹がそこにいた。
カーテンを閉め、毛布を頭から被って動かない。
こういう時、未だにどうしたらいいのか分からない。
静かに入って行けばキモイと言われ、かといって元気よく入れば無視されることが多い。しかし声を上げて喜んでくれる時もある。
結局正解なんてないのだろう。あるとすれば、それはすべてちよの気分次第。
「よっ、ちよ来たぞ」
「……今日は外暑そうだね」
どうにも今日は普通の日のようだ。
孝太郎は少し安心して、おどけたように手に持った袋をちよに向けて掲げる。
「おぅ!今日はあっついぞう。――だからアイス買ってきたぞ!一緒に食べよう!」
お腹を冷やし、尿意を促しかねないが、ほんの少しなら食べても大丈夫だと、医師に確認は取っていた。
「アイス!?」
ちよはやっと毛布から顔を出して孝太郎に答える。耳に被るほどまで、やっと伸びた黒髪が、事故以前の元気なちよを思い出させる。
ちよは、外で走り回ることが大好きな、元気な女の子だった。
日に焼けていた褐色の肌は、今はもうすっかり抜け落ちて、生来の白い肌を取り戻している。
孝太郎はちよのベッドの側に座り、アイスのふたを開けた。
それは少し高めの小さなアイスだった。
「おう!……ほら、一緒に食べよう。あーんして」
孝太郎は木べらでアイスをすくって、ちよの口に放り込む。
「あーん!っんう!おいしい!」
「そうだ!ちよ!退院したらずっと一緒に暮らせるぞ!」
「……え?」
ちよの唇に触れて、木べらの上に乗せられたアイスは動きを止めた。
「ちよ?もういらないのか?――お兄ちゃんな、お父さんの跡を継ぐよ。空手なんて久しぶりだけど、経営のことは分かるから、指導はほとんど師範に任せてゆくゆくは……」
「――なんで!?大学は!?休学終わったら入りなおすって言ってたじゃん!!」
「いや、それは……」
お金の話を持ち出すわけにはいかない。
ちよのために大学を辞めたとは言えない。
「……ほら、道場の人たちも、ここがなくなるのかって不安に思ってたし、それに、その、ほらっ、お兄ちゃん中学生の時に大会で優勝したじゃないか。……だからずっと興味はあったんだよ」
だから孝太郎は誤魔化した。ちよの為にウソをついた。
「……。そっ」
ちよは木べらを持つ孝太郎の腕を押しのけると、毛布を頭に被って黙り込んでしまった。
「ち、ちよ……?」
「……」
ちよはそれきり、孝太郎が何をしても黙ったまま反応しなかった。
中山空手はフルコンタクト空手の中でも有名な流派だった。
兄妹の父は若い時、全日本選手権で何度も優勝し、無敵の中山と讃えられていた。
元居た流派から独立してすぐに、彼は中山空手を立ち上げた。
そして彼に直接教えを乞う猛者たちが集まり、道場一つの小規模な流派でありながら、大手主催の全国大会などで優勝するなどして名を馳せた。
「そっか。ちよちゃん……嫌だったんだね」
師範はそう言って腕を組んだ。彼は兄妹の父の一番弟子であり、共に道場生の指導を行っていた。
「……そうなんですかね。……俺と暮らすの、そんなに嫌なのかな」
「違うよ。……大学辞めちゃったのが嫌だったんでしょ。鈍いね、相変わらず――」
「――……ご両親が亡くなって、まだ半年で色々と辛いだろうけど、でもあんまりネガティブに考えたらダメだよ」
師範は俯く孝太郎の肩を軽く叩いた。
「はい……。ちよの前では、特に気を付けてます。俺が元気じゃないと、ちよも辛いままかなと思って」
「……。うん。そうだね。でも……無茶しないでね」
「はい……」
その話を終えると、孝太郎は道場でかいた汗を流さずにまっすぐに帰った。
――さらに半年後、退院してすぐ――
孝太郎は半年の間に、父が残してくれた一軒家を大幅に改装し、ちよが生活するのに困らないように変身させた。
「おおー……すごい、階段にエレベーターみたいなのがある……」
「そうだろ!?これでいろいろ困らないぞ!」
半年前より肩ががっちりしてきた孝太郎が笑う。
ちよは階段の手すりに取り付けてある昇降機を見て、興味津々に目を輝かせていた。
「まぁけど、ちよの新しい部屋は一階だから、これを使うことはほとんどないだろうな!」
それまでちよの部屋は二階にあった。しかし二階にはトイレもないし、何をするにも不便であることは間違いないので、孝太郎はちよの部屋に会ったものを一階の空き部屋に移動させた。
これからちよの指示でその荷物を配置していくのだ。
「……イヤ」
「――へ?」
「わたしの部屋は二階だよ。これがあるなら普通に生活できるよ。……わたし、わたしは――。……とにかく、二階ね」
「……よし!慣れた部屋の方がいいよな!荷物戻すぞ!」
数日後の夜、孝太郎が帰ってくると、階段の上で泣き疲れたちよがいた。
力なくだらりと下げられた両手、そして目を開けたまま黙って涙を流している。
その股間から階段にしたたり落ちる黄色い水が、ちよが失禁したことを瞬時に彼に教えてくれた。
「……ちよ。ほら風呂行こうか」
孝太郎は慌てなかった。冷静なふりをした。
孝太郎は怒らなかった。尿瓶を使え。と言うのは簡単だったが、それを言ってしまっていいのか分からなかった。
臆病な親切心と優しさが、彼の心を支配していた。
唇を悔しそうに噛んで黙り込んでいるちよは、それでも孝太郎の言葉に頷いた。
「よーし、しっかり掴まってろ」
「……おにいちゃんの服」
「気にすんな、ちよはちよの心配しとけ」
ちよがすぅすぅと寝息を立てている。
昔と変わらず幸せそうな顔でちよは寝ていた。
――本当に、二人で生きていけるんだろうか。
孝太郎はちよが寝入るまで側にいた。
――ちよは俺といて、窮屈じゃないだろうか。
ちよの小さな手が、孝太郎の大きな手を握ったまま離してくれない。
――俺はちよに、何をしてやればいいんだ。
孝太郎は空いている手でちよの髪を撫でた。
――ちよがこの世に残ってくれなかったら、俺は……。
部屋の窓がキシキシと軋む音がして、孝太郎は身を震わせた。
――ちよ。俺はもう家族を失いたくない。俺は、ちよの笑顔を見ていたい。
――……俺はそのためなら、何でもする。
そしていつの間にか、二人手を握り合って眠っていた。
――数か月後――
「こんにちはー」
「おお!?ちよちゃん今日も見学!こりゃみんな張り切らないとね!!いいとこ見せるよ!」
父の残した道場、その入り口で師範と鉢合わせた。
道場生と来客のために置かれた靴箱はもうパンパンで、奥の稽古場からは騒がしい様子が伝わってくる。
ちよは車いすを漕いで先に稽古場に向かった。
「……最近、笑顔が多くなってきたね」
「はい。……書類業務終わったら、僕も稽古に入ります」
靴箱の前で師範と孝太郎は話を続ける。
「……あのさ、大会、やっぱり辞退するの?孝太郎くんはやっぱりセンスあるよ?」
「はい……。やっぱり、ちよが心配なので」
空手は楽しい。自分の実力を試してみたい。孝太郎はそんな気持ちを胸の奥にしまった。
「――おにいちゃん!」
奥に行ったはずのちよから、突然話しかけられて孝太郎は心臓が飛びあがった。
「っお!?ど、どうしたちよ?」
「見てこれ!」
ちよの手にはサポーターがはめられていた。
そして孝太郎に向かって殴りかかってきた。
「シュッ、シュッ!!」
ぽすっぽすっと孝太郎のお腹辺りから軽い音がした。
「おお~?ちよちゃん良い筋してるねぇ!」
師範がそれを見てにやにやと、とてもかわいらしい光景に目を細めた。
「ほんとー!?おにいちゃんのパンチをよく見てるからかな?ねっ?大会楽しみにしてるね!!」
「――っ!……あーうん。お兄ちゃん頑張るよ」
「えへへ!」
そしてちよは笑い。再び稽古場へ戻って行った。
「……孝太郎くん、それは、良くないよ」
先ほどまでとは打って変わって、厳しい顔をした師範が孝太郎を叱った。
「……はい。あとでちゃんと、謝ります」
「はぁー……」
「ごめん!ほんとごめん!そんなに楽しみにしてくれてるなんて思わなかった!!」
次の日の夜、孝太郎は意を決して大会に出ないことを打ち明けた。
こっぴどく非難されるかと思ったが、ちよから返って来たのは長い嘆息だった。
「ねぇ、なんで?どうして出ないの?」
「……それは」
会場の人込み、設備、そして緊急の時に自分がすぐに側に行けるか分からない不安。
孝太郎は過度の不安に自分自身を追い込んでいた。
「――まだブランク空けて一年くらいだし、しっかり自分を作り上げてから改めて挑戦したいなと思って――」
「ウソ。声震えてんじゃん。目も泳いでて丸わかり」
「っ!?……ご、ごめんな。その……色々事情があって……」
ちよが頬杖しながら孝太郎を横目で見る。
ハッキリとしない話を続ける孝太郎は、今も必死で考えを巡らせているようだった。
「……はぁ。――また、わたしのために……」
「えっ?なに?」
「……あーもう!もう一人でトイレくらい行けるし!車いすも上手に動かせるし!!……来年はホント、大会に出るように!!」
「お、おう!」
――やっぱりわたしが、心配なんだよね。
ベッドの中、ちよは考える。
二つ並んだとなりのベッドの上では、最愛の兄が気持ちよさそうに眠っていた。
――わたしは、おにいちゃんのために何ができるんだろ?
どうすれば安心してもらえるのか。
これ以上、兄に自分を捨てさせたくはなかった。諦めさせたくはなかった。
――わたしのために、ムリしすぎなんだよ。ばか。
――二人なら何でもやれるのにな。
ちよが一人でできることは限られていた。限界があった。
――もっとわたしが、一人でも色んなことをやれるようになったら、安心してくれるかな。
――わたしだけを見ないで、もっと自分のことを、大事にしてほしい。
――わたしも、おにいちゃんを支えたいのに。
******
「――たとえこの足が邪神を倒すまで治らなくても、わたし、それでいいよ。けど、もうわたしは、おにいちゃんに甘えるだけのわたしじゃないから。おにいちゃんは、またそんな無理して、震えて、わたしのために、自分にまでウソをついて……――」
「――おにいちゃん、覚えてる?この世界に来る前の約束」
ちよは目を閉じて孝太郎の返事を待った。
きっと覚えてくれているはず。
「……料理、してみるか?側で、俺が、手伝ってやるから……」
孝太郎は、力なく手に持つ真剣を手放した。
カタカタと崩れたような音を立てて、真剣が地面に落ちる。
「うん――今度はわたしからゆうね」
ちよは涙を堪えて目を開けた。車いすを強くつかむ。
「おにいちゃん、いっしょに、邪神を倒そう。この世界のみんなを仲間にして、世界を救おう。二人ならやれるよ――」
「――わたしが、側にいるよ。おにいちゃん。わたしが手伝ってあげる。だから、自分だけ抱え込まないで、勇気出してわたしに甘えて」
「……そんな……。いいのか……?」
不安そうな孝太郎の声が聞こえて、ちよは力強く頷いた。
「いいにきまってる!!」
――わたしもおにいちゃんを支えるんだ。
――そしていつか……。
――おにいちゃん。わたしの足が治ったら、疲れて帰ってくるおにいちゃんに鮭のムニエル作ってあげる。わたしがあの時料理したいって思ったのは、おにいちゃんのためだから。
――わたしは、おにいちゃんと支え合って生きていきたい。
「ちよ……。ごめん、ちよ。俺は、お前の為を考えて、また、空回りして。お前が、そんなに強くなってるなんて思わなくて。怖がってた。……もう、失いたくなくて」
孝太郎は覆いかぶさるようにちよを抱きしめた。
彼の泣いた顔はぐちゃぐちゃで、それでいて体は震えていた。
「うん、もう無理しなくていいよ。わたしがいるよ。すぐ、そばで、おにいちゃんを支えてるよ」
ちよは孝太郎の胸の中でその体温を分け合う。あの日と同じように、その心を芯から暖めていた。今度は、互いに。
「ふーん」
イングリットもウーも、そしてちよも孝太郎も、ヴィルヘルムを除いて涙を流す空間に、不躾に引き裂くような声が響いた。
「あらあら素敵なお話ね」
同じ声が続けて聞こえる。
そして暗闇から滲むように姿を現したのは、二本の巻き角、白い髪、紅い瞳が深淵に輝く美しい少女。
「――でもそれって、とんだファンタジーだわ」
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